ひとりぼっちを笑うな (角川oneテーマ21)

著者 :
  • KADOKAWA/角川書店
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本棚登録 : 1067
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  • Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041018118

作品紹介・あらすじ

人づきあいって必要ですか?蛭子流・内向的人間のための幸福論。

感想・レビュー・書評

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  • 蛭子さんの奔放さをみていると子供がそのまま大人になったみたいで、みていて笑っちゃうけど、どこか他人事ではなく自分の中にも普段は抑えているこういう性格を持っていて、だからこそみていて感じる気持ちよさもあるような気がする いまはボケてきちゃってるみたいだけど長生きしてほしい

  • 著者、蛭子能収さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。

    蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本の漫画家、タレント、エッセイスト。ファザーズコーポレーション所属。

    2020年7月9日放送のテレビ東京系「主治医が見つかる診療所2時間スペシャル」で、軽度の認知障害と診断された。レビー小体病とアルツハイマー型認知症の合併症であるという。蛭子本人は「今後の活動についてもできる限り続けていきたい」と話している。

    現在、74歳になられています。


    で、本作の内容は、次のとおり。(コピペです)

    人づきあいって必要ですか?蛭子流・内向的人間のための幸福論。

  • 漫画家としての蛭子さんしか知らない、
    「ガロ」に描いている蛭子さんのエッセイ集。
    TV部分のところは、全く観たことがないので
    なんとも言えませんが

    そんなに無理してまでがんばらなくても
    まぁ ほどほどに

    ということだな
    と読ませてもらいました

    当たり前といえば当たり前のことなのでしょうが
    いま その当たり前であることが
    当たり前にさせてもらえない事情が
    今風なのでしょうね

  • 蛭子さんって子供の頃からぼんやりしているけど、結構毒の有る事言うおじさんとしてインプットされていました。元々漫画家なのはしているけれど読んだ事無いし、何なら何がメインの人なのか良く分からない存在でした。
    近年では太川陽介と路線バスで旅をする、マイペースおじさんとしての姿でしょうか。数年前に引退した時は意外な程寂しい気持ちになったのを覚えていますが、あの感情はなんだったんでしょう。別に何か特別好きだったわけでは無かったんですが。
    そんまマイペースおじさんが一人で楽しむ事の尊さをじっくり語ってくれています。
    僕はここまでではありませんが、人と過ごすことが苦手です。妻子供は大丈夫ですが、それ以外は出来るだけ短時間にしたいですね。ちなみに我が妻はかなり蛭子さんに近い所が有りそうです。
    家族は物凄く大事だけれど、他人が何をしているのかは関心あまりない。そして自分がされて嫌な事はしない。不愉快にさせてしまう可能性のある冠婚葬祭には出席しない。それが常識外れだと言われても、自分の心のままに振る舞う。食べものも他者に迎合せず好きなものを食べる。これってかなり現代のライフスタイルとしては違和感無いですよね。読んでいて心にフィットして軽くなった気がしました。

  • 図書館で予約いれたら、先客が約40人近くいてビックリしました。(蛭子さん、すごく人気あるんですね?)
    だいぶ待たされて、ようやく手元に来ました。
    「妻がいるからこそ、僕はこれまで通りブレることなく「ひとりぼっち」を貫くことができるのだと思います。これは、矛盾した話に思えるかもしれないけど、愛する人がそばにいるからこそ、僕は安心してひとりぼっちでいられるんです(P224)」と書かれていますが、蛭子さんの「ひとり」は「家族(妻)」を根底としています。
    私も蛭子さんと同じ(私、オット大好きなんです)なので蛭子さんの言っていることがわかりますが、蛭子さんや私と違う「ほんとうにひとりぼっちだとおもっているひと」・・・・例えばずっと一人暮らしで、連れ合いを持たず、シングルで生きていこうと思っている人(は、繋がりを友だちに求めるだろうし)、とか、現在職場や学校でイジメにあっている人・・・とか、そういう孤独感を抱えている人が読むとふざけんな!とか思うかもしれないな。と思いました。
    タメにはならないけど、面白かったです。

