街道をゆく 11 (朝日文庫 し 1-12)

著者 :
  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (202ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022601810

感想・レビュー・書評

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  • 以下引用
    (元寇について)
    ・戦争とは敵を大量に殺傷することだという思想は、源平合戦においても、まったく存在しない。
    それよりも敵をおどし、意識の上で敵をして敗北を悟らしめようというやり方で、戦争というよりもスポーツに近く、スポーツと同質の約束事が同民族内で成立し、慣用されていた。

    ・「紙幣発行に見合うだけだけの銀をつねに準備しておかないと国が滅びますぞ」というような説明は、これらの経済官僚が、フビライにしていたのだろう。
    これを当時の財政用語で、子母相権という。子は紙幣で、母は銀である。
    兌換制の紙幣の一本建てという貨幣制度は、支配者にとっても被支配者にとってもこれほど便利なものはないが、しかしその反面、子母相権をうしなえば大インフレがおこって国家そのものがほろびてしまうという危険性がある。
    元寇が出来してくる最大の理由は、ここにあった。
    日本は黄金の島といえるほどに金銀を算出する、という誤った情報を、フビライは確固として信二、崩れることなく保持していたようであった。

    ・唐津藩は、藩主の交替が頻繁なために武家文化が成熟しにくく、さらには地元が豊かなために、町人や富裕層が唐津文化を熟させてゆくという面がつよかった。
    ここは肥前のうちでも、佐賀県内なのである。しかし葉隠と藩校と明治維新とで有名な佐賀藩とは無関係で、おなじ県ながらこの旧唐津藩領は文化も気風も、旧佐賀藩領とはおよそちがっている。唐津では無駄や無用のことを文化だという機微が共有のものになっているようだが、その点、佐賀藩は徹底して学校文化の伝統が居すわっている。

    ・江戸の体制とし大名の正室は生涯、人質として江戸屋敷に居なければならない。

    ・江戸時代の兵学の愉快なことは、兵学自身、兵器の進歩発達をいっさい認めなかったことである。決して勝たない、しかし同僚の大名には作法上の恥はかかない、しかも、社会というものに進歩はありえないし、あってはならないのだという三千万の合意の上に、その兵学の基礎は成立している。

    ・山鹿流兵学の家元は、江戸期を通じて、平戸藩にあった。

    ・人類は、他の群居する動物と同様、自分の群については極度に自衛的で、他の群に対して本能的に排他的なのだが、そのくせ、好奇心に富み、客好きで淋しがりやであるという右の本能と矛盾する属性をもっている。この属性が、群の文化をきらびやかにする種子になっているのだが、日本の場合、室町期から戦国期にかけての時代がその好例といっていい。

    ・日本での貿易の利益というのは、とほうもないほどに大きかった。日本は銀にくらべて金のやすい国で、欧州の値段からみれば三分の一程度にすぎず、日本から金を持ち帰るだけでも巨利を博した。この日本の金相場の特殊さは、その後、徳川時代になっても変わらず、オランダ人が、尊大な徳川幕府の態度と牢獄のような出島の暮らしに二世紀半も耐えていたのも、この利があるからであった。

    ・秀吉の反発は、神社仏閣の焼き払いということにおいてもっとも大きかったに違いない。逆にいえば、イエズス会がもしこれをしなければ、秀吉の反発というのはさほどのものではなかったのではないか。
    秀吉の感覚では、(神社仏閣は)日本における社会的効用の高い施設であり、それを否定することは、宗教問題をはみ出て、主権者への挑戦と受け取ってしまう要素があったであろう。

  • 20220529読了(2回目)

  • 北九州三本立、県名で言うところの福岡、佐賀、長崎。

    唐津付近でシバさんは元寇の頃に想いを馳せる。ただ彼の心の中は山となって漂着した死者の群れに対しての弔いの気持ちの方が重きを占めているのが特徴的で、「元軍」という言葉から感じる兵士群が実際のところは今で言うところの中韓民族の寄せ集めであったことなどについても啓かせてくれた上で、「神風」に通じる国粋主義的な会話を進めるのではなく、当時の東アジア人が巻き起こした、そしてその後も繰り返す数々の愚行について限りなく公平な立場で読者の頭に焼き付け直してくれるのである。

    つづいて後半。「長崎、平戸」とふたつの地名をならべるとき、後世あまり役に立っていない受験知識偏重の脳細胞には江戸期に唯一外国船がつなぎとめられた場所ということがうっすらと埃をかぶって残っているだけで、その時系列的な関係も地理的な様相もまったく肉付けされないまま放置されていた。長崎に至っては修学旅行で訪ねているにもかかわらずそんな調子なのである。この近辺を歩きながらシバさんの頭のなかに起こることを追体験させてもらった結果は…

