- Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022608024
感想・レビュー・書評
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先日、新田次郎「アラスカ物語」を読んでいると、ふと以前読んだジャーナリスト本多勝一さんの『カナダ=エスキモー』というルポルタージュ本に深い感銘を受けた記憶が蘇ってきました。矢も楯もたまらず再読してみると、ドキドキして、素晴らしい観察力、圧倒的な筆力と秘めた情熱に感激です。
『カナダ=エスキモー』は、1963年5月~6月にかけて著者が極北で取材した記事を朝日新聞に連載したものです。その後、『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』をあわせて『極限の民族』として出版し、高い評価を得ています。
カナダ北東部の北極圏、メルヴィル半島沿岸のウスアクジュ部落。そこに生きるエスキモー(正式にはイヌュイ)のイスマタ、カヤナグ、ムーシシという男たちとその家族。エスキモーと一言にいっても、海岸近くに住む7つの海岸エスキモーの集落、カリブーエスキモーと呼ばれる内陸エスキモーがいて、それぞれ違った生活様式や風習を持っています。
ちなみに、この本には『アラスカ物語』の舞台となったアラスカのエスキモーのことも紹介しています(小説のほうは1900年前後の時代設定なので状況は異なりますが)。このルポと同じように、『アラスカ物語』の主人公フランク安田が本拠としていたのも鯨やアザラシを狩猟する海岸エスキモーの集落です。
1年の大半は凍りついた北極海と陸地の境目もわからない氷雪原。犬ゾリを駆使しながら縦横無尽に移動して狩猟します。エスキモーの日常的な行動半径は300キロ、特別な場合は1000キロ。あまりに広大でくらくらします。
主な獲物はアザラシ、セイウチ、カリブー。もちろん永久凍土以北で森林などなく、食用の野菜類もありません。ビタミン補給のために生肉を食します。獲物はとったはしから凍るため、手早く解体していきます。そのあまりの手際のよさ、新鮮な肉を美味しそうに食べる描写は迫力満点。釣りたての魚やウニをその場でさばいて食するような感覚なのでしょうね~すごい!
現代では、もう彼らの本格的な狩猟はないのかもしれませんが、50年余り経たこの本が今読んでも躍動感に満ちているのは、著者の観察力や筆力の素晴らしさもさることながら、確固たる「視点」が貫かれているからだと強く感じます。
『そこに住む人々の心をつかむこと。
「非人間性」をあばくのとは反対に、「人間」を発見すること』
エスキモー家族と寝起きや狩猟を共にしながら、著者は3人の男たち、配偶者や子どもたちの性格、欲望、プライド、虚栄心、喜怒哀楽といった内面を赤裸々に描写します。私たちと変わらないごく普通の人々、その詳細な人物ルポはそのまま夏目漱石の作中人物にもなりそうなほど人間味溢れて面白い。そうした「人間」の発見という一方で、あまりにも過酷な極北の自然環境で暮らす人々の価値観、風習や慣習(文化)は、私たちとは違うものだということに気づかされてハッとします。
「エスキモーの生活と、ものの考え方について、できるだけありのままに伝えることがこの記事の狙いでした。きれいごとばかり並べたり、逆に残酷物語にしたりするのではなく、狩猟民族の世界を、そのままの姿で示したいのです。その世界は、日本や西欧の世界とは、かなり違っています。善悪の規準も倫理も価値観も、まるっきりちがうといって良いでしょう。大切なことは、そのような「別の世界」があること、私たちの善悪の規準などは、私たちの属する社会だけのことで、他の民族に適用しないことを認識することです」
さまざまな自然環境の中で、さまざまな言葉を話し、さまざまな人々や民族が共存している世界、ひとりよがりの価値観や善悪感や偏見で、大きいものが小さいものを、強いものが弱いものを、一方が他方を強引に判断したり押しつけたり排除しようとすれば、軋轢や葛藤が生まれます(反多元主義とポピュリズム)。この本を読んでいると、同じ人間性をもちながら、多様な価値観や文化のもとで人々が生きているこの世界はなんとも悩ましくてもどかしい、でもだからこそ人間が画一化されることなく変化にとんで、面白くて素晴らしいものだとあらためて感じます。そして人間は多くの生き物のなかのほんの一部であることも。
自然環境の破壊、温暖化、核物質の拡散、人口増大と飢餓、種の絶滅(危惧)……もはや人類は紛争や戦争をしているヒマなぞないことにも気付かされて唸ってしまいます。いや~時を経ても良書の再読はいいですね(^^♪詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
電子書籍で読んだ。電子書籍版のどなたかの評価によると、紙版であった写真や図表が削られているそう。真偽を確認していないが、手に入るのであれば紙版がいいのかもしれない。