  • 1年ほど前からでしょうか。
    この春、小学校へ入学する息子が「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」にハマっています。
    YouTubeで繰り返し視聴し、今度、公開される同番組の映画(!)も見に行くそうです。
    恐らく、同番組のファンとしては国内最年少の部類でしょう。
    彼は同番組に出演する蛭子能収さんのファンでもあります。
    蛭子さんの言動を、心底おかしくてたまらないというように笑って愉しんでいます。
    幼児をそこまで虜にするなんて、恐るべし蛭子さん。
    というわけで、アマゾンで購入したのが本書です(前置きが長くなってすみません)。
    蛭子さんは、「友だちなんていなくていい。ひとりぼっちだっていいんじゃないかな。」と例によって、しれっと重大なことを云い(書き)ます。
    コミュニケーション能力が重視される時代、それにそっぽを向くような発言をすることはなかなか勇気のいることと思いますが、蛭子さんは本当にマイペース。
    本書では、子どものころから一人遊びを愉しんでいたこと、友達とつるんだ経験がないこと、芸能界に入ってからも友達づきあいはこれを避け、それどころか番組の共演者の楽屋にあいさつにさえ行かないことなどがつづられます。
    筋金入りの「自由人」なのですね。
    「食事会や飲み会はムダ話の宝庫」「『友だち』がいることのメリットってありますか?」などと次から次に憎まれ口を叩きますが、そうかといって憎めないのがまた蛭子さんのいいところ。
    もっとも、いいことも書いています。
    たとえば、「勝ち組/負け組」について。
    「そのとき勝っている人が、いつまでも勝ち続けるとは限りません。それがずっと続くのだとは、やっぱり僕には思えないんですよ」
    競馬に競艇、麻雀と大のギャンブル好きでもある蛭子さんの言葉だけに妙に説得力があります。
    ドキリとさせられることも書きます。
    蛭子さんは大の映画好きでもありますが、奴隷制度があった頃のいわば米国の暗部を描いた『それでも夜は明ける』という映画にアカデミー賞が与えられたことに触れ、わが国の状況を顧みます。
    「日本では、あまりそういうことはやりません。自分たちの恥となるようなことは、むしろ隠蔽しようとしますから。」
    そんな蛭子さんも最初の妻に先立たれた時はショックで涙が止まらない日が続いたのだとか。
    蛭子さんには2人のお子さんがいますが、「子どもよりも妻が大事」と言い切る蛭子さんは、何だかカッコいいと思いました。
    さて、蛭子さんを師のように慕う(?)息子ですが、父として蛭子さんのような人になって欲しいかというと留保がつきます。
    まずは友達100人作って来い!

  • 蛭子さんは自分に正直に生きている

  • 寂しがり屋なのにみんなでワイワイするのが苦手。時間も無駄だし。そう思ってるからいつも孤立してしまう。生きづらいけど、これでいいんだと思えた本です。

  •  漫画家・蛭子能収さんの自伝的エッセー。テレビで見る超個性的なキャラクターとは違った、彼の内面をうかがうことができる。
     「群れない」こと「自己主張しない」という蛭子さんの行動は、「すべては自由であること」と「良い孤独」を楽しむ、という信念に基づいていると理解した。また、蛭子さんは、人が嫌がることは言わないしない、人のせいにしない、社会のルールは守るという基本を押さえて上で、孤独を楽しみ、自由を楽しんでいるところが共感が持てる。
     今やソーシャルメディアなどで「つながる」ことが当たり前になり、「ボッチくん」だと思われたくない学生が学食でひとりで食べられない、ということを聞く。本書は、「孤独」に対して過敏な若者に、安心と元気を与えてくれる。
     「孤立」(isolated)はしたくないが、「孤独」(lonely)は決して悪いことではない。本書を読んで、その思いを強くした。

  • 792

    蛭子能収
    1947年10月21日、長崎県生まれ。長崎商業高校卒業後、看板店、ちりがみ交換、ダスキン配達などの職業を経て、33歳で漫画家に。俳優、タレントとしても活躍中

    私正直自殺って他殺と変わらない罪深い行為だと思ってる。肉体にも病気があるから精神にも病気があるだろうから病気の症状なのかもしれないけど、自殺した人=可哀想みたいな風潮嫌い。これまでどれだけの人に助けられて世話になって生きてきたの?それはあなただけの力だったの?自殺なんて傲慢の極みにしか思えない。人間は1人では成り立たない存在なのであれば、お前の命はお前のものではない。自分で自分を殺すなんて今まで大事にしてくれた人、一度でもあたたかい気持ちをくれた人の気持ちを踏みにじってる。酷いよ。