    17巻「島原・天草の諸街道」へ手が伸びてしまった(苦笑) 

    JR鉄道網から離れていっているのが若干の気がかり(笑)

  • 虹の松原って言うのね。何年か前、福岡・佐賀を旅したのですが、何気に一番印象深かったかも。黄砂も大昔からあったようですが、PM2.5に煙っていても良かったなぁ。
    南蛮の遺跡は無くとも文化に息づく、日本人の理解には江戸時代の理解が必須、と今回も蘊蓄的司馬遼節炸裂です。

  • 紀行文はおもろい。そして司馬遼太郎もおもろい。
    これが合わさったら、、、かなりおもろい。
    ということで、「街道をゆく」シリーズが好きだ。
    それの肥前(佐賀・長崎)版である。

    唐津、平戸、長崎の3章に分かれている。
    唐津では元寇の時の蒙古塚を探し、平戸で蘭館を探し、南蛮(ポルトガル)、スペイン、イギリス、中国との繋がりを見出す、長崎の南蛮人の居留地とサツマイモには関係があると思いを馳せたり・・・。

    大航海時代のキリシタン文化と貿易についてや、当時の戦国の情勢などがわかりやすい。
    信長、秀吉(南蛮中心時代)、家康(オランダ中心時代)の時代の長崎はインターナショナルやったんですな。

    こんな言葉を書いている。
    「長崎といえば、秀吉による教会領長崎への弾圧とその残酷なキリシタン処刑、さらにはずっと後のオランダ人の渡来からふつう幕があくようだが、それ以前のカトリック時代の長崎をゴアの教区の内部事情、アジアにおけるポルトガルとスペインの対立、またはヨーロッパにおけるポルトガル王国の内情といった面から丹念に照射した研究が出てくれば、長崎史は原爆体験を待たずして世界史の一部になりうる。」
    何行かだけで、何百年かを網羅して壮大である。

    平戸の方に松浦という地名があるが、これのもとは「末羅」だったそうで「ら」というのは、古代朝鮮後で国を指す言葉ではないかと司馬氏は言う。司馬氏の半島愛を語る所がすごく好きで、食い入るように見入り、指で文字を追っている。
    そして唐津の唐は韓(伽羅)であり、ここいらの関係は深かったのではと推測していらっしゃる。

    さて、南蛮(ポルトガル、スペイン)とカトリック神父は一体で、貿易したかったらまず入信せよと交渉してくる。
    ローマ・カトリック教会はポルトガルとスペインの両王室と契約し、布教保護権をあたえた、のだとか。
    なので発見する土地土地で原住民を改宗させる事業をローマから請け負っていた、とある。
    ザビエルのイエズス会もこちら側だった。

    南蛮に対して区別するためオランダを紅毛と呼んだ。
    私の毛も子供の頃、紅かった。そのため赤毛と呼ばれた。
    なぜかと思ったら、この当時に長崎に来たオランダ人(しかも平戸の)の血がどうやら混じっていて、隔世遺伝で出たらしい・・・。そのためか、長崎やオランダと言われると妙に血が心が騒ぐのである。
    死んだばーちゃん(父方)は平戸出身でクオーターだった。
    もとい、紅毛(オランダ)はプロテスタントで割とビジネス感覚で貿易中心だったらしい。
    平戸でなんなくやっていたものの、鎖国令などで出島に押し込められながらも、日本と貿易してたのは「金利」の良さらしい。日本では銀の方が価値があったため、銀で支払っても金でお釣りが帰ってくるみたいなところがあって、儲け率が高かったのだとか。

    「オランダ人はその独立戦争によってスペインの首かせから脱し、ヨーロッパで最初の市民社会を創ったと考えていいが、同時にビジネスというものを宗教から切り離して独立させて近代を開いた最初の民族ではないかと思われる。」

    カトリックが悪く見えてしまいそうであるが、実は彼らは医学を無償で提供してくれたのだとか。
    さすがは聖職者である。イエズス会の信用もドUPしたらしい。
    南蛮外科により、悪質な瘍や疔をアルコール消毒にて完治させたことが日本人にとって魔法のようなものに見えただろう。アルコールで消毒なんて感覚がなかったのだから。

    インターナショナルな長崎は時代の波に乗ったのか、飲まれたのか、いい面もあれば悪い面もあり、何とも言えないが、この時代から振り返って推測する事しか出来ないがとても興味深いのである。

  • 長崎が、なぜ「長崎」と呼ばれる様になったか知っていますか?
    その答えはこの本の中に書いてます。
    作家、司馬遼太郎が旧肥前国(佐賀・長崎)について書いた
    紀行文です。
    平戸、佐世保、福田など、お馴染みの地名が沢山登場
    するので、歴史が好きでない人でも楽しく読める一冊です。

    (長崎大学 学部生)

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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