- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041033142
作品紹介・あらすじ
大正7年、芥川はすでに文壇に確たる地歩を築き、花形作家としての輝かしい道を進んでいた。愛娘を犠牲にして芸術の完成を図る老絵師の苦悩と恍惚を描く王朝物の傑作「地獄変」、香り高い童話「蜘蛛の糸」ほか、明治物「奉教人の死」、江戸期物「枯野抄」など溢れる創作意欲の下に作品の趣向は変化を極めている。
感想・レビュー・書評
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芥川龍之介の短編集。
「袈裟と盛遠」「蜘蛛の糸」「地獄変」「奉教人の死」「枯野抄」「邪宗門」「毛利先生」「犬と笛」の8編。いずれも大正7年の作品。
全体としては冷やりと凄みのある、人の心の深淵を覗くような作品が多い。「犬と笛」だけは若干毛色が異なり、子供向けのおとぎ話風のお話である。これの代わりに例えば「藪の中」でもよかったような気もするが、それでは救いがなさすぎたか。ある意味、全体の締めくくりとしては緩和剤となってちょうどよかったかもしれない。
「袈裟と盛遠」は、よく知られる文覚上人出家の前日譚である。人妻である袈裟御前に盛遠(のちの文覚)が横恋慕する。ために夫の渡辺渡を殺すつもりが、誤って(袈裟の企みによって)袈裟を殺してしまい、その結果、発心する、というお話。元は「源平盛衰記」であり、史実ではないようだが、凛とした袈裟の物語として、さまざまに脚色されてきた。これを芥川はもう一ひねりして、単なる貞女・烈女ではない袈裟、恋に眼がくらんだだけではない盛遠を描いている。しかし、物語がこの顛末だと、果たして盛遠は出家したかな・・・?
「蜘蛛の糸」は、罪人・犍陀多が地獄から救われるかと思わせておいて、のお話。初出は「赤い鳥」創刊号であり子供向けだが、子供たちからは「犍陀多がかわいそう」という感想が寄せられるのは無理のないところか。
「地獄変」は別稿。
「奉教人の死」はキリシタンもの。長崎のキリスト教寺院に住む「ろおれんぞ」と称する少年。町の娘と密通して子をなしたと疑いを掛けられ、寺院から追放される。困窮に沈む「ろおれんぞ」だが、ある日、長崎の町を大火が襲い・・・。鮮烈な幕切れに息を呑む。
「枯野抄」は芭蕉臨終の場の物語。その時を待つ弟子たちの内面を描き出す。簡潔にして目配りが効き、シニカルな洞察に満ちる。
「邪宗門」は「地獄変」の後日譚の体。堀川の大殿様の息子の若殿様の物語。美しい中御門の姫とのあれこれから、幻術を使う(おそらくキリシタンの)摩利信乃(まりしの)法師の出現と来て、一大幻想ファンタジーとなりそうなところでぶつっと終わる。未完の作。
「毛利先生」は風采の上がらぬ老英語教師の物語。解説では「芋粥」の系譜と言っている。なるほどそうなのかもしれない。毛利先生はただの滑稽な「敗残者」なのか、それとも崇高な高みに至った「聖者」なのか。
「犬と笛」は別稿。
そこここに教養を感じさせるというか、難解な言葉が並ぶ(最低限の注釈はつくが、言葉に関してはあまり詳しい解説はない)。カドフェス2021版の帯についている「人として五常をわきまえねば、地獄におちるほかはない」(「地獄変」)もなかなかだが(五常は仁義礼智信)、「枯野抄」の芭蕉臨終を示す「溘然(こうぜん)として属絋(しょっこう)についた」もすごい。それでも読ませてしまうのがある意味、筆力というものか。
大正7年、芥川26歳。結婚もして、筆も乗りに乗っていた頃。だから特に暗い影があるわけではないのだが、全編通しての鋭利過ぎる才気に、この才能は持ち主を幸せにはしないだろうな、と何となく思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
新技巧派ならではの表現の癖を感じられて面白い。夢と現実を行き来するような虚構の遊戯性を強調する文体は反自然主義ならではで、どこか童話らしさをも感じさせる。
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①『地獄変』
完全な地獄屏風を完成させるために娘を豪華の炎に追いやる良秀。彼の中に「完璧なる芸術」を希求する欲求と、非人道的な方法で愛娘を美の遂行のために殺してしまう事への葛藤が相剋しており、なかなかに考えさせられる作品。特に炎の描写は圧巻。生きたことのない時代にも関わらず、燃え盛る馬車のイメージがまざまざと浮かんでくる。あっという間に物語に引き込まれてしまった。