     あと、テレビに出るようになってからは、同窓会などで地元の知り合いに会うと、「お前、こないだ若いタレントにテレビであんなこと言われていたけど、どうして怒らないんだ?」みたいなことを言われることがよくあるんです。「俺が代わりに言ってやるよ」とか。それは、正直なところ大きなお世話かもしれない。  だって、テレビっていうのはそういうものだし、それで僕はお金を稼いでいるわけだから仕方ないんだよ……内心ではそう思ってはいるんですけど、やっぱりその場では言えない自分がいる。  言ってもしょうがないことだと思うし、そんなことを言って相手に気分を害されても、ちょっと困っちゃう。だから、そういうときは、なるべく笑ってやりすごすようにしています。

    もちろん、そんな僕にだってお亡くなりになって悲しい人はいます。でも、両手で数えるほどはいません。この人がこの世からいなくなって二度と会えない状況になったら、本当に悲しいだろうな……って思っている人は、正直なところ2、3人しかいないんじゃないかな。それは僕に限った話ではなく、みなさんも本音としてはそんな感じじゃないですか? というのが僕の本音です。  そういうことを言うと、「その考え方はおかしいよ」「人が死んだのになんだその考えは!」って怒られてしまいそう。でも、誰も彼もが死んで悲しいと思っていたら、その人のほうこそ精神状態が異常なんじゃないかと勘ぐってしまうんですよ。

    以前、知り合いの漫画家さんが死んだときは、さすがに線香をあげに行ったんですけど、そのときもやっぱりちょっと笑ってしまって……。本当に尊敬している漫画家さんだったし、悲しくないかと言われたら、やっぱりちょっとは悲しかったのだけど、途中からどうにもおかしくなってしまった。一度おかしくなったら、止まらないんですよ。僕はどうやら、笑い上戸なところがあるようなんです。  でもそれは、儀式みたいなものに参加して一生懸命に周囲と同じように振る舞おうとしている自分のことが、おかしくなってしまうっていうことなんです。その場所にどこか違和感を持ちながらも、無理をしてやっているのが自分で痛いほどわかってしまうんです。

    差別的な感情っていうのは、多くの場合「誰かを見下したい」という、人間のなかにあるネガティブな欲求と結びついているような気がしてならないんです。誰か自分より下の相手を作ることによって、自分が偉くなったように錯覚するということかもしれない。自分が優位に立つために、他の誰かを 貶めるなんて、本当に愚かな行為だと思う。  ただ、そうやって誰かをいじめたり、差別したりするような人も、実際に一対一で会って話してみたら、普通にいい人だったりすることが多いからこれまた不思議。ちょっと拍子抜けするくらい、ごく普通の人だったりしますよ。だけど、 一旦 そのグループの一員になってしまうと、どんな非道なこともしかねないということなんです。

    政治のことはあまりよくわかりませんが、僕自身は、どちらかと言えば左翼っぽい考え方に近い気がしています。否定はしませんが、右翼的な考え方はどうにも苦手ですから……ね。僕が観て面白いと思う映画は、なぜかほとんどが左翼っぽいものだったりするんですよ。たとえば、大島渚 監督や 新藤兼人 監督の作品などです。

    心情的には左翼寄りな気がするし、裁判員制度にも反対ではあるんですけど……カンパをしたりデモに参加したりするのはダメ。そうやってみんなで群れて一緒に行動するということがやっぱり理解できない。もちろん、僕もそれなりの年齢ですから政治や世の中のことに対して、ほんの少しは思うことや意見したいことはあります。でも、それって各自でしっかり持っていればいいだけの話であって、別に群れなくてもいいことなんじゃないかなって思うわけです。

    人間の魅力というのは、その人が所属している集団から生まれるのではなく、あくまでもその人自身の技量や性格から生まれるもの。その本質だけは、見誤ってはいけないと思います。

