- Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022596796
感想・レビュー・書評
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渡辺京二の「日本近世の起源」で、この著者の著作が頻繁に引用されていたので、どんなものか読んでみた。
かなりのエピソードが引用済みのものであるが、より詳しい記述がある。例えば、村同士が抗争に明け暮れいたのは渡辺著が述べたとおりだが、周囲の村々や諸侯との力関係などを慎重に吟味した上で、暴力に及ぶかどうかが決定されていた様が分かる。
見解が分かれるところとしては、渡辺が百姓と大名の連続性を説いていたのに対し、こちらは兵農の分離ぶりを強調する。
徳政令は領主の代替わりの度に頻発され、村もそれを当て込んでいる節があった。徳政といっても何もかもチャラになる訳でなく、未納の年貢は帳消しだが、大名からの蔵米貸付はそのままというのが通常だったようだ。そのうち土地の売買の証文などに、徳政があってもこの契約は破棄されないとする特約を入れる例が出てくる。
・・・私有財産の保護が強まって市場経済の準備が出来てくるとも言えるし、逆に、徳政には徳政の事情があり、そうした中から漸進的に社会資本の整備が進んできたのだとの評価も可能だろう。
次の村役人を決めたりするだけでなく、誰が盗人かまで投票で決めていた。
中世ではこれを「落書」と呼び、いったん落とした書いたものはもう誰のものでもなく神意であるという、呪術的建付けであった。近世になるにつれ呼称も「入札」となり、記名捺印されるなど投票の意味が強まる。いずれにせよギリシアのオストラキスモスに通じる、共同体からの異物排除という自浄作用(カタルシス)を持っていたのだろう。
・・・近代以降はこの手のカタルシスは建前的には封印されているが、人間の本性としてはそれを求めているように思える。
終章では、おまけ的に著者の住む鎌倉の歴史を探る。鶴岡八幡宮は武士のものだが、祇園社を中心とした町人の風俗もしっかりとあったらしい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
戦国時代の村と領主との力関係は、時代劇や小説にある一方的な従属関係ではない。したたかかに、ねばり強く、またしっかりと自分の意見を主張していく「村」の姿や、その対応に苦慮する領主の姿が新鮮だ。