困ります,ファインマンさん (岩波現代文庫 社会 29)

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  • Amazon.co.jp ・本 (355ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006030292

作品紹介・あらすじ

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』につづく、ノーベル賞物理学者の痛快エッセイ集。好奇心たっぷりのファインマンさんがひきおこす騒動の数々に加え、人格形成に少なからぬ影響を与えた父親と早逝した妻について、そして、チャレンジャー号事故調査委員会のメンバーとしていかに原因を究明したか、その顛末が語られる。

感想・レビュー・書評

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  • 前半は、「冗談でしょうファインマンさん」の続きのようなエッセイ。
    本書の読みどころは、後半のスペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故の原因を解明していく様子だ。

    シャトルの構造を理解しており細心の注意を払って発射準備作業をしてきた技術者や組み立て・検査作業員たちの証言をいかにして引き出すか。
    事故の原因となった箇所が絞られてきた時、それが当日の気温の低さによって問題化した可能性があると話しに来た技師たち。
    技師たちは、打ち上げ前夜に当日の気温の低さによっては打ち上げを中止すべきだとNASAに申し出ていた。
    この申し出をNASAは無視する。後にホワイトハウスから打ち上げの予定通り実施の圧力がかかっていたことも判明。

    つまり、事故は人災だった。

    調査報告書の内容についても、政治家やNASAの幹部たちに責任が及ばないように記載内容が知らないところで変わってしまう。
    幹部たちは危ないことは分っていた。が、知らなかったとシラをきった。そして、何も語らなくなった。

    事故原因を探るプロセスについても十分に堪能できたが、正直者が深い憤りを感じる話でもあった。

    最終章には20ページ弱の「科学の価値とは何か」という講演内容がありファインマン博士の気持ちがひしひしと伝わって来た。
    ここだけでもいろんな人に読んで貰えたらいいなと思う。

  • 「~、ファインマンさん」のシリーズ。女好きでいたずら好きでウィットに富んでいてかつ気取っていない、人間味溢れる数々のエピソードには誰もが思わず微笑んでしまうだろう。チャレンジャー事故のロジャース委員会での立ち振舞いは自然科学に魅せられた者の鑑であり、権威を排することに徹底していたこともまた、科学とそれに携わる者の存在価値を再認識させる。こういう男が現実にいて、汚い言葉遣いで正しいことを主張しまくったり、ノーベル賞を取ったり、日本の旅館で畳や布団に感動したり、離婚したり再婚したり、子供ももうけたり、ボンゴを叩いてカーニバルに出たりしていたんだなぁという、個人的には極めて好ましい想像はしかし、広島と我が故郷である長崎を人の尊厳ごと焼き尽くしたという、極めて受け入れがたく許しがたい事実とのコントラストになる。マンハッタン計画に加担した悪魔達の一味にして、自然科学の理解の仕方を革新した量子力学の申し子。病弱の妻を看取りながら、人類史上最悪の兵器を開発するという矛盾。科学技術は、有益で残酷で面白くて悪用もできる、あらゆる意味で皆に平等であることを彼の人生は突き付けてくる。喜ばしくも腹立たしく、悲しくも明るくも読める。矛盾を包含して理解することこそ、今と未来を生きる現代人に必要なことなのかもしれない。

  • クソ組織、クソ調査委員会。
    クソなものを作りたいわけではないのに、向いている方向がズレていて、客観的に見たらクソとしか思えないものができあがる。
    その構造は今でもあちらこちらで普通に見られるような気がします。
    原子力発電とか、新型コロナ対策とか、オリンピックとか…
    何がほんとかわかんないんですけどね。
    ある程度組織が大きくなるとどうしてもこうなっちゃうのかな。
    そこに国が絡むと、方向性がズレていることに気づいても、それを修正することができなくなってしまう。
    分かっているのに繰り返す。
    人間の本質なのかもしれませんね。
    私たちの身近にもそういう事例たくさんある気がします。
    そういうものを身近に抱えつつも、それにあくまで異を唱え、自分の道を行くこの本のようなものを見ると、痛快だと感じる。
    いつでも自分自身がその痛快なものになれるはずなのに、それがなかなか難しいから、だからこそ痛快に感じるのでしょうね。