    そして僕自身が内向的だからかもしれないけれど、明るくてワイワイ騒いでいる人よりは、ちょっと暗い感じのタイプの人を僕は好む傾向にあります。タレントでも、内向的な人間が最近ちょっと出てきましたよね。たとえばモデルの 栗原 類さんとかもそうです。長身でハットを 被って、根暗オーラを出している個性的な方。  ああいうネガティブな感じの人は好きなタイプかもしれない。いかにも友だちがいない感じがするじゃないですか(たくさんいたらすいません……)。僕と見た目はまったく違うのに、ちょっと同類のように感じてしまう自分がいます。

    とはいえ、実際に栗原さんと仕事で会う機会があったとしても、自分から積極的に話しかけるようなことは、きっとないですしできません。だから、友だちには多分ならないと思います。  けれど、そういう人たちは他人に対して、迷惑もあまりかけないし、絶対に意地悪もしないと断言できます。

    そういう「安心感」を求めるための「友だち」作りなんてやってもしょうがないですよ。「友だち」なんて、結局いつかはささいなことで離れるもの。「友だち」を作る努力をするくらいなら、「家族」を作る努力をしたほうがいい。  僕はそんなふうにとらえているんですよね。

    だから、内向的でも、とりあえずの趣味の世界というか、自分が没頭できるなにかを持っていたほうがいいかもしれませんよ。  僕の場合、仕事でもあるけれど、それが漫画なのかもしれない。そうやって自分が没頭できる世界を通じて、誰かとコミュニケーションを取れるかが重要になってきます。いくら他人と接触するのがイヤでも、趣味を通してなら接触できますからね。

    これまで散々ひとりが好きと書いてきましたが、僕だってひとりの世界に完全に閉じこもりたいわけではありません。別に世捨て人とか、 隠遁 者みたいな存在になりたいわけでもない。それはやっぱり、ちょっと寂しいから。ならば、自分を表現できるなにかを身につけて、その世界が好きな人たちとコミュニケーションを取ることくらいはしたいですよね。  だから、内向的「すぎる」のはよくないと感じるんです。

     内向的な人が好きだからといって、外向的でコミュニケーション能力の高い人を否定するつもりはありません。外向的な人は、相手を気遣ってくれる人も多いですから、そういう人と話すのはやっぱり楽しい時間ですからね。だから、否定などしませんし、自分はなかなかそういう人間にはなれないということなんです。

    仕事でいろいろなテレビ番組にも呼んでもらうのですが、そういう仕事の場だと、お笑い芸人の人などは、やっぱりコミュニケーションを取るのが 凄い。 有 吉 弘 行 さんやバナナマンの 設 楽 統 さんなど、司会もできる芸人さんには、とくに一目置いてしまいます。あと、アンジャッシュの 渡 部 建 さんや、FUJIWARAの 藤本 敏 史 さんの知識量も、圧倒的でビックリしてしまう。

    お笑いの人たちって、とにかくためになることからくだらないことまで情報をたくさん持っています。クイズ番組に出ても、お笑いの人にはまるで勝てませんよ。僕が情報を持っていなさすぎる、ということを差し引いても、本当にみなさんいろんなことをよく知っているなって感心するばかり。  多分、みんなが見ていないところで、新聞を読んだり、本を読んだり、努力をしていることでしょう。その情報を持っていて、なおかつ人前で活かせる能力というのは、やはり魅力的です。だから、お笑い芸人は異性からもモテるのかもしれません。

    石田 純一 さんと麻雀をしたことがあるのですが、あの人のコミュニケーション能力の高さには、本当に驚くばかりでした。麻雀をしながら、全員と軽快におしゃべりをするんですよ。しかも、全員に気を配りながら。「なるほど、女性にモテるわけだ!」とつくづく思ったものです。

    小学生くらいのとき、本当はその子のことが好きなのに、それが 上手く表現できなくて、結局からかったりしてしまうみたいなことってありましたよね。その子が可愛いから、思わずちょっかいを出してしまうような。

    というのも、僕の場合、誰かに「嫌われている」と思ったことがないんです。それを誰かに言うと驚かれるのですが……「嫌われている」とはまるで思わない。だから、「嫌われているから、いじめられている」という図式は、僕のなかにまったくないということです。むしろ、「自分は好かれているんだな」と思っていましたからね。好かれているからこそ、パンを買いに行かされたりしているんだって、そんなふうに解釈していましたよ。

