- Amazon.co.jp ・本 (300ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006001391
作品紹介・あらすじ
起源と目的をもつ「大文字の歴史」が終焉した後、歴史はいかにして可能かを問う。柳田国男の口承論、解釈学、ナラトロジー、科学史における歴史叙述などの成果を踏まえて物語り行為による歴史を追求し、小さな物語のネットワークとしての歴史の可能性を考察する。単行本を増補し、物語り論的歴史哲学を深化させた新編集版。
感想・レビュー・書評
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歴史、科学、文学、哲学を物語るという地平から位置付ける。増補前からあった物語り論、歴史論が出色だと思う。柳田國男に対する評価を新たにした。
ただし、前提とされる哲学的教養レベルが結構高い。誰にでもわかる昔話論みたいなものを想像していると痛い目に合う。
・「物語の衰退」は同時に「経験の衰退」をも意味する。
・理解不可能なものを受容可能なものへと転換する基盤である「人間の生活の中の特定の主題への連関」を形作ることこそ「物語り」のもつ根源的機能。
・リアリティとアクチュアリティ(理解可能と受容可能。非人称的科学と人称的科学)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
歴史は物語行為によって成立するものだという議論です。
この本を購入したのはずいぶんと昔。ずっと積読になっていました。最近、あるとき、電車で、となりに座っていた初老の男性が、この本を読んでいたのです。それをみて、「自分も読まなくちゃ」と思い立って、でも、それからさらに2年くらい経って、ようやく読み始めました。
まあ、なんとなく予想できる範囲内で議論が展開したなあという印象でした。【2019年8月16日読了】 -
大変面白いものだった。しかし、同時に(哲学上の)疑問が残った。あらゆる問題系を物語り論に回収し、「物語りえぬことには沈黙せねばならない」との結論は少々違和感が残る。もう一つの違和感は、柳田国男を引き合いに出していることだ。つまり、近年の物語の復権と柳田の物語の墨守は簡単にパラフレーズできるものではないのに、そこをつなげてしまっていることに問題がある。これでは、かつて丸山真男が批判した「一周遅れのトップランナー」としての日本を想起させることになる。
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「物語る」ということは、どういうことか。僕としては、パターン・ランゲージを用いた対話ワークショップの意味と意義を考えるために参考にしたい。
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(後で書きます。内容としては「物語としての歴史」への言及が中心的位置を占めているが、後書きによれば、歴史学における言語論的転回の議論を踏まえたものではないということ)
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「物語」と「歴史」の関係、そして科学、文学、宗教との関係を「語る」行為で読み直す一冊(「物語論的歴史哲学」)。
本書によれば人間とは、「諸々の出来事を一定のコンテクストの中に再配置し、さらにそれらを時系列にしたがって再配列することによって、ようやく『歴史』や『世界』について語りはじめることができる」「物語る動物」。
だとすれば、既成の世界イメージを異化する新しい物語の語り部は、文学だけでなく科学の分野からもそして、哲学の文屋からも出現可能。
野家先生といえばローティの紹介者というイメージが強いのですが、本書を一読すると、そのイメージも一新する。哲学紹介者ではなく、日本人の哲学者がここにもひとり。 -
凄く面白かった。私には難しくて時間がかかったけれど、非常に有意義な読書だった。
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今年、最大の収穫。脳内のシナプスがバチバチと火花を散らしながら、次々と新しい回路を形成した。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090904/p2 -
過去は知覚できない、という大前提に立って、そこからいかに「歴史の物語り」をつむぎ、意味のネットワークのなかに組み入れることができるか、ということを哲学的に考えた一書。
「ある物語文が真実であるか虚構であるかは、それが「証拠」に基づいた「主張可能性」を有し、歴史叙述のネットワークの中に「整合的に」組み入れられるか否かにかかわっている」(p181)
「いわゆる歴史的真実はその時点での「暫定的真理」または「仮説」の身分に留まる」(p181)
だそうだ。うーん、そうか…。 -
野家先生の本にはじめてふれました。最初はペダンティックに思えましたが、読み終わることには非常にわかりやすいということに気づきました。秀作だと思います。
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A.C.ダントー『物語としての歴史』(国文社)における「分析的歴史哲学」という見方に触発された著者は、歴史記述の可能性を「物語る」という行為に見出し、柳田國男とW.ベンヤミンの両者の主張にこそ近代の「物語」喪失への危惧であったことをとば口としながら、歴史記述、言語行為、学問的言明(文学・哲学・科学)の各方向から「物語り」の意味を捉えていく。「物語る」ということは、世界を事物総体と捉えるのではなく(反実在論)、出来事の網の目と捉える(存在論)うえで、解釈学的行為である。そして歴史的な時間とは、流れるもの(物理学的時間)でも、知覚が捉える現在の振り幅としての過去・未来の把捉時(現象学的時間)でもなく、これらの異なる時間の像の重なりあうもの(解釈学的時間)であって、記述者の立場によって当然解釈は異なるものであり、その意味では解釈の解釈とならざるを得ないものが、歴史における物語り論というポイエーシス(行為)なのである。哲学における議論にとどまらない幅広い視野がすばらしく、本書を魅力的なものにしている。