  •  偉大な物理学者ファインマンのエッセイ。初めの妻アーリーンと父メルの思い出,それとスペースシャトルチャレンジャーの事故調査についてが詳しい。立花隆の解説がタメになる。
     ファインマン本といえば,『ご冗談でしょう、ファイマンさん』が先で有名。『困ります…』はその補遺的作品。ファイマンが著者となっているが,自身で執筆したのではなく,聞き書きらしい。『ご冗談でしょう…』も同様。
     幼少時のエピソード。サンタクロースがいないことを知った時,衝撃はなく,すぐ納得したとか。プレゼント配りをどうやってやっているのか常々不思議だったため,「もっとわかりやすい理屈があることがわかってほっとした」んだって。さすが。
     最初の妻アーリーンは結婚してしばらくで死んじゃうんだが,彼女も合理的な人で,不治の病であることの告知をめぐって,ぐっとくるエピソードがあった。家族の圧力で,アーリーンに嘘をついてしまったのが,結局はばれてしまうのだ。
     永久機関の売り込み話も面白い。ただこれはエンジンが爆発して,死傷者が出て,裁判沙汰にもなったそうだ。よくもそんな危ないところに行ったものだ。長年語るうちに,ファインマンの話も尾鰭がついたりするようだから,事実なのかどうかはよくわからないけど。
     チャレンジャー事故。原因は,固体ロケットブースターの継ぎ目のOリングが低温で弾性を失ったことによるのだが,ファインマンが果たした役割はとても大きい。初めは気乗りしなかったけど,半年やると決めたらとことんやる。最初のブリーフィングではみるみる技術を吸収。高齢だったのにすごい。
     事故調査委員会がなかなか動き出さないのにしびれを切らし,独自にNASAを訪れて情報収集するとこなんかも,やはり好奇心の塊。そういう素質がノーベル賞にもつながったんだろうなあ。作業員や技師との意思疎通を通じて,管理と現場のコミュニケーションの断絶が事故の遠因であることを喝破する。
     管理側は,スペースシャトルを予定通り飛ばすという圧力の中,つじつま合わせに徹してしまう。大事故の確率は10^5分の1。だとするとポンプの故障率は10^7分の1…等とありえない数値が書類に盛り込まれてしまう。原発の推進も案外そんな話かも。歴史に学んでるのか?
     ファインマンって英語(国語)が苦手だったらしい。「そもそも英語のスペリングなんぞというものは、自然界の現実とは何の関係もなく、ただ人間が勝手にでっちあげたものに過ぎない。だからそんなものを正しく綴ろうがちょいと間違えようが、ちっともかまうことはない。」(P.23)
     「字の書き方なんて、たかが人間が作りだした習慣じゃないか。自然にはどんなふうに見えるべきだなんて法則はないよ。自分の好きなように書けばそれでいいじゃないか。」(P.57)ただこれはアーリーンにたしなめられて「美しい筆跡で書くには、特別な筆のもって行き方というものがちゃんとある」ということに気付いたらしい。そうかなあ?病気の愛妻の言うことだから,納得してしまったのかな。

  • これをここに書き写すのには少しの動機があって、まずは最近読んだゲド戦記の中の気に入ったフレーズ、「我々はみな太陽の言語なのだ」という言葉と合致した、と言う事。
    また、「ホーキング宇宙を語る」の最後で彼が、
    「遂にヴィトゲンシュタインに至って哲学が語るべきものは言語についてのみである、と言われるようになった。デカルト、ロック、カント、ライプニッツの頃から較べてなんという凋落だろう。しかし宇宙開闢のなぞが解ければ今は難しくとも必ず理解が普及する。昔ある専門家がライターに今相対性原理を理解している人は世界に三人しかいないそうですね、と言われて、はて、二人までは思い浮かぶのだが、と答えたと言う。今は学生さえもがそれを学び、語る。TOE(theory of everything=万物理論)が解けたときもその理解は次第に普及し、多くの人が理解するにつれて、人はなぜ生きているのか、と言うことを遂に語ることができるようになる。」と述べたその内容が頭をよぎったせいもある。

