- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022734365
作品紹介・あらすじ
深い洞察力と透徹した文章で知られる元・朝日新聞編集委員が、大震災と原発事故に震える現地を何度も歩いた。そして知る-。著名な文学作品の数々が、この国の過ちを言い当てていたと。「汚染の拡大」「孤立」「内部被曝の危険性」をも告発していたと。
感想・レビュー・書評
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ふむ
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「地震と社会(上)」を著した著者に興味を持ち図書館で借りた。
自然災害あるいは人災をきっかけとした人間性の疎外、それは復旧・復興といった過程でももたらされる。その人間性の疎外は人為か不可抗力か。
「三陸には家はないが場所がある。私たち(原発立地町)には家はあるが、場所がない。」この言葉には住み慣れた土地から離れざるを得ない疎外された人間のなんともやるせない気持ちを端的に表している。
著者は言う「今の人々の生活は「避難」というより、国の施策と東電の操業の結果、原発事故によって故郷を失い、定めのない未決状態で離散している状態」だと。我々はこの状況を決して他人事としてはいけない(なんとも手垢に塗れた言い回しだが)。
今年は被災して11年、本著は1年後の2012年2月29日発行、著者の憤りはますます強まっているのではないだろうか。そんな著者の一冊に会ってみたい。 -
朝日新聞編集局長も務めたベテラン・ジャーナリストの著者が、「WEBRONZA」に連載した東日本大震災のルポをペースにした本。
副題が示すとおり、震災取材をふまえ、著名な文学作品を媒介に著者が思索を深めていった過程をまとめている。
取り上げられているのは、カミュの『ペスト』、カフカの『城』、井伏鱒二の『黒い雨』、島尾敏雄の『出発は遂に訪れず』、スタインベックの『怒りの葡萄』、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」など……。一章ごとに一つの作品が俎上に載る。
著者は、東大の学生だった1976年に、小説『北帰行』で「文藝賞」を受賞した経歴の持ち主である(ただし、朝日に入ってからは小説を発表していない)。
つまり、文学に造詣の深い「文芸派」記者であり、本書のテーマは自家薬籠中の物といえる。
東日本大震災の関連書籍はすでに汗牛充棟の観があり、よほど角度をつけてテーマを絞らないかぎり、もう読者が目を向けることもない。
その点、文学作品を媒介に「3・11」の意味を読み解くという本書のテーマは、絶妙な「角度」であり、好企画だと思う。
くわえて、朝日屈指の名文記者として知られた著者の文章は、やはり素晴らしい。平明かつ滋味深い文章を味わうだけでも、一読の価値がある本だ。
ただ、文学で「3・11」の意味を読み解くというテーマが企図どおり成功しているかといえば、やや疑問。
“カミュの『ペスト』は、ペスト禍を描いたのみならず、東日本大震災を含む人類史的災厄すべてにあてはまる普遍性をもっている”
とか、
“カフカの『城』における「城」を福島第一原発に置きかえれば、原発事故被災者のダブルバインド的な心情を見事に表現した作品として読むことができる”
とか、
“一家が郷里を追われ、流亡する悲劇を描いた『怒りの葡萄』は、震災で故郷を追われた人々の心情とシンクロする”
とか……。
そのような著者の主張は、「ご説ごもっとも」「言われてみればそんな気もする」と思わせるのだが、そのあとで、「So What?」――「それがどうしたの?」と問いたくなってしまう。
優れた文学作品にその程度の普遍性があるのは、いまさら教示されるまでもなく、あたりまえの話だと思うのだ。
ただ、ハーバート・ノーマンの『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』を素材にした第4章「東北とは何か」は、すこぷる示唆に富む内容で、独立した論考として価値をもつものだと思った。 -
原発事故の問題と、文学小説を絡めるという面白いアプローチ。内容はイマイチに感じた。201411
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<閲覧スタッフより>
「被災者が希望であることを教えるのが文学である。」記者としての第一線を退いたジャーナリスト・外岡秀俊は「文学」のなかに震災と向き合うヒントを見出した。
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所在記号:新書||369.3||ソト
資料番号:10225401
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外岡秀俊 (著)
大震災と原発事故で苦しむ東北に、再び光は差すのか? 著者が被災地で実感した、国家の様相と内外の文学作品との共通項とは? カミュ、カフカ、スタインベック、井伏鱒二らを介して、「国家の過ち」を考察する。名文家で知られる朝日新聞・元編集委員の渾身作。