本多がカナダのイヌイット(イヌイットがエスキモーと呼ばれて気にしていないからか、本書では「エスキモー」とされている)の部落に滞在し、寝食をともにした記録である。犬そりを駆って、イヌイットと一緒に数百キロメートルを移動し、アザラシやカリブーをとる。すごいのは本当に寝食をともにしていることだ。ただ、さすがの本多勝一もトイレ(共用の空き缶で、みんなのいるところで用を足す)をともにはできず、セイウチのヒレに潜む赤いシラミは口に入れられなかったらしい。とはいえ、カリブーの腸(生!)や尻についた寄生虫を口にしており、文化の違いを超える胆力と体力に大いに感心した。
印象に残ったのはイヌイットには「寝る時間」「食べる時間」というのがないということ。いつでも寝るし、つまみ食い的にいつでも食べているそうだ。白夜もあり、日照時間も低緯度圏とは異なるため、「夜に寝る」という発想には確かにならないだろうということに思いいたり、目から鱗だった。食べ物も、何泊もかけての狩猟なのだから、採れれば食べるし、余れば貯蔵するものだろう。
本書が素晴らしいのは、単に狩猟生活の紹介にとどまらず、イヌイットそれぞれの性格が分かるほどに彼らが生き生きと描写されているところである。読者の胸にイヌイット1人1人が目に浮かび、まるで自分も知り合いであるかのように感じる。「未開人の国を訪ねて、目にみえる範囲でその未開ぶりを大げさに書く」のではなく、「『非人間性』をあばくのとは反対に、『人間』を発見する」という本多の目的を本書は見事に達している。
また、イヌイットがそり犬に対し非情であるという指摘について、本多は説諭している。愛玩犬も人間の利己的な都合で生み出したものであり、そり犬と変わらない。そり犬は使役動物であり、酷寒の自然とたたかうのに感傷は命取りになるのだ。イヌイットには愛玩犬や記念品というレジャーと呼べる考え方があまりないとも指摘している。犬の方もかなりたくましく、用便中の人間の糞を狙ってうろつきまるため、本多も石を投げて応戦していたらしい。
さらに、イヌイットに数の概念を問うたり、詩歌を採録したりと、新聞のルポながら学術的なことも行っており、それが本書の価値を高めている気がする。
取材自体は1963年頃のようなので、イヌイットの生活も変わっていることだろう。それを寂しいと思うのは非常に勝手であるが、やはり極北の大地で狩猟生活を営む人類がいてほしいという気持ちが捨てきれない。グローバル化で都市部は世界中似た街、似た生活になっている。少数民族に限らず、独自の文化、風俗、考え方、言語、そういったものたちがどんどん消えていっているのだろう。いい面もあるに違いないが、やはり寂しい。 -
エスキモーは排便をするときにギリギリまでガマンして、もうガマンの限界の向こう側に行ってはじめてオシリペロンして排便をする!なぜなら極寒の地で長いことお尻を出していると死ぬから。という説がウソだとわかる本。エスキモーは別に排便ガマンしてなかったんだと気づかせてくれた作品。
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「カナダ=エスキモー」本多勝一著、朝日新聞社、1981.09.20
283p ¥380 C0136 (2018.01.22読了)(1999.09.20購入)
文化人類学的興味から本多勝一さんの「カナダ=エスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」を読んでみたいと三冊集めて積読してきました。今年こそは、と読み始めました。
1963年の5月から6月にかけて著者が、カナダ=エスキモーと生活を共にして、そのルポを新聞に連載し、のちに加筆して単行本として刊行しています。
6月前後は白夜が続き一日中陽が沈みません。一日の区切りがわからない日々が続きます。午前2時過ぎに寝て10時ごろ起きるというような生活です。食事も煮炊きはほとんどせず、好きな時に生肉を切って食べるのです。住居の中は、人の体温で温かく、寝るときは裸で寝ます。ほとんど教育は受けていないので、計算ができないようです。普段の生活の中では商品経済と無縁なのでお金の価値もわからないようです。獣の皮などを売りに行って何か買って帰るのですが、短波放送しか聞けない場所にいるのに中波しか入らないラジオで雑音だけ聞いて満足していたりします。持つことを誇る、ステータスシンボルです。
子供たちを集めての教育が始まっていますが、教科書作りが大変とのことです。カナダの一般的な人たちの生活と全く違うので、教科書をそのまま使おうとしても理解ができません。言葉の問題もあります。夜と昼でさえ、理解が難しいようです。一日という概念を昼と夜で一区切りというわけにはいきません。
エスキモーは、海獣、陸獣、魚、鳥、等を狩猟して暮らしているので、狩猟民ということになるのでしょう。