    宗教から離れると、価値とは何か?価値があるとはどういう事か?を考えるようになる。答えに焦がれながら、疑いの扉を少しだけ開けて。


    (抜き書き)

    ――では、主題に戻って科学の価値とは何かを考えてみることにしましょう。まず第一に考えられるのは、誰でもがよく知っているように、科学の知識のおかげで私たちは色々なことをすることができ、さまざまな物を作ることができるということです。もちろん、私たちが良いものを作ることができれば、これは単に科学の功績であるというだけでなく、良い仕事に私たちを導いた正しい道徳的判断の賜物でもあるわけです。科学的知識は私たちに良いことも悪いこともできるような力は与えますが、その力をどう使うべきかという注意書きを添えてはくれません。しかしたとえ私たちがその力を使った結果が、かえってこれを否定してしまうようなことになったとしても、それでもなおかつこのような力に価値があるのは明らかだと思います。
     ホノルルに行ったとき、私はこの人類共通の問題をずばりと言い表す言葉を覚えてきました。観光のついでにホノルルのとあるお寺を訪ねたときのことです。観光客相手に仏教のことをかいつまんで話してくれた住職は、皆さんが一生忘れることのできない一句をもってこの話を終わります、と前置きして次のようなことを言いました。それは仏教の教えでしたが、彼の予言どおり私はこの日に至るまでこれを忘れずに覚えています。
     「人はみな極楽の門を開く鍵を与えられているが、その同じ鍵は地獄の門をも開く。」
     さてその極楽に通じる門を開ける鍵にはいったいどのような価値があるのでしょうか?極楽に通じる門と地獄に通じる門との見分けがつくようなはっきりとした目印がないとすれば、そんな鍵はかえって危険極まりない代物になりかねません。しかしこの鍵がなければ極楽には入れないのですから、この鍵に価値があることは確かです。いくらどっちへ行けという指示があったって、指示だけで肝心の鍵がないのではどうにもなりません。したがってこの世に非常に大きな恐怖を生み出してしまう可能性があったとしても、科学というものは何かを生み出せるということにおいては価値があるのです。
     科学の価値としてもう一つ考えられるのは、知的な喜びということです。人によっては科学について読んだり学んだり考えたりすることを楽しむ人もあり、またこれに没頭して仕事をすることにこの上ない喜びを見出す人もあります。卑しくも科学者たるものは、科学が社会に及ぼす影響を真剣に考える必要があるといって説教する人は、とかくこの点に注意を払わない傾向がありますが、実はこれは非常に大切な点なのです。個人を楽しませてくれるという科学のこの一面は、社会全体にとっても価値のあることでしょうか?「まさか!」と皆さんは思うかもしれません。しかし、そもそも社会の目的が何であるかを考えることもまた、我々の責任です。人々が楽しめるように物事を並べ替えたり整えたりすることがその目的であるとすれば、科学の楽しみもまた、他の楽しみと同様大切なものになってくるはずです。
     ところで私は、今まで科学が営々と努力を重ねてきた結果、人間が手にいれることのできた新しい世界観の価値というものをおろそかに考えたくないと思います。私たちは科学のおかげで、古来の詩人や夢想家たちが想像だにできなかったような、もっともっとすばらしく変化に富んだ物事を想像することができるようになりました。これから見ると自然の「想像力」というものは、人間の想像力などとは比べ物にならないほど偉大であることがわかります。第一、世界は象の背に乗って運ばれており、その象は底なしの海を泳いでいる亀に乗っているのだなどというような昔の世界観と比べると、ぐるぐる回転しながら何千万年もの間宇宙の中をめぐり動いている球の上に、不思議な力によって我々人類一同が(その半分は逆さまになって)引きつけられているのだ、という事の方が、どれだけ雄大ですばらしいか知れないではありませんか。
     そもそもこの世界について私たちが現在知っているような情報を全然持っていなかった昔の人は、いくら逆立ちしたってこのような世界観を持つことはできなかったわけです。このことを私はたびたび思ってみずにはいられません。ですから勿論皆さんの中にも、このようなことを考えてみた人が大勢いるに違いないのですが、ここで私がまたこの話題を持ち出すのを勘弁していただきたいと思います。
     例えば一人で浜辺に立つと、私の心には様々なことが浮かんできます。

