- Amazon.co.jp ・本 (298ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006001421
感想・レビュー・書評
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福沢諭吉『文明論之概略』精読
著:子安 宣邦
岩波現代文庫 学術142
1835年 中津藩の大阪蔵屋敷で生を受けた福澤諭吉は、1860年(25歳)、1876年(32歳)、2回留学しています。
本書は、1875年40歳のときに記したもので、アメリカの影響を強く受けた福澤の文明論=西洋の civilization 論です
儒教嫌い、国体嫌いであった、福沢が目指したのは、日本に、欧米の文明を導入し、世界に伍する、大国にすることであった。
気になったのは以下です。
■第1部
・福沢諭吉の文明論とは、東洋の中国やインドの文明を含む一般的なものではなく、明治時代の 西洋の civilizaiton のことを指しています。
・文明化というのは、西洋の近代文明を自国へ導入することいっています。
・福沢諭吉は、かっての中国文明ような先進性を日本に導入することを文明化といっているのではなく、具体的に西洋文明をあらたに日本に導入することを文明化といっています。
・人と人との交際、人民の交際とかは、欧文における society のことをいっています
・文明論的には、世界は3つに分けられる。文明国、半開国、野蛮国である。欧米は文明国で、トルコ、中国、日本は半開国、アフリカ、オーストラリアの国々は野蛮国としている
・野蛮国とは非社会的自然状態をいうわけでなく、進歩を志向しない停滞する社会です
・半開国は、すでに国家としての体裁も整え、都邑も盛んであり、学問も文化もそれなり遂げている。学問はあるけれど、実学を勤める者は少ない。
・文明国は、進歩する社会である。進歩する社会を支える人々の気象とは能動的であり、独立性であり、革新性であり実学性であり、そして計画性である。
・福沢が志向する文明国とは、近代国家として歩みだした日本が、覇権主義的なヨーロッパへの同一化の道を歩むことだった。
・日本の文明史観、国体論からの脱構成、その批判的な再構成へ向かうべきであるという、当時としての過激な論法をとっている。
検閲を始めていた明治政府からはこの部分が本書から削除された。
・中国の三千年の歴史の中で、言論の自由があったのは、周末の百家争鳴の時期のみであるといっている。そもそも、専制政権と百家争鳴とは相いれないのだ。
・中国の専制的帝国と儒教の単一的国教化と相関的である
・日本では、一系万代の風があったが、神政尊崇と、武力圧制の二元的分立化を行っていたことは、まさに歴史の僥倖といっている。
中国よりは、日本はましであるということいっているのである。
・文明論と日本の国体論とは、ある制約下では可能であるが、3つの問題があるといっています。
① 臣民的国家という日本国家固有の体裁という意味での国体観念をめぐる問題
② 天皇制的国家体制が正統的であるという意味での国体観念の問題
③ 皇統の連続性という、日本国体観念の中心をなしている問題
絶対的国体観を解体し、国体を nation(国家、国民)の概念をもって置き換えることが必要であるといっています。
・国体の断絶の問題は日本の現代史において重い意味をもっている。
福沢が予感したとおり、太平洋戦争の終戦において国体の護持は、多数の一般国民の無意味な死をまねくこととなる
戦争終結時に、人民的国体を犠牲にして、天皇的国体を護持したことになる。
守るべきは、一国の人民の独立であるべきだ
・政治体制が正統性をもつというのはどういうことは、政統論 political legitimation といっています。
日本では、皇統の連続性の問題です
・国体を保持するには、人民の智力を前進させること、すなわち、文明化こそ、日本の喫緊の課題といっています
・すなわち、皇統と、国体(nation) との並立、君国並立的政権が、実現可能な、国体論といっています。
・文明とは、相対概念であり、文明化とは、野蛮を離脱し、進歩する過程である
