- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022736024
作品紹介・あらすじ
【歴史地理/日本歴史】松陰は、幕末、多くの志士を育てた人物として尊敬されている。だが、実はそれは虚構の松陰像。愛弟子で義弟の久坂玄瑞が松陰の死後、尊王攘夷の旗印として松陰を利用したからだ。山口在住の著者が資料をもとに、祭り上げていく過程をつづる。
感想・レビュー・書評
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豊富な一次資料でしっかり組み立てられた『吉田松陰』とその高弟『久坂玄瑞』の実像が描かれている。
タイトルは『吉田松陰』だが、実際、主に描かれるのはその高弟で松陰を英雄に祭り上げたとされる松下村塾第一の高弟『久坂玄瑞』の方だ。
実は久坂はさほど熱心に塾に通ってはいなかったこと。
松陰の妹、文とは形だけの夫婦だったこと。(大方の維新の『英雄』と同様、久坂には愛人有り)
などは興味深いが、特に
吉田松陰が英雄になったのは久坂玄瑞の策略によるという説は斬新で、かつ説得力がある。それも、師を英雄にしたのは師への敬意や善意ではなくて、攘夷達成の為に計算尽くの事だったという。
著者の久坂への評価は冷めていて、目的のためには手段を選ばない冷徹なマキャベリストとされる。その一方で、馬鹿みたいに純粋で『至誠の実践者』吉田松陰がその信条のために自ら死を招いた思想家とされるのに対して、『自らは手を下さず、遠くから人を使う』政治家とされる。
しかし、その最期は自ら参加した禁門の変で戦死してしまうことになるのは皮肉というべきか。
私は久坂を薩摩の西鄕隆盛に近い人物のように感じた。西鄕が久坂の残忍な点を認めていたのではないかという著者の見解には大いに納得させられた。
大河ドラマは不調なようである。確かにつまらない。
しかし、こうした良書を読むと、あれこれ批判しながら視ることが出来るかもしれないと思った。
ちなみに久坂は医師なので坊主頭だったそうで、藩から蓄髪が許されるのはずっと後年の事だそうだ。ドラマでは登場時から既に髪の毛ふさふさである。 -
久坂玄瑞と吉田松陰の関係が詳細に分析されている。他の本で読んだ紳士的な玄瑞ではなく冷徹に策略を練る部分もあり違った面が勉強になった。
全体的な事だが皆、覚悟がすごい。 -
「志士」のイメージに対するもやもやした気持ちがスッキリした。
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松蔭は、1830年に杉家の次男として生まれた。6歳の時、吉田家を継いでいた叔父が病没したため、後継者に指名されて家督を継いだ。吉田家は明倫館で藩士の教育を担ってきた家だったため、松陰は世間から隔離されて教育を受けるようになった。20歳の時、外の世界を学ぶために九州北部の旅をし、平戸でアヘン戦争や海防論、西洋砲術書などを読んだ。翌年は江戸に遊学したが、師を見つけることができず、ロシア船が津軽海峡を往来していることを知り、宮部鼎蔵とともに東北視察の旅に出た。23歳の時、ペリーの黒船が来航すると、師事した佐久間象山から西洋の芸術を吸収するための密航を勧められ、翌年下田に再来航した黒船に近づいたが断られたため、自首して投獄された。
玄瑞は、1840年に久坂家の三男として生まれた。17歳で九州に遊歴し、熊本では宮部鼎蔵を訪ねて海防問題について話し合い、西洋列強に対する敵愾心を燃やした。萩に帰ると、宮部から勧められた松陰に手紙を出した。その頃、松陰は野山獄を出て杉家で謹慎中で、近郊の武士の子弟が集まって松下村塾を始めていた。翌年には高杉晋作が入門し、玄瑞と切磋琢磨していく。 -
タイトルは久坂玄瑞が吉田松陰をどのように尊王攘夷のシンボルに祭り上げたのか、ということについての著書のように読める。が、実際の内容はほとんどが松陰と玄瑞の事績についてで、肝心の「祭り上げたのか」についてはあまり描写がない。玄瑞の生涯について記すのは類書が少ないのでまだいいとしても、松陰の生涯に一書の半分を費やすのは本書のタイトルや帯からしていかがなものかと思う。あるいは久坂による松陰の利用を考えるときに、松陰の生涯を描くことは必要かもしれないが、その生涯の描写と「利用」の問題が必ずしもリンクしていない。過去の人物がのちの人物にいかに利用されるか、という問題設定じたいは非常に重要だと思うがゆえに、残念という思いが残った。田中彰『吉田松陰―変転する人物像』(中公新書、2001年)の空隙を埋める、あるいは批判的に乗り越えるような内容を期待してしまっただけに、よけいに。
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吉田松陰は、幕末のあの時、死罪になったから後世に名を遺した。
松陰の純粋な理想主義、政治的な配慮のない一直線さなどは弟子に薫陶するにはいいが、時代を変える具体的な力に変換するには、幼すぎた。でも、幕末の動乱期に於いて彼は彼の果たすべき役割をしっかりと果たしていると思う。
それにしても久坂玄瑞恐るべし。その政治力、実行力、統率力・・どれをとってみても卓越していた。利用できるものは徹底的に利用し、目的を完遂するためにはハッタリや政治的妥協そしてすれすれの”行為”を行った。
天皇の存在を利用し、明治維新の大業を行った長州の考え方は、そのまま日中戦争から太平洋戦争の破滅へとつながったことは否めない。
日本を中心として朝鮮半島を足場にアジアがタッグを組んで西洋列強諸国に対抗するという考え方は、松陰の考え方だったことが今回初めてわかった。
あの時代、日本の選択肢は他にもなかったのだろうか。韓国併合、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争の悲劇と向かった日本を考えてみると歴史が継続してつながっていることを深く思う。
天皇の存在を考え直してみる機会にもなった。
蛤御門の変で戦死した彼もまた天寿を全うした。続く桂小五郎、伊藤俊輔、井上馨、山縣有朋などの人材を育て、彼らが明治維新を遂行、完遂したのだから。 -
過激なテロリストが歴史のなかで死後、祭り上げられていく。尊皇攘夷思想が日本の侵略の原点であったのが興味深い。