     波が打ち寄せてくる
     膨大な数の分子が
     互いに何億万とはなれて
     勝手に存在しているというのに
     それが一斉に白く泡立つ波をつくる

     それを眺める眼すら
     存在しなかった遥かな昔から
     何億もの年を重ね
     今も変わりなく
     波濤は岸を打ちつづける

     ひとかけらの生命もない
     死んだ惑星の上で
     誰のため 何のため
     波は寄せてくるのか?

     ひと時も憩わず
     エネルギーにさいなまれ
     太陽に亡ぼし尽くされ
     宇宙に放たれる
     そのたったひとかけらが
     海を轟かす

     海底深く
     分子は全て
     互いのパターンを繰り返す
     新しく複雑なものが生まれるまで
     こうして生まれたものはまた
     自らとそっくり同じものを
     作っていく
     そしてまた新しい踊りが始まるのだ

     その大きさ複雑さを増しながら
     生命あるもの すなわち
     原始のかたまり
     DNA タンパク質は
     たぐいなく
     複雑微妙なパターンを
     踊り続ける
     
     ゆりかごを離れ
     こうして今 乾いた土地に佇む私は
     意識ある原子
     好奇の目をもった物質だ

     思惟することの驚異に打たれ
     私は海辺に立ちつくす
     その私は
     原子の宇宙
     宇宙の中の原子

     このスリル、この畏怖の念、神秘さは、どんな問題についても深く考えてみるとき、必ず私たちの心を打つものです。知識が深まるにつれ、もっと深遠ですばらしい神秘が、私たちをさらに深みへと誘います。たとえ答えは失望するようなものであっても気にせず、さらに心躍る神秘ななぞへと私たちをいざなう不思議なもの、想像だにしなかったような見知らぬものを発見しようと、私たちは期待と確信に充ちて新しい扉を一つ一つ開けてゆく。なんと雄大な冒険ではありませんか!
     科学に関係ない人間で、このような科学的神秘に関する「宗教的」体験のできる人はなかなかいないというのは事実です。なぜか詩人はこのすばらしい経験を書こうとはせず、芸術家もこれを描こうとはしませんが、この現在の宇宙の姿に心を打たれる人はいないのでしょうか?今のところ誰一人として、こうした科学の価値をたたえたものはいません。だから美しい歌や詩に耳を傾ける代わりに、今夕皆さんはこの公演を聴かざるを得ないというわけです。こうしてみると私たちはまだまだ「科学時代」に生きているとはいえそうにありません。
     このような沈黙(あるいは黙殺)の一つの理由は、符号の読み方を知ってかかる必要があるということにあるのかもしれません。たとえば、科学の記事を読んでいて「ネズミの大脳の放射性リンの量は、二週間で半減する」という文章にぶつかったとしましょう。さて読んでは見たが、いったいこの文章は何を言わんとしているのでしょうか?それは現在ネズミそして私の、また皆さんの脳の中にあるリンは、二週間前のリンとは異なっているという意味です。言い換えれば脳の中の原子は絶えず入れ換わっていくもので、前にあった原子はなくなってしまうのだということです。
     ではいったい私たちの心、すなわちこの意識を持った原子というのはいったい何なのか?それは先週食べた食物の原子なのです。そして驚くべきことに、この原子どもはもうとっくに入れ換わってしまっているというのに、一年前に私の頭の中で起こっていたことをちゃんと思い出せるのです。
     人の個性と呼ばれるものは、単にその原子のパターン、そのダンスに過ぎませんが、それは取りも直さず頭の中の原子が、新しいのと入れ替わるのにどれくらいの時間がかかるかということです。原子は私の頭の中に入ってきて、ひとしきりダンスをやり、そしてまた出ていきます。入れ換わった原子は新しい原子だというのに昨日のダンスがどんなダンスだったのかちゃんと覚えていて、まったく同じ踊り方をするのです。
     このことを新聞で読むと、「これは癌の治療法の研究にとって重大な発見であると研究者は言っている」などと書いてあります。いかにもこの新聞はそのアイデア自体ではなく、その用途にしか興味がないもののようです。発見されたアイデア自体がどんなに重要で、どんなに驚くべきものであるのか、それを理解する人はほとんどいません。ただ何人かの子供たちが、ひょっとするとこれに気付くかもしれない。そしてこのようなアイデアのすばらしさを悟った子供たちが、科学者になっていくわけです。大学に入ってからでは遅すぎるきらいはありますが、遅すぎてだめということはありません。とにかく私たちは、このようなアイデアを子供たちに説明して聞かせる努力を怠るわけにはいかないのです。
