- Amazon.co.jp ・本 (309ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006000226
作品紹介・あらすじ
東西の古典に通暁した碩学による明快率直な論語の新解釈。論語のテキストとしての成立過程と二千年にわたる訓詁学の歴史を見据えながら、市井の教育者孔子の発言の真意に迫る。伝統的な注釈に縛られずに生きた言葉のリズムや文体を吟味し、大胆な推理によって、目の醒めるような新しい読みを提示する。
感想・レビュー・書評
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『現代語訳 論語』といっしょに買っておいた、同じ宮崎市定氏のこの論文集、後半は専門的でちょっと難しめだったけど、どれも興味深いテーマなのでおもしろく読めた。
本書を読んだことで、さらに『論語』という書物の特殊性と奥深さを知ることができた。
とにかく宮崎先生が、おもしろい。
お茶目と言ってもいい。
〈注釈家の通弊は、人に尻尾をつかまれることを恐れて、ひたすら無難で安易な解釈を選び、結局一番つまらない内容に落ち着かす点にある。注釈家の手にかかったならば最期、抑揚のリズムも、照応のアクセントも一切駄目にされ、どんな名文でも見違えるほど退屈な説教に化けてしまうのだ〉なんてはっきり言っちゃってて、もう、清々しくすらある。
「論語を読んだ人たち」では、『論語』の研究者たちがそれぞれの解釈をめぐって批判し合っているのを冷静に分析する宮崎先生の図、というのが見えて、可笑しくてニヤニヤしてしまった。
『論語』って、漢学者や、古典を研究する人ばかりが訳しているわけではないのね。
何を専門に研究しているかによって、漢字ひとつの解釈がこんなに違うとは。
古典の文献を絶対視して、一字一句こだわって無理にわけわからん解釈をするよりも、宮崎先生のように文献の誤りの可能性を考え、全体的に自然に意味が通るように、柔軟に解釈する方が、私は好きだな。
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岩波現代文庫
宮崎市定 「 論語 の新しい読み方」
著者の孔子像に沿って論語を解釈した本。解釈根拠も明示し自然な解釈だと思う。論語の説教臭さ、人間には実践不可能な理想論、冗長さは感じない。吉川幸次郎 氏の論に近い
学而第一の第一章を、孔子の自叙伝と位置づけ、孔子像を明確にした上で、礼、仁、君子を 具体的に定義している。とてもわかりやすい
天命や天について詳しく論述。「五十にして天命を知る」を「五十にして、人事を尽くして天命を待つ心境を知る」と訳している。なるほどと思う。天は神と同義として、論語を宗教から 人道主義へ展開したものとしている
学而第一の第一章=孔子の自叙伝
*前に学んだところを、時を決めて皆集まって総ざらえする。こんな楽しいことはない
*思いがけず遠方から友人が訪ねてきてくれる。こんな嬉しいことはない
*誰も自負を認めてくれないが、そんなことは気に留めない。そういう境地に私はなりたい
孔子像
*孔子は礼の師〜市政の教育者であり、弟子は就職希望者
*孔子は隠者ではない、弟子の就職を斡旋しなけらばならない実際家
礼とは
*国家的な儀式、個人の家の吉凶祭喪の儀礼
*儀式そのものに含まれた精神〜謙譲の精神
学んで時に之を習う。亦悦ばしからずや
*論語の学習の対象は 礼
有朋遠方より来る。亦楽しからずや
*全く思いがけない遠方からの客の来訪こそ人生の最大快心事
人知らずしてうらみず。亦君子ならずや
*人知らず=世間に認められぬ
*君子=聖人と異なり、現実の社会にいくらも存在する人格者〜努力すれば達する→そういう人になりたいという願望
孔子は人道主義の学問を唱えた
*仁とは、人の道、人道主義、ヒューマニズムのこと
*人の道に対立するのは、神の道、天の道、宗教
*これまで人の道は天の道の中に包含されていたが、独立して人の道になり、天の道に代わって人類を導くようになった
吾十有五にして学に志し〜五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従って矩(のり)をこえず
*天命を知る=人事を尽くして天命を待つ心境
*耳順う=どんな悪口を言われても腹が立たなくなった
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宮崎先生は歴史家だから、論語なんか読まないのかと思ったら、論語の新しい読み方を講義されていた。それらを収録している。
では宮崎先生の新しい読み方とはどんなものなのか。それは論語を歴史的に読むことにあるという。これまでの論語の読み方は経学的な立場の読み方だそうだ。経学的立場とは伝統的な注釈を読んでからそれに従って本文を読むことだ。それに対し歴史的な読み方はそういう一切の前提を無視する。そのように見て本書を読んでいくととても面白く読めてくる。
論語に頻出する「君子」をどう捉えるか。宮崎先生の論はこうだ。
「君子という言葉は小人に対して用いられ、初めは地位のある人を意味したが、後には有徳の人を指すようになってきた。孔子ももちろんその用法に従っている。」
と言いながらも
「『君子』という言葉の中に願望の意味が強く存在することから、論語の中で君子という場合は、『諸君』 という呼びかけの意に解するとよく意味の通ずる場合がある」
君子去仁。悪乎成名。
「君子(諸君)は仁を去りて、いずくんか名を成さん。」
はその一例。
このように宮崎先生は従来の凝り固まった注釈による論語の読み方に一石を投じた。そしてどうしても納得しかねる場合は、論語そのもののテキストに誤謬が存在するのではないかと疑い、では正しいテキストはどうなのかまで推定する。(従来はテキストをいじることはご法度とされた。)そこまでして新しい読み方を追求する宮崎先生の姿勢に感服すると共に、その新しい読み方は非常に納得させられるものがあった。 -
久しぶりの論語関係の本です。著者の宮崎市定氏は著名な東洋史学者。宮崎氏の著作は、以前「雍正帝―中国の独裁君主」を読んだことがあります。
本書は、その宮崎氏による論語の新解釈が中心ですが、そのほかに、他の研究者による様々な「論語の読み方(解釈)」も紹介されています。そのあたりは、かなり専門的で正直なところ私の知識や理解力では十分にはついていけませんでした。
ただ、ところどころで開陳されている宮崎氏流の「読書」の楽しみ方については、結構興味深く読むことができました。