    だから、好きか嫌いかと言えば、やっぱり好かれていたんでしょう。都合のよい解釈に見えるかもしれないけれど、これはこれで「あり」な考え方だし、そう解釈してしまった方が人生はとてもラクですよ。僕はくだらないことで深く悩みたくはないし、ラクな解釈で気が落ち込まずに済むなら、勝手にそうしてしまう頭の回路なのかもしれません。

    子どもに限らず、大人になってからもいじめで悩んでいる人は多いと聞きます。同僚や上司からの嫌がらせで精神的に追い詰められているとか、友だちのグループでもどこかのけものにされるとか。そういうのって、とても苦しいことだけど、そこで「自分は嫌われているんだ」なんて、自己嫌悪に陥る必要は絶対にありません。  むしろ、「好かれているからこそ、かまわれているんだ。ほんとに参るなあ。ハハハッ」くらいの発想でいたほうが、都合がいいんじゃないかな? だって、一般論として「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」だって言うじゃないですか。

    なぜでしょうか? 僕はあいさつという行為そのものが、逆に相手の迷惑になってしまうんじゃないかって考えてしまうんです。僕のような人間に楽屋にあいさつにこられても、先輩の方々は、心のなかで「あ、蛭子さん。うっとうしいからいいよ」っていう感じになってしまうんじゃないかって。だから、なるべくあいさつには行かないようにするんです。  僕もテレビに出るようになってから、それなりのキャリアがあるので、最近では新人の若い女性のタレントさんなどが、僕の楽屋にあいさつにきてくれます。多分その人たちは、マネージャーさんから「とりあえずさ、蛭子さんの楽屋も顔出しときなよ」とアドバイスをされているだけなんでしょうけどね。大勢が出演するバラエティー番組などでは、本当にもう何人も何人も、僕の楽屋を訪ねてくる始末です。

    不器用で気の利いたことが言えない僕などは、そういう 類 の仕事がくると、いまでもすごく苦労しながらやっています。だって、もともと食に関するこだわりはほとんどないし、いろいろなものを食べる趣味もない。地方ロケとかに行っても、その土地の特産物とかに全然興味がないんですよ、これが……。  だから、そういう撮影でもそのとき自分が普通に食べたいものを注文しちゃいます。「はじめに」でも少し触れたように、カレーライスとかトンカツ、あとはラーメンとかをバカ正直に頼んでしまうんです。だって、それが食べたいから仕方ない。そういう意味では、本音で行動しているのですが、なかなか難しいものです。

    でもこれがまたテレビの不思議なところで、特産物を注文しないそんな僕がどうやら面白く見えるようなんですよ。自分では至って普通にしていることが、面白がられて「個性」になる。主張はしていずとも、それが面白いとされて仕事になるなんて、僕はやっぱり幸せ者なのかもしれませ

     そんなことからも、評価っていうのは文字で書いてあるくらいがちょうどいいんじゃないかなって、僕は思っているんです。文字で書いてあれば、たとえそれが自分の漫画に批判的な意見であっても、ちゃんとした〝批評〟になっているならば、しっかりと読みたくなる。「あ、こういうふうに思われているのか。じゃあ、機会があったらその意見も取り入れて作品を描いてみようかな」って、そこは 真摯 に受け止めます。  よいことも悪いことも、自分の漫画に対する感想や評価はすごく知りたいし、それを正しく知ることが、より面白い漫画を描くことにつながると思っています。多少批判されていようとも勉強になるじゃないですか。

    僕が描いているような雑誌の編集者は、僕と同じような内向的な人が多いので、面白くなかった場合、目の前にいる漫画家にいろいろ言うのがイヤなのかもしれないと分析しています。もし自分が逆の立場だったら、きっと同じようになにも言わずに原稿を受け取ってそそくさと編集部に戻るでしょうから。

    最近も集団的自衛権の解釈をめぐって、 安倍晋三 首相がいろいろな発言をしています。要は、アメリカがどこかを攻撃したら、日本もそれを助けに行かなくちゃいけないみたいな話だと思うのですが、それをいいことに憲法解釈を変えようとしているじゃないですか(本当は憲法そのものを変えたいんでしょうけど)。ここ最近の右翼的な動きは、とても怖い気がします。安倍首相は、恐らく中国と韓国を頭に入れた上で、それをとおそうとしているのでしょうけれど、僕はたとえどんな理由であれ、戦争は絶対やってはいけないものだと強く思っています。

