ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと (岩波現代文庫 文芸 156)
- 岩波書店 (2009年11月13日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (301ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006021566
作品紹介・あらすじ
『モモ』『はてしない物語』など数々の名作児童文学で知られるミヒャエル・エンデが、自らの人生、作品、思索について、翻訳者で友人の田村都志夫氏に亡くなる直前まで語った談話。作品の構想のもととなった、現代の物質文明の行きつく先を見通し、精神世界の重要性を訴えたエンデの深い思想が、語りを通して伝わってくる。各章冒頭、巻末に田村都志夫氏の解説付き。
感想・レビュー・書評
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ミヒャエル・エンデ(ドイツ・1929~1995)の『モモ』は世界的なロングセラーだ。私もあどけない少女モモの長年のファンだが、そんな作者エンデの対談を読むのははじめて。いや~饒舌で、エンデの文学・芸術論や彼の哲学もうかがえて興味深い♪(私としてはもう少し読みたい、踏み込んでほしかったなぁ~)
<ユーモアとはなんだ?>
エンデいわく、たとえば「理想主義者」は人生の平凡な事実を見ようとしない、そう、偏平足や虫歯の穴を。こんな例え話にニヤリとし、一方で「現実主義者」は、理想はすべて幻想だと言い、偏平足や虫歯の穴だけを見る。きゃはは~膝を打って笑った!
ユーモアは、こんな狭量なモノの見かたの両方を引き受けながら、ある種の結合する力があるようで、おおらかな態度、善意や好意と結びつく傾向にあるとエンデはいう。たしかに人間はまちがえる、性懲りもなく何度も、そして弱くて滑稽な生き物で、大きな理想とままならない現実のギャップにさいなむやら悪態をつくやら……そんななかでユーモアは他者の立場で冷静に見つめ、滑稽な自分すら笑い飛ばすことができる多角的な目から生まれるのだろう。
あのピエロの原型でもあるよう。人間のもつ両義性や滑稽さを「王」にさえ指摘することが許され、神に触れた存在として畏れられた、まさに他者の目をもつ賢者。賢者と言えば、なんといっても愛すべき『ドン・キホーテ』、ユーモア(滑稽)小説の代表だ。
<余白の豊かさ>
「人間には神話が必要なのです。神話は人間の生の矛盾を、ひとつの物語やひとつの絵にまとめてくれます。人はそれを指針にできる」
人間のもつ両義性や陰陽や矛盾した側面は、洋の東西の悩ましさ、太古の昔から今もこれからも連綿と続くだろう。エンデは「間」の空間を模索している。茶碗の中の空間、神殿の柱と柱の間の空間……虚無の空間がなければ別の面を見ることはできない、多義性も失い、平面世界の住人となってしまう。そんな彼の語り口は、東洋思想や老子の世界を彷彿とさせる。また人間を小宇宙、外的世界を大宇宙として、その調和や相応関係を問うこと、外と内との合致を目指す西洋の「錬金術」をも思い起こさせる。人間存在の不思議、古今東西の類似の思想は、いつまでも色褪せることなく人々を魅了するはず。わたしの興味も尽きることがなく、ちかごろ少々もてあましている。
<虚構の真実>
「芸術は嘘だ、が、この嘘は、わたしたちに真実をみせてくれる嘘なのだ。芸術が嘘だから、わたしたちはそれを通して真実をみることができる。それが虚構だと、わたしたち知っているからです。それを忘れたときには、芸術は猛毒になってしまう」
ふと作家イタロ・カルヴィーノのクールな言葉ともつながって楽しい。古典を読む人は……時事問題を絡めた読書をしなくてはならない、さもなければ無限の空間に放り出されてしまう。騎士物語を読みすぎたドン・キホーテにならないよう気をつけたい♪
たしかに物語や文学は虚構の、嘘の世界にすぎない、そんなものを読むのは時間の無駄だ、と言う人もけっこう多いし、わたしのまわりにも何人かいる。
でも古今東西の人間という不思議な存在を、あれやこれやとじっくりながめることができるのは、神話をはじめとしたすぐれた物語や詩歌や絵画をはじめとする芸術以外にはないだろうと思う。ユーモア(滑稽)や多義性を楽しみながら想像をはたらかせるのは、およそどんなゲームよりも楽しいかもしれない。
気さくなエンデの語りをながめているうちに、ふと、あの作家が思い浮かぶ。わずか数行であっというまにベトナムのジャングルへ連れ去り、読み手を圧倒する。そう、これが物語の力だ。
