- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004316671
作品紹介・あらすじ
「同窓生」であり、ベストセラーの著者であり、禅に打ち込んだ。-これまで論じられることはなかったが、日本を代表する二人の知性の間には、多くの共通点がある。綿密な考証にもとづいて、かれらを包みこんでいた時代環境や知的ネットワークを解きほぐし、近代日本の思想課題を明らかにする、精神史的評伝。
感想・レビュー・書評
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漱石と西田幾太郎というセットで、時代を論じようとしているのだが、何となく注釈本になってしまっているのが残念。直接、小林の「漱石論」「西田幾太郎論」に行った方がよさそうですね。
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霞ほどの接点しかないのに。
両者を対比して描く。
具体的な接点があったら、もっと。 -
漱石は解るが幾太郎には難解意識が残る。両者とも孤独を思索し内省する。
著者曰く、「ひとり自分の内面世界にとどまって、ひたすら自分の想念をめぐらす作業である。これは告白と言うものに近い。・・・告白が一般化するのはさまざまな分野で自我意識が全面に出て来る近代以降のことである。」と。 -
2018年11月読了。
「没落する家から生まれる独立の精神」(第一章)、多分に個人の意地っ張りな気質も影響しているのだろうが、博士号授与を拒否する漱石の「あらゆる形式上の符牒や肩書から解放された自由な個人でありたいという願望」(36ページ)、こういうところが今日尚漱石を漱石たらしめているのだと、個人的には思いたい(ある種の憧れでもある)。
森鴎外の「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」も同根)。
社会的にどんな立場になったとしても、自由でいることを大事にして、それを阻もうとする諸々は、全力で回避するようにしたい。 -
明治の初めに生まれた2人の知識人の歩みたどりながら、彼らが生きた時代の息吹を描き出そうとしている。彼らがどのような場所でどのような師や友人と出会い、また彼らの周辺にどのような人々が集まったか。また漱石の小説と西田の著作の背景にある共通した思いなどを探ることによって、当時の知識人の置かれた状況が浮き彫りにされている。
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17/09/11。
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二人は面識はあったようだが、特に深い付き合いがあったわけではなさそうだ。しかし、同じ時代を生き、日本が西洋の思想を取り入れていく中で、同じように苦悩があったのだろうと思う。私自身は、夏目漱石はほとんどの作品を読んできたが、西田幾多郎は「善の研究」を20ページほど読み進んだところで停止したままになっている。刊行当時ベストセラーになっていたようだけれど、皆最後まで読み切ったのだろうか。夏目漱石はドラマでも観たのだが、どうしても、あの人物の周りに人がたくさん集まるということが信じられない。人当たりがいいという感じではなく、どちらかというと気難しい人物だ。家族に対してもかなりつらく当たっていたように見える。私もどちらかというと神経質な性質で、細かいこと(履き物がそろっていないとか、ゴミが落ちているとか、机がまっすぐになっていないとか)がすぐ気になる。心に余裕があるときは自分で直すのだが、気が立っていると人にきつく当たってしまう。嫌われる。ということが多い。夏目漱石と自分を比べるなどとはおこがましいが、私が想像する漱石の性格で人が集まるということは、その気難しさを十分に打ち消すだけの強い魅力を備えていたということなのだろう。だからこそ、あのような作品が残せたのだろう。
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東2法経図・開架 B1/4-3/1667/K
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121.6||Ko
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烏兎の庭 第五部 書評 7.9.17
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