    芸能界で仕事をするようになってからというもの、現場でよく会う人やたわいのない話をするような人もできました。『スーパーJOCKEY』の共演者として知り合った松村 邦 広 さんがそうです。ただ、松村さんが友だちかとなれば、やっぱりそうじゃない気がする。  向こうだって僕のことを友だちとは思っていないでしょう。松村さんも僕と同じで、いつも現場でひとりポツンとしている感じがあります。テレビで観る分にはわからないかもしれないけれど、彼には一匹狼のような雰囲気があるんですよね。誰かと顔を合わせればきちんとあいさつや会話をしていますが、それが終わるとまたひとりの世界にいる。僕からすると、そういう松村さんのような人は、なぜか話しかけやすい。

    ご想像どおり、僕はあまりに自由な生き方をすることから……同僚とたわいのない話をしたり、よく飲みにいったりといったコミュニケーションは取れません。でも自分のなかに、「俺は他の人とは違う」みたいな思考はまったくないんです。つまり、一種の上から目線的なものですよね。自分が特別な存在であるなんて、思ったことがない。ある意味、孤独感というのはその感情の裏返しの部分もあるように思えてなりません。自分は特別な人間なのに疎外されている、みたいな思考ですよ。  それって、孤独に酔っているだけじゃないかな? 少し極端な考えかもしれないけれど、〝孤独酔い〟する人に関しては、最近では犯罪者にも多いような気がする。孤独であると思い込んで、そしてその孤独に開き直って、普通の人には思いもよらない過激な事件を起こしてしまったり。先日もアイドルグループの握手会の会場で、のこぎりで切りつけるといった事件がありましたが、まさしく典型的な事件だったように感じます。孤独を狂気に変換するなんて、あまりに自分勝手な行為で許せませんよ。

    他人からどう見えているのかはわかりませんが、僕自身はごく普通の、特に秀でたところのない人間だと思って生きてきました。そして孤独だとも思わない。もしも孤独だと感じている人がいたら、あまり思い詰めないほうがいいんじゃないかな? 「俺は孤独だ、孤独だ」と思い続けていると、それはいつの間にか得体のしれない狂気のような感情に変わってしまうものだから。

    孤独の話で思い出しましたが、1回だけ、ひとりで海外旅行に出かけたことがありました。旅の計画は、別にひとり旅というわけではなく、本当は家族で一緒に行くことになっていたんです。でも、なにかの都合の問題で、僕だけ先に行ってその何日後かに家族がくるという段取りになったんですね。それで2日くらいひとりですごしたのですが、そのときは無性に寂しさがこみ上げてきました。

    日本にいるときなら、ひとりで知らない街を歩いていても、寂しいなんて思いませんよね。でも、これはやっぱり言葉の問題なのかな? そこはオーストラリアだったのですが、最初はみんな英語を話していて面白いなって思いながら見ていたんですよ。でも、なにを言っているのかわからないから、だんだん不安になってくる。向こうが言っていることがわからないということは、つまり僕の言うことも向こうはわからないんだと思った瞬間、急に不安になってしまった──。

    ペットを飼うことによって孤独を満たしている人は、どこか自分のなかで世界を閉じているような気がしてなりません。僕の推測では、動物の気持ちというのはその人の思い込みに過ぎないわけだから、ある意味、〝自己完結〟しているとも言える。ペットがいればそれで十分というのは、言い方を換えると、他の人間との接触を、あらかじめ避けていることになるんじゃないかな。  それではよくないと思うんですよね。ひとりぼっちでいる人よりも、むしろよくないかもしれない。ひとりぼっちの人は、心のどこかで寂しいと思っているから、他の誰かと少しはコミュニケーションを取りたいと願います。でも、「ペットがいれば十分」という人は、そこで他人と話したいとは考えない。それは、自分で自分を 騙している、一種のまやかしのように見えてきます。

    死んだらどうなるのか? 本当のところは誰にもわからないというのがますます怖い。わからないのであれば、死後のための準備も心構えもできないじゃないですか。でも、好きではない葬式にも出て、両親も死に、前妻も死んだ。そこでわかったんですよ。〝人は死んだら、なにも残らない〟って。だから年齢を重ねるたびに、死後の世界というものをまったく信じなくなりました。死は怖いものだけど、人は死んだら、きれいさっぱりなにもなくなるだけだと思えるようになったんです。