『あることは実際に起こっていないかもしれない。でもそれは真実以上の真実でありうる。たとえばこういう話だ。4人の兵隊が道を歩いている。手榴弾が飛んでくる。一人がそれに飛びついて身をていして3人の仲間を救おうとする。でもそれは大量殺傷用大型手榴弾で、結局みんな死んでしまう。死ぬ前に一人がこう言う。「お前なんでまたあんなことしたんだ?」飛びついた男がこう言う。「一世一代ってやつだ、戦友」と。相手の男は微笑みかけたところで死んでしまう。
これは作り話だ。でも本当の話だ』 (ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』)(2021.7.4)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
絵を描くように書くことについて、遊びについて、西洋の価値観と東洋の価値観の違いについて、余白について、戦争について、身体性と精神性について、経済システムについて、死について。
面白いところと、ちんぷんかんぷんなところとどちらもあった。
ミヒャエル・エンデは加藤周一と同時代を生き、二人とも「第二次世界大戦を起こして敗れた祖国」という原体験を共有している。二人とも異文化と比べながら祖国を批判的に振り返るという共通した態度をとっているからか、言っていることに共通点がある気がした。
一個だけ面白かったエピソードを紹介。
『モモ』全編にセミコロンが使われていない理由を理論立てて論じた研究が正しいかと問われたエンデは「わたしがそのころ使っていたイタリア製タイプライターにはセミコロンがなかったのです。」と答えたとか。
古典文学作品の解説本で「それは解説者の考えすぎでは…」と思ったことがあったので、「やっぱりそういうことあるんだ!」と面白かった。
「ほとんどの場合、ことはもっと近くにあるし、もっと簡単だし、シンプルなのです。解釈者が思うほど、そんなにおそろしく秘密めいてもいないし、深遠な意味があるわけでもない。しかし、時折には、作者が大体気づいているよりも、はるかに深い意味のことが成り立つ。あとになってから、書いた文に何重もの意味があることがわかってくるのですが、たいていはそうしようとするのではなくて、それは起きるのです。」 -
言葉で表現できないが、なんとも言えず優しく、どこか懐かしいエンデの温かさに触れることができた気がする。
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エンデ 「 ものがたりの余白 」 エンデが亡くなる直前に語った談話集。自身の物語、遊びの創造性、少年時代、思索、死について 語っている
この本を読む限りでは、「モモ」の時間泥棒における時間は お金というより 精神や生きる力を意味。「モモ」は 資本主義社会への批判というより、物質社会を批判した本
本を書く
*言葉でひとつの現実をつくる
*言葉は自律性を持つ→言葉は作家が作るのでなく、すでにそこにある
「遊びについて 私は生涯を通じて考えてきた」
*遊びで大切なのは それが自由な行為であること
*遊びは創造性を持ち、遊びはつながりを生む
*人間は遊ぶことにより、そこに一つの世界をつくり、その世界に住む
*遊びをするには みんなで考え出す 規則も必要
死について
*私たちは一生を通じて、死に続けている
*木々が葉を落とす〜外的には死にゆくプロセス、内的には木の中から 異なる力が出てくる
*人間の死とは 生涯において 私が 私の身体に対して行う破壊行為の総和。この破壊行為は 私が人間として生きられる前提条件 -
ミヒャエル・エンデとの対談本で、聞き手は翻訳家の田村都志夫さん。エンデは時間どろぼうの『モモ』くらいしか知らないけど、先日読んだ本に紹介されていたのでamazonで頼んでみた。読んだ本には、『モモ』の中に資本、貨幣、商品の話しがあるとあった。意外だったから興味を惹かれて頼んだのだと思う。
エンデは、自分の名前を説明するのに、日本では「終わり(エンド)」というところから、「終」を偏と旁の「糸」と「冬」に分解して、「ヴィンターファーデン(冬糸)」と言っていたらしい。実際、署名に使ったこともあるとか。こういう話しは対談からしか出てこないだろう。
ボクが心惹かれたことは、「神話」の意味。エンデは、「人は神話なしではいきてゆけない。神話なしでは、人は世界の中に、いかなる秩序も見出すことができない」と言い切る。なぜなら、「神話」は人間の生の矛盾を、ひとつの物語や絵にまとめてくれるから。つまり、矛盾を引き受ける方法だというのだ。なるほどと思った。