     さてここで私は第三番目の科学の価値に触れたいと思います。これはいささか間接的になるかもしれませんが、そんなに本題からかけ離れたものではありません。科学者というものは、自らの無知や懐疑、迷いといったものにしょっちゅう突き当たるものですが、私はこの経験こそ非常に大切なものだと考えるのです。科学者が答えを知らない場合、彼は無知です。またその結果がどんなものになりそうか、ちょっぴり心当たりがあるような場合、彼は迷います。その結果がほとんど確実に推定できると思っていても、やはり疑問は残ります。着実に進歩を重ねてゆくためには、自分の無知を悟り、疑問の余地を残すということ、これこそ最も重要なことであると私たちは学んできました。科学的知識というものは、非常に疑問のあるものから、ほとんど確実なものまで、さまざまな度合いの確実性を持った理論の集まりですが、絶対的な確実性を持つものは一切存在しません。
     私たち科学者はもうこれには慣れっこになっています。ですから確信が持てなくても、ちっとも困ることはない、全てを知らなくても生きていけるのだと考えるのは当然のことになってしまっているのですが、一般の人もみなそれを悟っているかどうかは疑問です。疑いを抱くことの自由は、科学が育ち始めたごく初期の頃、権威に対する科学の闘いから生まれたものです。願わくば我々が疑問を持つことを許してほしい、疑い迷うことの自由を与えよ、という、それは根深く力強い闘いでした。この闘いを忘れて、せっかくこうして勝ち得たものを失うことのないように絶えず努力を続けることは、非常に大切なことだと私は考えます。ここにこそ私たちの社会に対する責任があるのです。
     人間は驚くべき可能性を持っているというのに、その成果の貧弱さはどうでしょう。これを考えてみるとき、私たちはみながっかりせざるを得ません。もっともっと成果を上げることができるはずだと、人は昔から繰り返し考えてきています。そして過去の人々はその時代の悪夢の中に未来を夢見てきました。一方その実人たちの未来にあたる現在の私たちは、昔の人の夢の多くが(ある面では夢をのりこえたものもあるとはいえ)いろいろな意味において、私たちにとってもやはりそのまま夢として残っていることを認めざるを得ません。今日に希望は、多くの場合昨日の希望そっくりそのままなのです。
     昔、人の能力がフルに発揮されないのは、人間が無知だからだと考えられていました。では教育の普及した今、人は一人残らずヴォルテールになることができたでしょうか?悪もまた少なくとも善と同じぐらい容易に教えることができます。つまり教育は並々ならぬ力を持つものですが、それは悪の方向にも善の方向にも働きうるのです。
     意見交換さえ行なわれれば世界の国々は相互理解を深めることができる、というのも夢の一つでした。しかしそのコミュニケーションの手段や機構は、どうにでも操ることのできるものです。伝えられるものの中には真実もあり嘘もありえます。教育同様、意見の交換もまた非常に大きな力を持っていますが、これもやはり善にも悪にも利用され得るのです。
     応用科学は少なくとも人間の物質的問題ぐらいは解決してくれるべきものです。確かに医薬は病気をコントロールできます。このように応用科学については、全てがもっぱら善に使われているように見えます。ところが現実はそうではありません。それどころが今だって現にどこかで、未来の戦争のための毒ガスや細菌を作る仕事を営々と続けている人々がいるのです。
     ほとんどの人間は戦争が大嫌いです。今日の私たちの夢は平和にあります。平和なときにこそ人類は自分のもつ大きな可能性を十分育てることができるのです。とはいえ未来の人間は、その平和すら善にも悪にもなりえるものだということに気付くかもしれません。平和なときの人間は退屈のあまり酒におぼれるかも知れず、その飲酒がせっかく人間の持っているはずの能力を十分に伸ばせなくしてしまうというような大問題にふくれあがるかもしれません。
     明らかに平和というものは、多くの人の夢見る禁酒節制、物質的力、コミュニケーション、教育、正直さなどの理想と同じく偉大な力です。昔の人に比べると今の私たちは、制御していかなくてはならない力をずっと多く手にしており、それを昔の人よりはうまくコントロールができるようになっているかもしれませんが、それにしても人間の達成した成果の混乱ぶりを考えると、私たちが能力を持っているはずなのにできないでいる事の方が、まだまだ圧倒的に多いのです。
