- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022510778
感想・レビュー・書評
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この本はすごい本だと思う。
『文章教室』というもの(本も含めて)に今まで縁がなかったし、今回もなんとなく教室を覗いてみただけ。そんな出会いだった。
なのに、片足を廊下に残してちょっと覗いた人間を教室の中に引っ張りこみ、座らせ、テキストに釘付けにし、講義にのめり込ませてしまった。
難しいし、「分かった?」と聞かれたら「なんとなく…」とぼそっと返すしかないけれど、引用されている文章も、それに対する高橋源一郎さんの文章も、私を揺さぶって何かを決定的に変えてしまったのではないかと思う。
いや、思いたい。
『文章教室』という教室のすごさ。
もっと言えば、文章のすごさということになるのかもしれないけど、とにかく圧倒される。
もっと読みたい。
もっともっと読みたい。
そして私が立っている場所のこと、そこから見えるもののこと、伝えたいことを伝えたい人に伝えられるようになりたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タカハシさんの書く「小説」ではない(と一応されている)文章は、それでも紛れもなく「小説」であると私は思う。
いささか乱暴かもしれないけれど、「小説」が「読むひとそれぞれに何かを語りかけてくるもの」であり、一方たとえば「評論」が「読むひとに何かを教示するもの」であるとするならば、タカハシさんの書くものはすべて「小説」としか感じられないのである。
タカハシさんの「小説」ではない(と一応括られる)文章を読むと、タカハシさんの声が聞こえてくるような気がする。
語りかけられていることはひとつだけ。
「なにも気にせずおもったように書けばいいと思うよ、それでじゅうぶん」。
本文のことばを借りるなら、totalではなくてwhole。
いつもタカハシさんのことばには母性の香りがする。
そしてじぶんも何か書きたくなる。 -
生きるために文章を書くしかなかった人と、死に直面して(あるいは自死の直前でも)文章を書くしかなかった人。
文字の連なりが尋ねてくるのは「あなたは誰に、なにを、どれほどの気持ちで伝えたいのか、問いかけたいのか」ということで、私はこれまで自分が書いてきたものを思い返して慄然とした。大げさでなく、もう書くなんて無理とも思った。
それでも重い筆を持ち上げて、一字一字をじっと書くこと、書きたいと願うことが唯一の方法。私が私自身へ覚える耐え難さや、他者の言葉から受けたダメージから脱するための。
本に載っているのは決して明るい文章ばかりではないのに、読んでいて安堵感があるのは、それに気づいたせいだろう。 -
高橋源一郎の文章教室。といっても美しい文章を書くための教室ではない。高橋サンの文芸評論ではいつも取上げられた文章が全然別のものに見えてくる。
例えば、この本で取上げられている印象的な文章は、小島信夫のボケ老人小説や木村センという遺書を書くためだけに文章を習って初めて書かれた文章。
どちらも高橋さんに取り上げられなけが出会ったとしても何じゃこれで終わる文章だ。
特に小島信夫の小説に対してはある種の希少性に対するレスペクトがある。「直し」が入っていない文章。これを「直接的」、子どもの言葉のように「直接的」だと言う。
高橋サンは死者およびいまだ生まれていない者への視線について言葉を重ねてきた。そして小島信夫の小説を、死んだ人間が書く小説と言う。これらの文章は逆に文章には相手があることを強く意識させるのである。
また労働について書かれた文章について、高橋サンの経験も交えて語ってくれる。次の「思い出しながら、書いた」の中に労働経験を通じて「出会った」文章もあるのだろう。
「ぼくは、ぼくがどうやって「文章」を書くようになったのかを思い出しながら、この本を書いた。ぼくは、たくさんの「文章」を読んだ。そして、いくつもの、素晴らしい「文章」たちに出会った。その「文章」たちは、ぼくを揺すぶり、時にはぼくを突き放し、でも、いつも必ず最後には、ぼくを優しく抱きしめてくれた。そして、気がついた時、ぼくは、ぼくの「文章」を手に入れていたのだった。」
自分も、素晴らしい文章に会ってきたんだろう。高橋サンの文章もその中のひとつだ。 -
この人の文章読本は、
何冊目なのだろう。
たくさん出している。
でも、
これは今までのものより、
ちょっと違う。
何が違うか。
生きる、ということが、
言葉とどう関係しているかが、
中心に書かれてある。
初級向けの文章引用はない。
老年になって、
はじめて読み書きを覚えた言葉で、
書く、「遺書」。
鶴見俊輔の少年時代の、
「校長先生」の短い言葉の意味。
何度、書くの? と思わせる、
小島信夫著「残光」の、
文章のこと。
「小島さんは判っていたのじゃないか、ぼけて<やっと書ける文>のことを」
と新たな、小島信夫論の進展。
高橋源一郎がずっと思考している証拠が、
この本にある。
持続して考え続ける、
ということ。
それも、自身が「偉い人になりつつあるまわりの雰囲気、イメージ」を拒むというか、通過する重要性のことを、
鶴見俊輔の「校長先生」の短い言葉から学んでいるように、
思えるのです。
後半の鶴見俊輔論は、面白くないけれど、
僕は好きだな、この作家は。
っていうか、みんなの文章教室で、
あれだけ鶴見俊輔のことを書くというのは、
まあおそらく僕の読みが、まだ浅いからだろうと思う。 -
もちろん、有り体の文章作成指南書ではない。
「文章」を書く前に、身体化された表現に数多く触れなければならないという、当たり前のことに気付かせてくれる。
鶴見俊輔の本が読みたくなった…