■第2部
・1名、2名の英明の士がいるだけで、その国が文明的であるとはいわない
そもそも、文明とは人民の智徳の発達した有様をさすのである
・国人民の気風すなわち人民における智徳のありかたが、一国の運動の源だと福沢はいっています。
・文明の礎となっている富有の基は、正直、勉強、倹約の3つです。
・歴史の定則性を見出そうとするなら、一国あるいあh、一社会の人心を一体として見る視点が必要である
・一国の歴史的形勢といった問題は、従来、史論として論じられてきた。
史論とは、頼山陽の日本外史に代表されるような、一国の治乱興亡を人物中心てきな物語的歴史として語り、その間に人物批評による歴史批判が交えられる歴史言説である。
・一国の指導者にできることは、その人民に働きを妨げず、その力のたくましく成長させるだけである
・孔孟は時勢を知らず、春秋時代に覇者を助けた管仲を儒家は評価しない。孔子や孟子ほど、覇術を競う時代に役にたたず、管仲こそが時を知っていたと説く。
覇業に役に立たない儒教は不要であると、福沢は切り捨てる
・同様に、楠木正成と、足利尊氏をして、国体論や皇国史観は、王政復古をスローガンとする正統的な国家イデオロギーであったと看破する
後醍醐天皇と楠木正成もまた、時勢を知らずなのである
・反論として、時勢は人心にありという。人民の気力であり、気風である。という
・文明には衆論が必要。衆論とは一国人民の間に分賦せる智徳の有様が現れたものとする
しかして日本人民は口を開かず、議論を発せずと、怒りをあらわにする。開くべき口を開かず、発するべきの議論を発することのないのは驚くのみと歎ずる。
これをもっても、日本は文明国とはいえないといっているのである。
・福沢は、智徳を智と、徳とに分ける。徳とは、徳義といい、西洋ではモラルという
徳の意義を教えることはできるが聞かせるまでだ。徳が体得できたかどうかは、学習者のみしかわからない
智とは、文明論的な知識・知性という
・教えそのものに文明と未開の違いがあるとはいっていない。文明的な教えになるかならないかは、それを伝える教師と、それを奉じる人民の智力の違いによるといっている。
・独立人民と政府の関係、ラジカル・リベラリズムといっている。福沢の記述は、ルソーの社会契約論によっている
・福沢が要求しているのは、政府と人民との対等な関係である。しかして、日本ではそうではない。
・日本が向かおうとしちるのは、規則ずくめ、法律づくめのありかたをしめしている
■第3部
・第3部は日本文明の批判である
・日本文明とは権力偏重の文明である
・日本は古来、政府朝廷の確立以来、治者と被治者とにはっきりと分かれ、二元素しかないかのようだったという
・日本の政治は、非治者たる人民からいれば、傍観者にすぎなかったという。日本の人民は国民ではないと説く
・人民が見物人であるというのは、人民が国家の1つをなしていないといってるのである
逆にいえば、政府のみが国家であるということだ。福沢いわく、日本には政府ありて、国民なし
・明治政府の眼前にあるのは、官のみであり 民は存在していない
・再び国体論、天王中心主義てきなしょなりずむなりずむが、国家神道的イデオロギーをうみだしながら、天皇制国家主義を形成する
そして、それが昭和日本を席巻していくことまでは福沢は予見できていない。
・しかし、文明論では、日本の将来にとって大きな危惧であることを福沢は語っている。
・また、福沢は、キリスト教を一視同仁の福音ととく普遍主義的な文明的世界主義者である。
・福沢はまた、国際社会を商売と戦争の2カ条からなる世界であるとする
明治の初期にて、国際交際とは、先進諸国と不平等な関係を強いられた関係をいう
・日本の文明化とは、この不平等条約、国際交際を解消することこそが急務であるとも説く
・そしてその方法とは
①自国の製造物を輸出して異色の品を輸入すること
②自国の人民を海外へ移民して殖産すること
③外国に資本を貸して、その利益を取り、自国の用に供すること だといっている
目次
序 今なぜ「文明論之概略」なのか
第1部
■精読1 「緒言」1 日本の課題としての文明 その1