     これはいったいどうしたことでしょう?なぜ私たちは自分を克服することができないのでしょうか?
     それはさっきあげたような偉大な力にも能力にも、それがどのように使うべきかというはっきりした使用法がついていないからです。この物質世界の仕組みや性質についての膨大な知識の積み重ねを例にとって見ても、人は自然のその性質自体には何の意味もないことを悟るのみです。科学は直接には善も悪も教えてはくれません。
     過去何千年もの間、人間は絶えず人生の意味を理解しようと努めてきました。そして私たちの行動に何らかの意味や指針が与えられると、これによって偉大な人間の力が解き放たれることを悟りました。そのため全てのものの意味についてありとあらゆる指針や解答が提供されてきました。ところがどうでしょう。その解答はまったく千差万別で、一つの解答を提案したものは、他の解答を信奉するものの行動に怖気をふるうといった有様です。怖気をふるうと言ったのは、反対する見地からすれば、それは人類の偉大な潜在能力を、およそ見当違いで窮屈な袋小路に向けて注ぎ込むことになってしまうからです。事実こうして間違った信念から生み出された数々の恐ろしい出来事の歴史を通して、哲学者たちは始めて人間の驚くべき無限の能力を認識したのでした。私たちの夢は、開いた通路、開いた扉を見つけ出すことです。
     この世の全てはいったい何を意味しているのでしょうか?人間の存在の神秘を解き明かすには何をいったらいいのでしょうか?
     昔の人が知っていたことだけでなく、彼らは知らなかったが現在の私たちは知っていることも全部含めて、全てをよくよく考えてみるとき、私たちは実は何も知ってはいないのだということを改めて正直に告白すべきだと私は考えます。しかしこれを告白することによって、おそらく私たちは開いた通路を見つけ出すことができるはずなのです。
     これは別に新しい思い付きではなく、理性の時代が生んだ考えです。そしてこれこそ私たちが今その下で生活している民主主義を作り出した人々を導いた信念なのです。人間は誰一人として政府をつかさどり政治を行なう方法を本当に知ってはいないという考え方から、様々な新しい考え方を育て、試み、必要とあらばこれを捨て去り、またもっと新しい考え方を取り入れることのできる、試行錯誤のシステムを作るべきだという考え方が生まれてきました。この方法は十八世紀末、すでに科学の成功が明らかになりつつある中で育ったものです。そんな昔ですらすでに社会に関心のある人々には、可能性の道が開かれているというのはすばらしいことであり、懐疑や議論は未知の世界への一歩を踏み出すために、なくてはならないものであるということがはっきり分かっていたのです。今までに解決されたことのない問題を解決しようと思うなら、何を置いても道への扉を少し開けておかなくてはなりません。
     私たちはまだまだ人類の歴史のほんの初めのほうにいるのですから、いろいろな問題にぶつかり、これと闘わなくてはならないのはむしろ当然のことです。しかしながら私たちの前には何万年もの未来が広がっているのです。ですから今の私たちの責任は、できる限りの努力をし、できるだけのことを学び、答えをできるだけ改善してこれを次の世代に渡していくということです。未来の人に自由選択の余地を残しておくことこそ私たちの責任なのです。人類史の初期にいる私たちは、若者独特の生意気から、長い未来に渡る人類の成長をいじけさせてしまうような重大な誤りをしでかすこともありえます。このようにまったく無知な私たちが、今もう答えはすっかりわかってしまったなどと言うなら、まったく取り返しのつかない過ちを犯すことになるでしょう。もし私たちが議論や批判を押し殺しておいて「友よ、これこそ答えだ。人類は救われた!」と大威張りで断言するようなことをすれば、それこそこれから先長い間、人類を一連の独裁者どもに引渡し、現在の限りある想像力の小さな檻の中に閉じ込めてしまうことになるのです。これは今までにももう幾度となく起こっていることです。
     偉大な進歩は己の無知を認めることから生まれ、思索の自由なくしては手に入れられないことを知らなければなりません。その上で、この自由の価値を鼓吹し、懐疑や疑いは危惧するどころかむしろ歓迎され、大いに論じられてしかるべきであることを教え、その自由を義務として次の世代にも求めてゆく、これこそ科学者たる私たちの責任であると私は考えます。

