日本人の死のかたち 伝統儀礼から靖国まで (朝日選書)

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  • 朝日新聞社
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  • Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022598554

作品紹介・あらすじ

日本人は、「死」「遺体」「霊」をどのようなものととらえてきたのだろう。「葬送」「野辺の送り」など、かつて多くの地域で行われていた伝統的な死者儀礼はもはや見られなくなったが、古来、日本人は「死者」という存在を信じ、死者への働きかけ、語りかけによって、その「霊」を祀ってきた。近代日本がいくつもくぐってきた戦争という極限状態のなかで、「霊」はどう扱われたか。膨大な戦争手記、県史を読み解き、自らの死の瀬戸際で仲間を弔おうとする兵士たちと、死者の霊を統合・管理して靖国へと導いた国家の姿を浮き彫りにする。

感想・レビュー・書評

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  • 死者は身体と霊魂の双方によって存在が可能であり、身体なしの死者は成立しない。
    靖国神社は霊魂を祀り、身体は個々の戦死者の遺族のもとにある。それらが一体となってはじめて死者となる。その死者の存在を認める事は、靖国神社の存在に否定的な人びとをも自動的に巻き込んで靖国神社を祭祀する事に結びつける。これが靖国神社が政治的に利用しうると政治家達が考える背景。
    かつての多くの日本人は人は死んでも死者として存在することを信じていた。残された人びとは望むかどうかに関わらず死者と関係を持たずにはいられないと考えていた。
    日本人は死に慣れ親しんでいたからこそ死が政治的操作の対象となりえた。
    しかし、現代は死の位置づけが変わってきている。生存の医療化は死の医療化ももたらし、死の意味さえも医療の文脈の中でとらえるようになってしまった。
    かつての自死と現代の自殺は意味が異なる。昔は、自分らしく死ぬことによって最も自分らしく生きることができると考えられていた。つまり、死なない事よりも大切な事があった。
    インフォームド・コンセントを得るための説明が本人・家族にとって受け入れがたいのは、生者を死者に移行させうるのは、医療行為ではなく、死亡した人の家族による死者儀礼を通してであると多くの人が考えているから。また、告知に対して否定的な意見(医療の都合によって行われているなどと批判する)がある背景には、死なない事よりも大切な事がない、という実情を反映している可能性がある。

  • 卒論にて忠魂碑を調査してる自分にとって非常にわかりやすい本だった
    日本人の死に対する考え方を考察し、自殺や戦死をも分析したモノです。

  • 去年のゼミで輪読した文献を再読。

    ●日本人の死の観念=「死者」の観念
    自分と何らかの関係を持つ人の死によって呼び覚まされるもの
    →身近な人の死に際して遂行されるこまごまとした死の儀礼を通して死の観念が確認され、示される
    ⇒「死者」が存在することを想定している
    …死者儀礼において誰が何をいつ行うか、死者との関係によって細かく規定されている
    葬儀における数多くの行為について、そのつど遺族の間で話し合い、確認・調整する
    →死んだ者と残された者との関係および残された者同士の関係が改めて確認される

    ●死の医療化
    以前→死とは、遺体と向き合う時に初めて実感し、納得し、理解できるものとされた
    現在→「死の医療化」医師が死を決定する
    「生存の医療化」が「死の医療化」をもたらし、さらには人にとっての死の意味さえも医療の文脈の中でとらえられるようになってしまった現状
    =医療化された死の現状が私たちの死の観念までも決定しようとする状況

    ○医療の元の死=あくまで「過ち」であり、「ベストが尽くされなかった」から
    「本来死ぬことはなかった」とされる

    「死」は理不尽な、生きているものにとって信じがたい現実
    ⇒「死」について意味を与え、残された者を落ち着かせてくれる仕組みが葬送儀礼

    ・死者儀礼が簡素化される現代日本においてもなお、葬式は「死者」の存在を想定したうえでの儀礼によって構成されている
    Ex) 清拭…「亡くなった人が冷たく感じないように」お湯が使われる
    ⇒死んだ人と残された人との間には何らかの「関係」があり、死後も続くという考え

    ●死は身近なもの
    ・年中行事や日々の生活…死者の存在を信じ想定したうえでの儀礼が各家庭、近隣集団、講、村落社会でおこなわれていた
    →死者の存在への確信と、現在生きている人々と死者との間に多様な交流が成立する確信が人々の間に
    ⇒人々にとって死が身近にあった

    ○「心なごむ空間」
    ・ラフカディオ・ハーン…日本人の死者儀礼、祖先崇拝に強い関心を持つ
    日本人=祖先というだけの理由で、祖先に対して感謝と尊敬の感情を持ち、自分たちと祖先の間には積極的な精神のつながりがあるという信念をもっている

    ⇔しかし 現在仏前を毎日手入れし、手を合わせる世帯主たち
    …自分が亡くなった後、仏壇の中の自分のものを含めた位牌に供物を供える人が誰になるのかの確信がない
    →自分が死者を祀るように自分も死後祀られることを少しも疑わず、そのことにより死の疎外感から救われているという人は極めて少ない


    ●「死者」とは何者
    ○現在、自ら「無宗教」「無信仰」と確信している日本人
    ⇔自分の家族、親族、友人、同僚、同窓生などの知人の死に際しては、死者儀礼に参加し時間や金銭を消費することを厭わない
    むしろ亡くなった人に対して何もしないことに、大きな罪悪感さえ抱く
    ⇒自分と亡くなった人との関係を死者儀礼によって確認したり、その関係を周囲に知らしめることによって、結果として、亡くなった人の「存在」を浮かび上がらせる

    ○「死者」が存在することを想定した上での死者儀礼
    …「死者が見ている」「死者が望んでいる」「死者が満足している」「死者は飢えている」「死者はのどが渇いている」「死者の身体は熱い」
    →生きている人間が死者の置かれている状況や感情を忖度するかたち
    Ex)・航空機事故や大規模災害の犠牲者の遺族たちの行為
    ・「死に目に会う」
    ・参列者が手を合わせて霊柩車が走り去るまでとどまる儀礼
    ・葬儀社に準備される多くの選択肢
    ・「死体」=死んだ人の体、死んだ状態の体
    「遺体」=「死んだあとに残った身体」、「死んだあとに残された身体」
    →残す相手が想定される
    つまり 現在でも日本人は身近な人、重要な人は、その死後も「死者」として存在するという認識を持つ
    日本人の「死の文化」は「死者を想定する文化」

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著者プロフィール

波平恵美子(なみひら・えみこ):1942年福岡県生まれ。九州大学卒業、米国テキサス大学博士課程Ph.D取得、九州大学大学院博士課程単位取得退学。佐賀大学助教授、九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)教授、お茶の水女子大学教授を経て、現在、お茶の水女子大学名誉教授。専門は文化人類学、ジェンダー論。著書に『ケガレの構造』(青土社)、『ケガレ』(講談社学術文庫)、『文化人類学 カレッジ版(第4版)』(編著、医学書院)、『病と死の文化』『日本人の死のかたち』『医療人類学入門』(いずれも朝日選書)、『いのちの文化人類学』(新潮選書)、『からだの文化人類学』(大修館書店)などがある。

「2022年 『病気と治療の文化人類学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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