- Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022618337
作品紹介・あらすじ
【文学/日本文学評論随筆その他】朝日新聞1面のコラム「天声人語」。この欄を70年代に3年弱執筆、読む者を魅了し続け新聞史上最高のコラムニストとも評されながら急逝した記者がいた。その名は深代惇郎──。氏の天声人語から特によいものを編んだベスト版が新装で復活!
感想・レビュー・書評
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深代惇郎氏が天声人語を執筆していた頃、僕は小学校低学年だった。
そして僕が小学校5年生になり、中学受験を目指し始めた頃、「深代惇郎の天声人語」を買って読むようにというのが、通っていた進学塾からの指示だった。
おそらく、ここから国語の試験問題が作られることもあったろうし、天声人語というのは一つ一つの作品が長くないので、読解力をつけるための練習問題としても格好のものだったのだろう。
あまり真面目な受験生でなかった僕はすべてを読むことなど到底できなかった。ましてや、天声人語が取り上げる政治問題なども小学生にとっては難しい。
しかし、本書のP.61に出てくるサリドマイド薬害訴訟の和解についてかいた「手を長くする薬」というコラムは、そんな小学生の心にも深く響いた。
このコラムは製薬会社の社長が被害者である子どもたちの手を取りながら涙を流して詫ている様子と、そういう決着をみるまでに11年間も裁判で争わなければならなかったことを取り上げ、裁判という仕組み、人間のためにあるはずの法というものが人間を悪くする皮肉について語っている。
はっきり言って、そういう本来のこのコラムの主旨についてはすっかり記憶から抜け落ちていた。
僕が覚えていたのはコラムの最後の一節だ。
手が長かったら将来はバレリーナになりたかった少女が、「手を短くする薬が作れるなら、手を長くする薬だって作れるんじゃないかしら」
深代惇郎氏は、その言葉にクギ付けにされ、しばらく目を離す事ができなかった、としてコラムを終えている。
小学生だった僕も、深代惇郎氏と同じように、そのコラムのラストから目を話すことができず、それは僕にとって忘れられない話として記憶に残った。
40年ほどが経って、40年前に書かれたコラムを文庫で読み返した。
今度はすべてのコラムを読み通した。
そこには「手を長くする薬」もあった。そのコラムはやはり今も読むものの心を鋭く突き通す力を持っていると思う。
そして、やはりそのコラムだけでなく、他のコラムにしても、そこには同じ深代惇郎という人の視点、考え方が色濃く表れ出ていて、どの話題も40年たった今も訴えかけてくるものがある。 -
専門学校時代、短文を書く練習をした。お手本は朝日新聞朝刊コラム
「天声人語」だ。まずは毎日、書き写すところから始めた。今でも
休刊日以外の毎日、書き写している。それで文章が上達したかと聞か
れれば、はなはだ怪しい。
文章を書くことを仕事にしていた時期がある。長い文章を書くのは
簡単なのだ。形容詞を多用し、だらだらと書いて行けばいくらでも
行数が稼げる。
だが、過不足なく短文で要所を抑えた文章を書くのには難儀する。
今でも苦手だ。実は本の読後感も「1000文字以内」という目標を
設定しているのだが、なかなか目標通りには行かない。
「天声人語」には歴代の書き手がいる。なかでも稀代の名文家で
あり、46歳の若さで亡くなった深代惇郎は私の短文の神様である。
本書は深代の同期であり、後を継いで「天声人語」を担当した辰濃
和男の編集になる深代天声人語のベスト版である。
やはり打ちのめされるのだ。文章の巧みさだけではない。広範な
知識や教養の深さが、嫌味なく感じ取れるところに「いくら勉強
してもこの人のような文章は書けない」と思い知らされる。
深代も新聞記者である。しかし、大上段に構えた文章ではないのだ。
深代本人が「民の言葉を天の声とせよ」と書いた通りに、権力を批判
する文章は、読み手側の視点に立っていることが多い。
ベスト版とののことで年代順ではなくテーマ別の編集になっている
ところは少々いただけないが、深代惇郎が生きて書いた時代に間に
合わなかった世代でもその文章を味わえ、打ちのめされることが
出来ることに感謝する。
あと2冊。「続」と「最後の」が文庫で発行されており手元にあるの
だが、一気に読んでしまうと楽しみがなくなってしまう。2冊はもう
少し後に取っておこう。 -
オビにある「これぞ名文、これぞ名コラム」の謳い文句に惹かれて購入。
名文とは、さて、いかなるものか。
1970年代の話を、2015年の今振り返ることに面白さはある。もっとも私は生まれていない時なので、懐かしさにはならないのだけど。
けれど、今の天声人語も充分に面白いと思う。
新聞コラムを読んでいると、その引き出しの多さにいつも驚かされる。そうして、引き出したものとの妙な一致を見せたときに、それは名文となるのではないだろうか。
そういう意味では、知識というのはバカに出来ない大切な財産だ。最近は、知識もないのに表現ばかり追い求めているように思う。
こうしたコラムに触れていると、時事問題へのアンテナだけではなく、人が見え、人の深さが垣間見える。深くないこともある。面白い。
「「天声人語」は「天に声あり、人をして語らしむ」の意。しばしばこの欄を、人を導く「天の声」であるべしといわれる方がいるが、本意ではない。民の言葉を天の声とせよ、というのが先人の心であったが、その至らざるの嘆きはつきない。」