  • タイトルが大好き。最後まで読んでいないけど、さわやかでかっこいい。奥さんアーリーンとのエピソードなどなど。「ご冗談でしょう…」も読もう。

  • チャレンジャー号事故調査のくだりは圧巻です。
    ファインマンさんの本はやめられません。

  • リチャードファインマンのエッセイ。
    前半の短いエピソード集は、彼のユーモアあふれるキャラクターが理解できてつい笑ってしまう。
    後半はチャレンジャー号墜落事件調査委員会としての活動が描かれる。それを踏まえて必読なのが最終章の「科学の価値とは何か」である。
    マンハッタン計画にも携わった物理学者の視点から、善と悪、天国と地獄どちらにも通ずる鍵となる科学の価値が語られている。
    物理学好きな自分にとって共感できる部分も多く、痛いところを突かれる感覚もあり、エンジニアにとって必読と言えるかなと感じます。

  • チャレンジャー号事故少数派調査報告書は『聞かせてよ、ファインマンさん』に収録されている。

  • 偉大な科学者がどういった影響で育ってきたかも含めて垣間見れて興味深かった。まさに痛快なエピソード満載

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著者プロフィール

1918-1988。ニューヨーク市に生まれる。1939年マサチューセッツ工科大学卒業。プリンストン大学大学院に学び、1942年博士号を取得。その後、原爆開発のマンハッタン計画に参加。1945‐50年コーネル大学助教授。1950年以後はカリフォルニア工科大学教授。1965年、量子電気力学の構成の業績で、シュヴィンガー、朝永振一郎と共にノーベル物理学賞を受賞。学部学生向けの教科書「ファインマン物理学」シリーズ(岩波書店)や、『ファインマン 統計力学』(シュプリンガー・ジャパン)をはじめとする独創的で魅力溢れる物理学書は世界中で読まれている。『物理法則はいかにして発見されたか』(ダイヤモンド社、のち岩波現代文庫)、『光と物質のふしぎな理論──私の量子電磁力学』『ご冗談でしょう、ファインマンさん──ノーベル賞物理学者の自伝』(いずれも岩波書店)などの著作も多くの読者に親しまれている。

「2017年 『量子力学と経路積分[新版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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