■精読2 「第1章 議論の本位を定る事」 2 日本の課題としての文明 その2
■精読3 「第2章 西洋の文明を目的とする事」その1 3 日本文明化の基本設計
■精読4 「第2章 西洋の文明を目的とする事」その2 4 「国体論」の文明論的批判
■精読5 「第3章 文明の本旨を論ず」 5 文明的社会と政治体制
第2部
■精読6 「第4章 『国人民の智徳を論ず』その1」 6 一国が文明的であるとは
■精読7 「第4章 『国人民の智徳を論ず』その2」 7 一国の文明化と歴史の見方
■精読8 「第5章 前論の続」 8 文明論的な社会動態史 ― 智力と衆論
■精読9 「第6章 智徳の弁」 9 文明的な知性とモラル ― 「智徳」の再構成
■精読10 「第7章 智徳の行わるべき時代と場所とを論ず」 10 目的としての文明社会 ― 智力の行われる社会とは
第3部
■精読11 「第9章 日本文明の由来」 11 日本文明の批判 ― 権力偏重社会とそのイデオロギー
■精読12 「第10章 自国の独立を論ず」 12 一国の独立と文明化 ― 後進国文明化論
結び 『文明論之概略』と問い直しの課題
あとがき
ISBN:9784006001421
出版社:岩波書店
判型:文庫
ページ数:272ページ
定価:1100円(本体)
発売日:2005年04月15日第1刷詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
福沢諭吉の『文明論之概略』を、「近代」や「国民国家」に対する批判的な視座から読みなおしをおこなっている本です。
『文明論之概略』を精読するという試みには、丸山眞男の『「文明論之概略」を読む』全3巻(岩波新書)の先蹤があり、近代主義者ないし国民国家論者とみなされる丸山の解釈に対する著者の批判が随所で語られています。たとえば、丸山が「文明化」をいわば「未完のプロジェクト」とみなし、そうした観点から『文明論之概略』を時代を越えた意味をもつ「古典」として読み解くべきだと主張しているのに対し、「近代」を相対化する立場に立つ著者は、この書を「あくまで近代日本の黎明期の著作という歴史的な限定をともなった」著作として理解するべきだという見かたを打ち出しています。
たとえば、福沢が「文明化」を日本の課題として受け入れ、人間社会の歴史を「文明史」という観点から見ようとしたことは、文明社会のカウンター・パートである未開ないし野蛮を発見することであり、ヨーロッパ対日本の構図が、日本対中国という構図に再生産されていることを著者は指摘します。そしてこのような福沢の文明論の道筋が、脱亜論へと通じていることに目が向けられています。
近年の丸山批判と歩調をあわせるようにして『文明論之概略』の読みなおしをおこなったもので、著者の基本的な立場から予想される内容を大きく出ることはなかったのですが、おおむね興味深く読むことができたように思います。 -
丸山真男の「読む」への対抗心がすごい… 福沢がかなり明快に書いているだけあって、内容に大きな違いは出てきようもないので、どうしても些末な解釈の違いを強調するようなことになってしまうのかもしれない。ただ最後の福沢の「怒り」についてはこちらの本に分があると思う。しかしながら福沢の言っていることが現代の状況でもほとんど通用するのが凄い。現在こそ切実な問題になってきていて、さらに読む価値のある本になっているのではないかと感じた。
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原典精読の体裁を取りつつ、丸山の『読む』を批判する内容。アジア関係を重視するあまり総じて脱亜論者福沢を否定的に解釈しようとする意図が感じられるし、やや深読みが過ぎるという印象もある。また、「原典にぶつかっていく」テクスト重視の丸山に対してコンテクスト重視の著者という思想史へのアプローチの違いも感じられる。ただし、丸山解釈を「相対化」する事により、「一方に偏す」ことを回避する意味でも本書を読んでおく必要はあるだろう。
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