大正天皇 (朝日文庫)

著者 :
  • 朝日新聞出版
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感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022618276

作品紹介・あらすじ

【歴史地理/日本歴史】愛情を受けず病気を繰り返した幼少期、全国を回った皇太子時代、明治天皇の重圧と闘いながら病状を悪化させていった天皇時代……。明治と昭和のはざまに埋もれた悲劇の天皇像を明らかにした、毎日出版文化賞受賞作が待望の文庫化。

感想・レビュー・書評

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  •  大正天皇に光を当てた本としては評価出来るとしても行幸・行啓の記述が多い。「皇后考」と違って著者の深読みのし過ぎがないので読めるのだろう。
     色々な本を深読みし過ぎて?「根拠のない逸話の数々が、まことしやかに語られている」のは同著者の「皇后考」のような本だ。以前に権藤四郎介の「李王宮秘史」の復刻版の解説を書いた時に四郎介が権藤成卿の実弟(それ以前に権藤成卿の存在すら?担当編集者も知らなかったらしいので自社で刊行した「権藤成卿」を参照すればいいのに)と知らなかったらしく正体不明な人物と決めつけていたので、「椿の局の記」なる関屋貞三郎の経歴や宮中での女官の呼び名を知っていれば気がつきそうな「盛っている」本を嬉々として使うのだろうか?何でも「岩波 天皇・皇室辞典」で、あれほど皇室について書いているはずの保阪正康が三笠宮についてデタラメな事を書き飛ばした時に一緒に三笠宮邸に呼び出された時しか皇族には会わないそうだが。

  • 原武史による大正天皇の研究書。著者らしく、鉄道や行幸を丁寧に追うことで、ありありとした皇太子時代の雰囲気がとても良く伝わってくる。
    また、それに対になるように、前後の明治と昭和との違い。その時の大正天皇を取り巻く政治的な思惑。それぞれの声を拾い上げて、イメージを作り上げるのは大変興味深い。

  • 大正天皇の評伝

    大正天皇と言えば、病弱だったという事と晩年は後の昭和天皇が摂政を務めたという事ぐらいしか知らない
    あと、EXILEにいても違和感のなさそうな御真影とかねw
    「遠眼鏡事件」もこれを読んでそんな事があったのかと知った

    そんな病弱で精神的に問題があったというイメージも後付で作られたもので、大正天皇の実像に迫るという論旨になっている

    ただ全部読み終わっても、結局は幼少期は病弱で、大人になってやっと落ち着いたけど践祚してからはまた体調を崩し、天皇として資質に欠けた人物という印象は拭えなかった

    後にも先にも大正天皇の評伝は珍しいらしい
    それは、大正天皇がある意味でタブー視されている存在である以上に、人物像を掘っても「面白くない」のもあるんじゃなかろうか?とも思った

    偉大な明治天皇のようには振る舞えなかった
    だからこそ、後の昭和天皇の教育方針や権威付けの成立に反面教師として周囲の意識に大きな影響を与えたという意味で、近代天皇制を語る上では必要な人物に思える

    言い換えるならば、皇室に生まれてしまった病弱な凡人が唯一の後継者だったという、皇室の転換期の物語 かな



    側室の子として生まれ、家臣の家で育てられ病気を繰り返した幼少期
    病気による授業の中断により学習の遅れ
    気心の知れた有栖川宮が教育係の東宮輔導に就いてからは、教育よりも健康を優先するようになったため以前よりはましになる
    気晴らしと教育の遅れの補完のために各地に微行を行う事でより健康に
    皇太子としての権威を示すより、自分の興味の赴くまま口を開き予定を変更するような軽率さ
    大人になって行った行啓でも軽々と口を開く
    4人の皇子(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)の父としては子煩悩の側面
    形式的には一夫一妻制をとった(実態としては女官に手を出してたようだが……)
    明治天皇が崩御されて践祚した後、以前と同じように窮屈な生活のため体調を崩しがち
    政務を行えなくなったため、本人の意思に反して周囲が摂政を置くように画策
    後の昭和天皇の権威付けのための印象操作


    国体として強い権力の象徴であるべき天皇でありながら病弱という事態に対し
    皇室の権威を維持するために、周囲が摂政として皇太子を祀り上げていく過程で作り上げられた近代の天皇制というのがよくわかる