ルポから55年経過しているので、現在では、もはや自然相手に暮らしているエスキモーはいないのかもしれません。
【目次】
「ウスアクジュ」への道
極北を生きぬく知恵
アザラシ狩り
犬を甘やかしてはならぬ
カリブー狩り
雪の家
太陽の沈まぬ国
セイウチ狩り
エスキモーの心
極北の動物たち
遊猟の民
<付録>ウスアクジュ部落のその後 K=J=クロー著、河合伸訳
あとがき
解説 梅棹忠夫
●臨界温度(33頁)
人間の直腸温度の臨界点は27度である。これ以下になると、体温を保ったままの基本的な新陳代謝ができなくなる。
●アノラック(38頁)
彼らのエスキモー服、アティギとアノガジェは、世界最高の防寒服だ。カリブーの毛皮を、主婦がかんでなめし、やはりカリブーからとった腱の糸でぬって、アノラック型に仕立てた服。アノラックという言葉自体、エスキモー語のアノガジェ(あるいはアヌラック)からきている。アノラックは、エスキモー文化が世界に貢献した最大のものだろう。
●犬ぞり(68頁)
セイウチをソリに積み、たらふく食った犬たちにムチがとぶ。すると、走りだしてまもなく、犬たちはいま食ったものを次々ともどしはじめた。全然かまないで丸のみにしてあるから、セイウチの腸や胃壁がそのまま出てくる。
●使役動物(70頁)
エスキモーの犬に対する態度は、たとえばヒマラヤの人夫のロバに対する態度と変わらない。使役動物としての見方はもっと冷酷である。犬の頭をなでたり、やさしい言葉をかけたりは決してしない。
●四季(118頁)
インドには四季がなく「ホット・ホッター・ホッテスト」(暑い・かなり暑い・うんと暑い)の三シーズンがあるだけだ、といった人がある。するとカナダ北極圏の一年は「コールド・コールダー・コールデスト」(寒い・かなり寒い・うんと寒い)というところか。
●セイウチの食事(145頁)
セイウチは、あの巨大な牙で海底の砂をほじくりかえし、でてきた貝を、硬くて太いヒゲを利用して口になげこむ。貝殻は口で砕いてはきだし、やわらかいムキ身だけのみこむ。
☆関連図書(既読)
「戦場の村」本多勝一著、朝日文庫、1981.09.20
「南京への道」本多勝一著、朝日新聞社、1987.01.20
「マゼランが来た」本多勝一著、朝日新聞社、1989.07.25
(2018年1月24日・記)
(講談社文庫解説目録より)
過酷な自然条件の下でユーモラスに生きる狩猟民族の姿を、文化人類学的視点でとらえ、みごとに活写する異色のルポルタージュ。付録に「その後のカナダ・エスキモー」を収録。 -
まづタイトルの話。『カナダ=エスキモー』。中黒(・)ではなく、等号(=)が駆使されてゐます。すると「カナダ」と「エスキモー」は同義なのか?
いやいや。これは、本多勝一氏独特の用法なのでした。
本多氏いはく、読点と中黒の役割をはつきり分けなければいけない。たとへば事象を列挙する時、「錦之助、橋蔵、千代之介、扇太郎の四人は...」と書きますと、読点の本来の用法から逸脱するので、かかる場合は中黒を用ゐるのださうです。
そして外国人の姓名の間に入れる記号は、「ダン・ユマ」のやうに中黒ではなく「ロバート=ダンハム」みたいに等号を利用するといふことです。外来語の単語を繋げる場合もおんなし。ゆゑに『カナダ=エスキモー』となる。
正確ぢやないかも知れませんが、大体さういふことのやうです。
さて『カナダ=エスキモー』は、本多氏のごく初期のルポルタージュ『極限の民族』三部作の第一部にあたるものであります。本作によつてスタア記者・本多勝一は誕生したと申せませう。
初期作品といひながら、すでに本多節は全開であります。
特に「ソリ犬」についての記述。犬は甘やかさず、厳しく接します。動物愛護団体のメムバアが読むと「残酷だ」と非難するでせう。しかし彼らは、ペットショップで値札を付けられ陳列されてゐる犬や猫を見ても平気なのですね。こちらの方がよほど残酷ではありますまいか。
ま、いい。読めば分かることであります。
今日はここらで御無礼します。
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-131.html -
今思えば、これが私が最初に環境問題を巡る意識の違いに関心を持ち始めたきっかけかもしれません。
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血の通ったルポ。犬ゾリの話すごすぎる。
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中学時代からの愛読書。冒険3部作の中でも、このエスキモー篇が一番好き。エスキモーが、なんとなく、日本人と相通じる感覚をもった民族だからかもしれないけれど、未知の世界に足を踏み入れ、言葉もあまりわからないまま現地の人と生活を共にする著者のパワーにも感心してしまう。時々読み返したくなる名作。