狼少年のパラドクス: ウチダ式教育再生論

著者 :
  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (261ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784023303775

感想・レビュー・書評

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  • 内田樹の書いた本は非常に好きで、沢山読んでいる。沢山読んだ、内田樹の本の中でも、この本はかなり好きな部類に入る。
    「ウチダ式教育再生論」という副題からも分かる通り、本書は教育、特に大学教育について語った本である。本書は2007年の発行であるが、内田樹は2011年まで神戸女学院大学の教授を務めていた。本書掲載の文章が書かれた当時は、更に、神戸女学院大学で教務部長のような仕事をされていたようだ。内田樹の大学教育に対しての問題意識というか危機感は強烈である。また、文科省の大学政策には非常に批判的なのであるが、教務部長という仕事は、文科省の指示を、居並ぶ教授陣を説得しながら行う必要がある仕事のようで、本書には、そういった、問題意識・危機感・文科省や同僚の教授たちに対しての怒り、等が、ものすごくビビッドに示されている、というか、かなり感情的になっていることがよく分かる文章が多く収められている。内田樹は生きの良い文章を書く人であるが、あまり感情的になった文章を読んだ記憶がなかったので、珍しく感じた。
    内田樹の大学教育、というか、文科省の政策に対しての問題意識は数多く書かれているが、その内の大きなものの1つが、文科省が大学に対して、市場原理を持ち込んだという点である。大学とは、そもそも「弱肉強食・適者生存」の世界であるはずがなく、「若い人々を学びへ動機付け、学術の水準を上げ、さらには日本人全体の知性的・道徳的成熟を期する」場所であるはずだというのが、その批判の内容である。そういったことは、効率とか費用対効果という考え方に最もなじみにくい(というか、短期的な費用対効果を測るのは無理)ものだと主張する(私もそう思う)。その他にも批判のネタは沢山あり、それらが本書の中で延々と続いていく(しかし、それは面白い)。

    また、それとは別に、「1966年の日比谷高校生・吉田城と新井啓右の思い出」という一文が掲載されている。内田樹は日比谷高校の出身(2年で退学しているので、正確には"出身"とは言えないのかもしれないが)であり、吉田城氏と新井啓右氏は、日比谷高校の同期生である。文章は、吉田城氏が亡くなった際に編まれた、追悼文集に寄せた内田樹の追悼文である。本書の中で(というか、内田樹の他の著作を含めても)、この一文はかなり異質である。吉田城氏(および、新井啓右氏も若い頃に亡くなられており、この文章は新井氏に対しての追悼の意味も含んでいるはず)に対しての想いが詰まった、しっとりとした美文である。これも、読み応えのある文章であった。

  • 15年前の論説を、10年ぶりに読んで、こんなに面白いもんですかね。
    という割には評価が高くないのは、同じ教育論として「町場の教育論」「下流志向」「先生はえらい」との差をつけるためです。

  • 学生が侵しやすい論文執筆の曲解、大学のダウンサイジング、大学は自己の変容を体験する場である等々。
    自分と同じ立ち位置でもの申してくれる内田氏の言葉にぞくぞくした。

  • 学生時代に就職活動で、就職担当者を訪ねたことがありました。その担当者は終始、不遜な態度かつ高圧的な物言いで癇に障ったのを覚えていますが、怒り、というか落胆を禁じ得なかったのは次のような言葉でした。自己PRできるものは何かと問われ、「結構、本を読んでいます」と答えると、「そんなことして何になるの?」と嘲笑したのです。
    言うまでもなく、大学は学生に教養を身に付けさせるための教育機関であり、最高学府と呼ばれるように、あらゆる教育機関の最高位に位置する存在です。教養を身に付けるための最も基礎的かつ必須の方法である読書という営みを、卑しくも大学人(教官だけでなく大学運営に関わる全ての方たち)たる者がかくも軽く見積もり、しかも軽々に口にするのはいかがなものでしょうか。私はこの大学に入ったことを後悔しました。
    むろん、就職担当者にとって、学生の就職率を上げることが最大のミッションだということは分かります。そうした崇高(かどうか分かりませんが)な責務を担う当該の就職担当者にとって、「趣味は読書」というのは、就職氷河期と呼ばれた当時の社会状況にあって、いかにも危機意識に乏しく、牧歌的に映ったのかもしれません。
    しかし、企業が求める人材育成に汲々とするあまり、大学が本来、果たすべき社会的機能を忘れた結果が今の体たらくを招来した最大の要因であることを指摘しないわけにはいきません。
    恐らく、内田樹先生も同意してくださるでしょう(願望)。たとえば、こんなエピソードが紹介されていて、思わず膝を打ちました。
    長いですが、引用します。
    □□□
    ゼミが始まる。
    新四年生のゼミは初回から欠席者が六人というありさま。卒論研究計画の提出日だというのに。
    就職活動というのは、そんなにたいせつなものなのであろうか。繰り返し言っていることだが、もう一度言わせて頂く。大学生である限り、就職活動は「時間割通り」にやりなさい。
    諸君はまだ大学生である。いま、ここで果たすべく期待されている責務を放棄して、「次のチャンス」を求めてふらふらさまよい出て行くようなタイプの人間を私たちは社会人として「当てにする」ことができない。
    当然でしょ。いま、ここでの人間的信頼関係を築けない人間に、どうしてさらに高い社会的な信認が必要とされる職業が提供されるはずがありましょうか。
    そんなこと、考えればわかるはずである。
    「おっと、こうしちゃいられない」
    地獄への道はこの言葉によって舗装されている。これは長く生きてきてわかったことの一つである。みんなそうつぶやきながら破滅への道を疾走して行った。
    □□□
    内田さんは神戸女学院大学の教授(執筆当時)ですが、「学生の本分は勉強である」という、当たり前といえば当たり前ですが、当今は建前としてもその意味を失った本義を頑なに信じ、しかも堂々と表明しておられます。私はこのような大学人がいる大学を羨望します。ビジネスマンを養成する機関にはなってほしくないのです。
    本書は2004年に書かれたものです。学生の就職難は現在もそれほど変わっていません。もしかしたら、「きれいごと」と受け止める向きもあるかもしれませんが、どうでしょうか。
    いささか偉そうなことを書きましたが、正直に告白すると私はほとんど「クレイジー」と形容されるほど不真面目な学生でした。末尾になりましたが、そのことについては出身大学の教官、職員の皆様に率直にお詫びしたいと存じます。いえね、学生の皆様に「大学では勉強しろよ。僕みたいに後悔するぞ」とアドバイスしたい意図もあるわけでモニョモニョモニョ。