    ただ、その過程は一次資料は示されているものの、著者による憶測が多分に入り込んでいるため信憑性に欠ける


    明治、大正、昭和と行われた行幸、巡幸、行啓、巡啓
    それぞれの時代により意図が異なる
    明治天皇の場合は、江戸から明治への転換による混乱を収めるためのもの
    昭和天皇の場合は、国家主義の象徴として

    では、大正天皇の場合はどうだったかというと、学習の補完、体調管理の一環、本人の要望等という印象を受けた

    また、地方のインフラ整備にも寄与したというのも面白い側面だと思う


    やはり、最後まで読んでも「凡庸だったんだなぁ」という印象は覆せない
    その分、昭和天皇の評伝を読みたくなった

  • 明治天皇、昭和天皇に比べ圧倒的にマイナーな存在の大正天皇。その生涯に光をあてた評伝。

    即位するまでの破天荒なエピソードが面白い。激務で病状が悪化したことは間違いない。側近の苦労もしのばれる。

    筆者の「押し込め」説も興味深い。

  •  原著(朝日選書版)は2000年刊行。その後の史料状況の変化に合わせて加筆訂正した箇所はあるが、論旨はほとんど変わっていない。顕彰本以外では長らく単独の評伝がなかった大正天皇に対する史上初めての本格的研究として当時話題になった。「遠眼鏡事件」の風聞に象徴されるように、当時から精神病者としてのイメージが濃厚だった大正天皇だが、本書は皇太子時代の行啓・巡啓を中心にその行動を検証し、少なくとも青年期・少壮期は(規律や規則への不適応はあるものの)健康であったことを明らかにし、認知機能障害が顕在化して以降も「正常」な意思はあり、摂政設置は一種の「押し込め」であったと評価した。この「押し込め」説に対しては古川隆久が厳しい批判を行い、議論の応酬が展開された結果(いわゆる「賢君論争」)、学界では概ね否定的な評価が確定したようで、その点は注意が必要だが、大正天皇研究の出発点として依然逸することのできない成果であることは変わっていない。

  • 朝日選書で既読だったが処分してしまい、文庫になったのを期に購入。
    人は生まれてくる時代と環境は選ぶことは出来ない。特別な環境に生まれることは本人にとってどうなのか。
    偉大すぎる父、優秀な息子に挟まれた凡庸で病弱といわれた大正天皇の人間味溢れる生涯が書かれてある。

