- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006021917
作品紹介・あらすじ
「コトバ=民族」という概念に反し、外国人が「日本語を書く」ということは、せつなくも本物の越境行為だ。日本語を母語としない西洋出身者で初の日本文学作家となった俊英による体験的日本語論と万葉集から現代の最先端に至るまで、表現の生命を探し求めた鮮烈なエッセイ。西洋語から非西洋語へと越境した著者の経験は、日本語はすべての人に開かれているのだという実感を、私たちのものとする。
感想・レビュー・書評
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言葉の問題を取り扱った一書である。
「コトバ=民族」という概念に反し、と、本の発行者の説明にはあるけれども、かなり「コトバ=民族」に近いことをリービは述べているように思うし、この本を、反体制的だったり、何かしらマイノリティ云々のつもりで読むと、肩透かしをくらうように思う。むしろ、コトバ=故郷、であり、中国がモンゴルなどからコトバを奪う戦略をしている理由が、本著によってよくわかる。
太宰治の津軽の一文を取り上げて、「故郷といえばたけを思い出すのである」と「どこ」と指定しない帰郷について述べている。帰郷とは、「どこ」ではなく「コトバ」なのだ。
太宰は、この人(たけ)が「自分」を「母」のようにむかえてくれたという「フィクション」によって、「ノンフィクション」の名作の結末を書いた。「架空」というアイロニーをふくめて「母語」だったのだ。
原民喜の原爆文学について、フィクションとノンフィクションの境をぼやかした描写は、同時に世界各国にとって未来に展開されるかもしれない姿であると、リービは述べる。「証言する文学」は、過去を証言しているだけではなく、未来を予言しているかもしれないと感じられたとき、仏教やキリスト教の地獄を超えて未来像を暗示する。地方都市が普遍的な都市となるのだ。
日本語で書くということは、たとえ日本人として生まれた書き手であっても、文字を輸入したゆえに、どこかで外国人のように書かなければいけない、そうした課題を背負っているとリービは言う。日本では、書き手は、どれほど能動的であっても、どこかで非常に受身的な立場に立たされる。文化を受ける形で書かざるを得ない。古事記はそういう緊張感があるし、日本最初の文学作品であり、かつ、天皇の人間宣言は古事記でなされている。中国や西洋に対抗して日本というローカルがある、ということが、宣長によって逆転される。ローカルがある普遍に変わる。固有が普遍に変わる。本当の人間の、国の姿が、ここにあるぞ、という主張が古事記にあると宣長は述べる。こうした古事記の面白さは、イデオロギー論争に巻き込むのはもったいなさすぎるとリービは述べる。
ローカルから普遍へ。そしてコトバの故郷は場所ではないことを述べてから、彼は外国と日本について考えていく。
万葉集を読む限りは、渡来人の山上憶良をいちいち「渡来人」と断ってはいないし、憶良自身も日本の外交官になっているので、自分を日本人(大和人)と自覚していたはずである。こうした日本についてどう考えればいいか。新宿が象徴的であるとリービは述べる。
新宿は、街全体がアニミズムであり、神社のようなところである。外の者がやってきても次々と飲み込んでいく。神社的であるのだ。出ていけ出ていけと言われながら、外国のものが飲み込まれていく(出ていけ出ていけと言いながら飲み込んでいく)矛盾が新宿にある。
近代西洋マイノリティは、そこまで「コトバ」を問題としない。また、書きながら受け身になるというのも西洋にはないだろうと、リービは言う。
日本のマイノリティなどの問題は、マルコム・リトルがマルコムXとして生まれ変わることを選択した問題とは、まったく異なり、「コトバ」の問題であるのだ。
なんでも飲み込む新宿という日本。そこではただ一つ、コトバが故郷としてある。日本はコトバによって成り立っている国であり、そのはじまりは、外国の文字を輸入して自国の音声にあてはめるという方法にある。よって、日本の神にあたる確かなものとは音のことであると思える。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筆者のリービ英雄氏は英語を母語としながら日本語で小説を書いている(あるいは彼自身の表現を借りれば、日本語の表現者であろうとしている)。
解説を書いている多和田葉子氏は日本語を母語としながらドイツ語での執筆活動を続けている。
両者の関係を見れば、本書で何がテーマとなっているかも明らかだろう(ちなみに同じ岩波現代文庫にある多和田氏の『エクソフォニー』の解説はリービ氏が担当されている)。
言語相対論という考え方がある。
日本語を母語とした者は、日本語的な発想しかできなくなるようなことを指すらしい。
たとえば日本語では「雪」の分類を表す表現は、「ぼたん雪、粉雪、吹雪、霰(あられ)、霙(みぞれ)…」などせいぜい十数種、多くても数十種があればいいほうだろう。
ところがイヌイットのある言語では「雪」を表す表現が百種を超えるらしい。
そうなると、同じ「雪」景色を見ても日本人とイヌイットでは見えてくる世界が違うだろう。
そう考えると、私たちが母語に規定されて生きているという考え方もうなずけるものがある。
でも私たちは、私たちのものの見方、考え方が日本語によって規定された一面的なものであるとは考えない。
そんな僕らの常識を覆し、日本語の持つ可能性やその裏側にある危険性を指摘してくれているのが、本書であると思う。
英語を母語する筆者が魅了された日本語。
日本語の魅力を問い直してみることは、日本語話者としても非常に有意義かつ刺激的なことであると思うし、また、そこから派生的に様々な観点が導き出されてくると思う(たとえば、学校教育で外国語を教える意味は何かなど。個人的に「教育」として外国語を教える以上、それは単なるコミュニケーションツールの獲得にとどまってはならないと思う。つまり、外国語を学ぶことで日本語を相対化し、私たちの常識を相対化するものでなくてはならないのではないかと思うのだけれど、いかがなもんだろう)。
そういう意味でも非常におもしろい本だった。 -
自分というのはなかなかわからないものだから、親切な人からの忠告がありがたいことがある。日本人としての自分が、この書籍ですぅっと日本人とは・・と指摘されると、なるほど自分という日本人はこんな風に日本人としての自分を認識しているのだ・・・・とあらためて思い知らされる。
リービ氏の文章はとてもきれい。わかりやすく、言葉を読むというより「感覚」を示されている気持ちになる。 -
実に達意の日本語を書く方だ。そして、彼が眼差しを向ける日本語や日本人についてもいま一度ぼくは謙虚に受け取る必要があると思った。こうした「外人」(特にアメリカ人)のエッセイとはときおり、グローバルスタンダードが保証する絶対的な正解として読まれかねない危うさをはらんでいる(あるいはその裏返しとして「絶対的な愚論」とも切り捨てられかねない)。だが、リービ英雄自身がナマの『古事記』『万葉集』に触れたようにぼくもまたリービの文に触れて、そこから虚心に読み取る作業を重ねていくべきだと思う。ぼくを縛る偏見を解毒するため
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日本語は日本人だけのものではない。頭ではわかっていたが、実際に読みながら味わった感じは奇妙で新鮮だった。言葉の選び方がものすごく自覚的で、しぜんに日本語を使ってきた者が書く文とは奇妙にずれている。一文一文に、閉じたまま使っていなかった目を見開かされた。