  • (以下引用)
    「近代史上もっとも成功した教育システムである「幕末の私塾」がなぜ放棄されて、明治の公教育システムが構築されたのか。(中略)「幕末の私塾」が産み出したのが「回天の英傑」ばかりだったからである。そんなものにぞろぞろ輩出されたのでは近代国家のプロモーションは成り立たない。「政体を転倒するほどのスケールの大きい人間を生み出す教育システムはもういらない」ろいうことを暗黙の前提として、明治以降近代の公教育システムは構築されたのである。(P.28)

    今日、社会的上位者には教養がない。かわりに「シンプルでクリアカットな言葉遣いで、きっぱり物を言い切る」ことと「自分の過ちを決して認めない」という作法が「勝ち組」の人々のほぼ全員に共有されている。(中略)別にお嘆きになることはない。だから教養の再生プログラムも簡単である教養のある人間しか出世できないプロモーションシステムを作ればよいのである。そう、「科挙」の復活である。((中略)文部科学省も「教養教育の再構築」などとつつましいことを言わずに、ここは一発「科挙による政治家と高級官僚の登用」を提言してはいかがか。(P.119)

    ワクチンは風土病の発生現場でしか作れない。(P.157)

    中期計画を立て、数値目標を示して、目標通りの成果を出さなければ研究予算が打ち切られるということになると、研究者たちはまず目標を下方修正するようになる。確実に達成できる目標に引き下げて、プロジェクト自体を矮小化することで生き延びようとする。(P.235)

  • ジャンルに迷いますが。ストレートで学生生活を七年もする身として、大学の存在意義を考えられたことはよかった。ネームバリューではないというのは身をもって実感しているので、内田先生のお話がよくわかった。いろいろ話がとんで一冊通して集中するのは難しかったけど、内田先生のスタンスはずれないので安心して読める。本筋ではないけど、消費者としては学べないというで学びの構造はいつもいつも、納得させられてしまう論理です。

  • 予言の自己実現=狼少年のパラドクス

  • 大学人が運営や学生の質についてこんな風に発信するのは珍しいのではないか。とても興味深く、おもしろく読んだ。学術論文に関するあたりは、できれば学生の頃に読んでおきたかったと思う(当時はまだ書かれていなかったが)。でも、読んでもわからなかったかも。自分がどれほど漫然と大学に通っていたかを思い出して、ちょっと(かなり)がっかりしてしまう。
    著者の持論である大学ダウンサイジング論には、全面的に賛成だ。定員を減らすだけでなく、たとえ定員内でも、一定のレベルに達しない受験生は足切りしちゃえばいいのに、とも思う。
    が、これもムスメたちがまだまだ受験年齢ではないから抱ける感想なのかもしれない。長女が高3くらいになっても、こんなふうに強気でいられますように。

  • 内容は00年~06年ころのブログの再録が中心。
    私は彼の本を「うん、そうだよね。それってフツーじゃないの?」
    と感じつつ読むことが多い。
    氏の出版点数は確実に増えてるみたいだし、
    それは共感する人が増えている、のか
    教えを請いたい人が増えている、のか、どうなんだか。
    永江朗が『新・批評の事情』で書いてたように(うろ覚えなので間違ってるかも)
    おじさんの知性が求められてるんだろうなあ。
    後半に収められた学生時のエピソードを読むと、
    この鼻持ちならなさと文章の雰囲気が見事にリンクする(笑)
    http://takoashiattack.blog8.fc2.com/blog-entry-1642.html

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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