  • 2月23日は、平成最後の皇太子誕生日。来年からは「天皇誕生日」となる。その分、今上天皇の誕生日、12月23日はいまのところ休日ではなく、平日となる。つまり、今年は「天皇誕生日」の祝日のない年ということになる。
    これまでの明治天皇の「天長節」であった11月3日は「文化の日」として、昭和天皇の誕生日4月29日は「みどりの日」のちに「昭和の日」となって、祝日となっている。
    その間にあって、大正天皇の誕生日を祝う日の名残だけがない。
    大正天皇の誕生日は8月31日で、「天長節」があったが、勅令で10月31日を「天長節祝日」という別の祝日をも設けている。8月の炎暑の時期を避けて、10月に式典などをするためだった、という。「生来病弱で、国会の開院式に紙を丸めて遠眼鏡のようにした」などのイメージのある天皇のカゲは薄い。
    平成の代替わりを機に、原武史著『大正天皇』(朝日文庫、2015年)を読んでみた。
    果たして、大正天皇が、そうしたイメージだけで、影が薄い天皇であったのか、いかなる天皇であったのか、そして政治のうえで大正天皇が果たした役割はいかなるものであるのか、が皇太子時代の地方巡察の意味を含め、巡察先の地方紙の記事を拾うなどして克明に検証されている。
    簡単にいえば、確かに出生以来、病弱であったことに間違いはなく、天皇になってからは「脳の具合」が悪くなり、人の話を理解できなくなるような状態に陥り、のちの昭和天皇を摂政として置かざるを得なくなる。が、ずっと病弱で脳タリンであったわけではなく、「遠眼鏡事件」の真実についても疑問が残るようだ。とはっても、巷間にその噂はひろく膾炙されていて、のちの病状公表が噂を追認するような形になったようだ。
    成育歴をたどると、明治天皇の側室であった柳原愛子を母に誕生したのが1879年(明治12年)。他の側室との間での皇子、皇女が死んでしまい、生き残った皇子だった。病弱な体質で、生まれた時に全身に発疹があり、当時診察した漢方医の浅田宗伯が、痰やよだれが絡んで息が絶え絶えになったり、便が青くなった、などと書き残している。健康を回復したところで、当時のめのと制度で里子に出される。のちに主治医となるベルツ博士も、この独特の慣習を批判しているが満6歳まで中山忠能の家に預けられ、東宮へもどっても生母の元で暮らすことはなかった。
    教育の仕方も無理があったようだ。学習院の小学校に入学してからも、授業の抑圧には耐えられず、学友たちとついていくこともできず中退して、個人教授になる。教育係となった宮内省の東宮侍従、侍講の帝王教育のためのカリキュラムも、夏休みもない詰込で、東宮は耐えられず、周りに不満を洩らし、溝が広がった。そこに東宮より17歳年上の皇族、有栖川宮威仁親王が「朋友」として東宮輔導に任じられる。これまでの教育方針を大幅に見直し、無理のない「健康重視」に転ずる。皇太子20歳で、15歳の九条節子と結婚する。結婚は国民から一様に祝福されている。皇太子自身の健康も、結婚を節目として好転する。
    結婚した皇太子の皇祖参拝のための京都へのハネムーン旅行が有栖川宮の決断もあって、全国巡啓の初めとなる。皇太子は健康で、巡啓の間に病気にもならず、旅先で出会う人に気軽に声をかけたりするエピソードが記事にもなる。明治天皇が国民の前に身体をさらさなかったのに比して、純情なまま性格も矯正されていなかった皇太子の姿が国民の前に出てくることになった。やがて旅期1カ月の東北巡啓といった長期の巡啓が企画され、それは無理な教育からの隔離を意味しながら、旅先ではつらつとした皇太子が国民の前に身体をさらすことで、やがては天皇になる人の姿を真近に見せることにつながっていく。それも初めは「勉強」のための私的な旅行として実現しながら、次第に巡啓を各地から求められるようになり、やがて公式の性格を帯びていく。巡啓の歓迎のバンザイや敬礼の仕方などというものも定められる。結局、当時は植民地となっていた韓国巡啓にまで及んだ。「天皇の名代」としての巡啓は、全国にわたり、これが後の昭和天皇の全国巡啓のもととなり、平成の天皇にも引き継がれるプロトタイプになった、と指摘する。
    やがて明治天皇が亡くなり、天皇となって、明治の偉勲たちは、奇矯とさえみえる新天皇にさまざまな苦言を呈している。が、一方で桂太郎の勅語利用や大隈に政治的に利用されるという側面もあった。
    そして天皇となってからは、強行日程の中での儀式などに体調が崩れる。生身をさらした天皇の体調を気遣う国民もいたのではないか、とする。そして1918年(大正7年)夏の米騒動のころから、病気がちになる。12月に開かれた国会を欠席したが、表向きの「風邪」ということの裏で、勅語すらうまくこなせなくなっていた、ということを原敬日記などから跡付けている。その後の「御脳力の衰退」という病状発表をめぐる宮内大臣になったばかりの牧野顕伸と原敬との確執も興味深い。そして昭和天皇を摂政としていくということに、時代の場面は移っていくが、病状発表はいわば大正天皇を「押し込め」たものではないか、と述べている。そして「大正は抹殺された」というわけだ。
    さて、新たな天皇の時代、いかなる世の中になるのか。「皇太子内奏」などと聞きなれない首相の振舞いが、次の時代に響きがあるのか、ないのか。

  • 文庫になったんや、と思って買ってから選書版を本棚から発見。でも文庫読み進めても読んだ記憶なし。買うだけ買って積ん読やったんかな。
    明治、昭和の大帝の間で地味なのよね、大正天皇。在位期間も短いし、病気もあったし。遠眼鏡事件は聞いたことくらいはあったけど。しかし、人間味あふれるということと天皇であることの両立が病むきっかけとかツラいなぁ。

  • 選書版で既読。

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著者プロフィール

1962年生まれ。早稻田大学政治経済学部卒業,東京大学大学院博士課程中退。放送大学教授,明治学院大学名誉教授。専攻は日本政治思想史。98年『「民都」大阪対「帝都」東京──思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ)でサントリー学芸賞、2001年『大正天皇』(朝日選書)で毎日出版文化賞、08年『滝山コミューン一九七四』(講談社)で講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』(岩波新書)で司馬遼太郎賞を受賞。他の著書に『皇后考』(講談社学術文庫)、『平成の終焉』(岩波新書)などがある。

「2023年 『地形の思想史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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