有史以来、ボクたちは世界の矛盾を感じてきた。きっとそうだと思う。いや、矛盾という定義ではないのかもしれない。世界を切り取り感じるときに、説明の出来ない「何か」があると言う方が適切かもしれない。それを引き受ける方法として、「神話」があったというのだ。
神話を失いつつあるいま、世界を説明する方法をボクたちは失いつつあるのかもしれない。 -
ミヒャエル・エンデの、死を前にした病床での談話。
聴き手は翻訳者の田村都志夫。エンデとは友人でもあったという。エンデ自身の人生や思想についても、すでにある程度共有されている前提で話が進んでいくので、
一部作品しか読んだことがないとなかなか話がつかみにくい。エンデの書いたものは一通り読んだファンが最後に手を出すべき本、という印象。
まずは創作論がとりわけ興味深い。p17で「物語の自律性」と見出しにあるとおり、エンデはあらかじめ展開を決めて書くのではなく、登場人物の性格、物語の中の規則に従って物語を紡いでいく。
「はてしない物語」では、当初バスチアンの人物像が別だったのが、このバスチアンではファンタージエンから戻ってこないと気づいて書き直した。「モモ」では、主人公のモモだけが灰色の男たちに時間を盗まれない理由を考えるのに5年かかったという。
お話を作るというより、科学上の新理論を見出すように、作者自身が謎に向き合って考えている。
そういうやりかたの創作はそれだけ苦しいと思うが、その背後にあるのが「作家とは、難破した船の遭難者(p29)」と、「遊び(p41)」という二つの考え方だ。
前者は「本当にどうしたらよいかわからない状況に、実際に陥ったことがなければならない(中略)そうでなければ、ものを書くのは休日のお遊びにすぎない。(p29)」
と繰り返し強調される。この文でも「遊び」という語が出てくるのでややこしいが、エンデの重視する遊びとは、どうしたらよいかわからない状況に陥ったときに、
それを克服するための笑いやユーモアを指す。
そして創作の背景となる思想が、とりとめなく語られていく。
たとえば幼少期の経験。エンデの子ども時代はナチスドイツ政権下だった。また一世代がまるごとなくなるほどの戦争の影響を受けたものの、当事者ならではの複雑なまなざしを感じ取ることができる。
たとえば、全体としては息苦しさを感じていた一方で、ナチスが若者にとって魅力的に映る要素を持っていたことや、ナチス非支持者/支持者が必ずしも単純な善人/悪人で分けられないことを指摘している。
別の観点として、合理主義に対抗する神秘主義の重要さについてもしばしば語られる。自分はエンデの作品は好きだし、思想については面白いと思うのだが、このあたりは時々ついていけないなと感じる箇所があった。
特に死生観や思想の違いについて、西洋と東洋を対比しながら論じる部分について。日本文化に対してエンデはきわめて好意的だが、その賞賛のぶりにどこかオリエンタリズムめいた視線を感じなくもない。またジェンダーに関する見解(p192等)についても違和感を覚える箇所はあり、これはやはり時代の違いだろう。 -
児童文学作家の頭の中を少し覗けて、それだけでも楽しい。エンデにとって、ものがたりを語ることは日常の営みだったのだということがひしひしと伝わってきた。
『鏡のなかの鏡』など読めていない作品を読んだ方が楽しめると思ったので、先にそちらの作品を読んでから続きを読むことにする。 -
「モモ」や「はてしない物語」の著者、ミヒャエル・エンデとの対話。物質至上主義の現代社会特に米国を批判し、精神世界の重要性を訴えるもの。賛同できるが回りくどい。言葉にできないことを表現するのが芸術と言うだけあって、活字にすることはエンデにとっても読み手にとっても複雑。「粘土で器を作る。器が作る空間こそがその本質」「古いというだけでありがたがるのが欧米、建物ではなく精神性が尊いと感じるのは日本流(式年遷宮の例)」「女性解放という本質ではなく、男性と同等という地位や権利(=イデオロギー)に向かってしまうことは間違い」
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とても良い本。読んでいて、なんというかな。大事なものを照らされるというのかな。生きる上でも、とても大切な事を話していると思う。読み手としても書き手としても学ぶ所が沢山あるのはもちろんだけれど、ひとりの人としても、凄い為になる話だったと思う。