    肉親を失い、死んだらなにも残らないことも理解できた。そこで心に誓ったんです。死ぬことだけは、絶対にやめようと。それはもう〝決意〟に近いものかもしれない。  だから、僕の人生の一番の目的は、〝死なないこと〟です。

    この本を読んでいる方で、ほんの少しでも自殺を考えている人がいるのならば……そういう人たちには、「死ぬこと以上に怖いことはないよ」と、まずは伝えたい。死んだら、自分という存在自体がなくなってしまうのに、自らそうしなくてもいいじゃないですか。あなたは世界でひとつだけの個性です。その個性が集まって、世界は作られているもの。みんながいるから、面白いことや悲しいことが起こって、人生の面白さや厳しさを教えてくれる。そう感じてほしい。

    無闇に他人に迷惑をかけることを肯定はしませんが、ときとして他人を頼ることはいいと思うんです。さすがに僕だって、自分ひとりで人生を歩んでいるとは思っていません。いろいろな人に助けてもらいながら生きているんです。  もし、それでも他人に迷惑をかけたくないと思うのなら──、自殺ほどまわりの人に迷惑がかかる行為は他に存在しないと思うんですよ。自殺した本人は、それで終わりだけど、残された人たちはきっといつまでもあなたを考え続けるはずですからね。「近くにいながら、どうして自分は助けてやれなかったんだろう」って。はっきり言いますけど、それほど迷惑なことはないですよ。だって、残された人たちにとって、その答えは永遠に出ないのだから。

    それに……自殺するのって、大変ですよね? どんな死に方をしても、どこで死んでも、誰かに多大な迷惑をかけてしまう。電車に飛び込んだりすると、親族が大金を鉄道会社から請求されるとかいうじゃないですか。そもそも自分で自分を 殺めるために必要な意志の力って、相当なものがありますよね。よっぽどの決意や行動力がないと、絶対にできないこと。僕にはきっと無理でしょうね。  もし、仮にそんなにも強い決意や行動力があるのなら、その力を他のなにかに向けることはできないのかなあって思ってしまう。世の中、自殺するよりもラクにできることなんて、いくらでもありますよ。死ぬ前に、まずは、そっちをやってみてもいいんじゃないかなあ。

    だから、自分がもしそういう状態になったとしたら、やっぱり延命治療とかはしてもらいたくない。じつは僕、『日本尊厳死協会』っていうのに入っているんですよ。もし回復の見込みのない状態になったら、延命治療はしてくれなくていいから、もう尊厳死させてくださいっていう意思表示です。そういう宣言書にサインをして、その意思を表すカードを持っているんです。

    いまの妻は、僕が再婚を決意して、いろいろな媒体でお嫁さんを募集したときに出会いました。具体的には、雑誌の企画で応募してもらった人たちのなかのひとりだったんですね。最初に写真を見たときから、とってもタイプで──しかも、僕の漫画のファンだと書いてあるものだから、これはもうすぐにでも会いたいとなった。  僕の漫画のファンというくらいだから、変わっていると言えば変わっているかもしれないけど……会っているうちに、そんなことは気にならなくなりました。そのあたりは多分、お互いさまですよね。

    歳は 19 歳僕よりも若いのですが、いざつき合ってみたら、歳の差を感じるどころか、僕はもう怒られてばっかりです。でも、彼女に言われることによって、自分のダメな部分が、いろいろとわかるようになりました。彼女とつき合うようになってから、女性に対しての優しさみたいなものが芽生えたんです。恥ずかしながら、そういうものを僕はほとんど持ち合わせていなかったんですよね。

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著者プロフィール

1947年10月21日生まれ。長崎商業高校卒業後、看板店、ちりがみ交換、ダスキン配達などの職業を経て、33歳で漫画家に。俳優、タレントとしても活躍中。おもな著作に『ひとりぼっちを笑うな』、『蛭子の論語』(ともに角川新書)、『芸能界 蛭子目線』(竹書房)、『蛭子能収のゆるゆる人生相談』(光文社)、『ヘタウマな愛』(新潮文庫)などがある。O型、てんびん座。

「2019年 『死にたくない 一億総終活時代の人生観』 で使われていた紹介文から引用しています。」

蛭子能収の作品

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