- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784007304668
作品紹介・あらすじ
起源への断念と郷愁――本書は、いま最もポレミックな「自然」「政治」「市民」「正義」という四つの概念をとりあげ、二〇世紀を体現するハイデガーによるその脱構築的解釈に焦点をあてて、彼の政治哲学と起源の問題を解明する。
感想・レビュー・書評
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評者は30年以上前、ニューアカデミズム華やかなりし頃の大学の法学部で学んだが、当時はまだ「脱構築」や「戯れ」というフランス現代思想のキーワードがまともな政治思想の研究書に登場することは皆無だった。小野紀明氏は政治思想研究の第一人者であるが、本書はハイデガーをポストモダン思想の先駆者と位置づけ、その政治哲学の意義と限界を明快に論じている。それはプラトン以来の西欧形而上学、即ち「同一性」哲学の否定であり、あらゆる基礎づけの解体だとされる。
だがその意味するところは実はそれほど新しくも奇抜でもない。概念的思考は現実の無限の多様性と生成を捨象する。人間は言語を離れて思考できないが、言語は特定の観点から現実の一側面を静止画のように切り取るに過ぎない(正確には「現実」とは言語に先在し、言語によって「切り取られる」ものではなく、言語によってその残余として事後的に見出される「外部」と言うべきだが)。言語を通じて存在はその姿を現わすと同時に隠れるというと何やら持って回った言い方だが、ハイデガーがソクラテス以前のギリシャ哲学に遡り、「あるもの」としての存在者ではなく、「あるとともにない」存在の哲学を見出したというのも、言語を通じて存在の痕跡にしか近づき得ない人間の根源的なあり様を再確認したまでのことだ。
ではそれが政治哲学にとってどんな意義を持つのだろうか。有体に言えば同一性の哲学が捨象した多様性と異質性への配慮である。例えばフェミニズムをそうした観点から捉えることもできる。ただ忘れてならないのは、政治が政治である以上、その構成員を何らかの観点から区別し、その区別に従って権利を認め、義務を課さなければならない。区別するとは特定の観点から同一性を措定し、差異を捨象することだ。であれば「脱構築」であれ「戯れ」であれ、同一性の全き否定ではあり得ない。同一性なきところに差異もなく無秩序が残るだけである。大切なことは同一性が暫定的なものに過ぎないという自覚、それが差異と隣り合わせで、いつでも差異に反転し得るし、逆もまた然りという両義性に耐える開かれた態度なのだ。
デリダを始めとするポストモダン思想はハイデガーから決定的影響を受けながら、そのハイデガーに近親憎悪にも似た批判を浴びせる。だがデリダ自身が明かすようにそれはスタイルの違いに過ぎない。ハイデガーが同一性/差異の両義性に耐えると言いつつ、そこに否応もなく同一性への郷愁を滲ませるのに対し、デリダは少なくとも身振りとしてはあくまで差異に加担する。小野氏は自らの政治的スタンスを語ることに禁欲的だが、同じくハイデガーから多くを学んだ解釈学的現象学に共感しているように見える。解釈学的循環という両義性に身を委ねながらも、「地平」という同一性の基盤を手放さないガーダマーのように、穏健で常識的な小野氏はどちらかと言えは同一性の人に思えるのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示