地獄変が人々に認められたことで、芸術が道徳を超越したかのように見えたが、結局良秀は自殺してしまった。芸術至上主義へのアンチテーゼとも捉えられつつ、
真の芸術は、死を伴う葛藤の上にようやく実現可能なほど尊いものだと言われているような気もした。
記憶に焼き付く作品。
②『枯野抄』
松尾芭蕉の死を前にした弟子たちの「死」に対する赤裸々な矛盾が語られる。案外、人の死を前にした人間の感情は、利己的な感情や嫌悪感、恐怖など「悲しみ」だけで語れるものではないのかも知れない。芭蕉は夏目漱石をイメージして描かれたものであるという説もあるようだ。漱石というカリスマの呪縛から解放された自分自身と重ね合わせて描かれたのかもしれない。
「自分たちは師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分自身を悼んでいる。ーーそれを非難したところで、本来薄情に出来上がった自分たち人間をどうしようか」
③『邪宋門』
個人的には、人々の信仰心の脆さや危うさを描いていると解釈した。恋愛に対して若殿は、「いつ始まっていつ終わるかだけが気がかり」「始めから捨てられるつもりでいる」と述べている。そして、恋愛も宗教も、ただ世の中の無常から逃れるための救済措置の手段に過ぎない。つまり、恒久な恋愛感情の実現が不可能なように、宗教における信仰心も簡単に捨てられて、乗り換えられていく。という事か?
『奉公人の死』では殉死のようなものを描いていてかなり宗教に対しての信仰が熱い作家なのかと思っていたが、この解釈だと他の作品との調和が取れないか。。?
④『毛利先生』
自己の本質を不器用にしか表現できない人間の哀れを描きながら、それに侮蔑の目を向ける人々の倨傲に、作者の深いため息が聞こえてくるよう。不器用ながらも、自分らしい道を、自分らしく歩む先生の強さに感服。
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“地獄変”はアーティストとは?という問いを芥川が投げかけているようだった。自分もアーティストとはどんな人なのかよく考える。類まれな才能があって、ストイックで、人生より芸術に重きを置いている人、私生活や人付き合いを犠牲にしてでもただひたすら、独りで何かを考えたり作り上げたりしている人なのかなと思う。例を出すと、ハリウッドの巨匠、スピルバーグや毎日コントを上げているジャルジャルとかかな。
ただ地獄変の絵師、良秀は娘を殺されてまでも、自分の求める芸術を追い求め続けた。作中の高僧は仏教的な立場から、いくら芸に優れていても、人を殺してはダメだ的なことを言っていたが、実際はどうなんだろう。自分もこれはやりすぎなのかなと思ったけど、芸術的な観点から言えば、良秀の生き方は美しく正しいのかもしれないし、芸術家とはこういう人を指すのかもしれない。もしかしたら芥川は自身の芸術家としての生き方や決意を良秀に投影したのかもしれない。
“奉教人の死”も結構好きだった。芥川の作品はこういう儚くて救いようがない話の方が好き。人物の機微をしっかり描いているから本当に面白くて読み応えがある。それと芥川の歴史ものは古文で書かれているものが多くて、古文単語とか慣れていない自分には読みにくいけど、これを機に源氏物語とか今昔物語とか読んでみようかなと思う。 -
地獄変はかなり好き
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【2022年30冊目】
蜘蛛の糸、羅生門、杜子春しか読んだこと無かったので、久々に芥川に触れたいなと思ってこちらの短編集を読んだのですが…作風の幅広すぎてビビりました。同じ作者が書いたとは思えない、すごいですね…。邪宗門だけ全然理解できなかったのでまた時間を置いて読んでみたいと思います。 -
最愛の娘を焼かれながらにして、良秀の悲しみや怒りが狂気に変わっていく様が何度読んでも凄みを感じる
芥川龍之介の短編小説はほんと凄い
いつまでも心に残ってふと読み返したくなる -
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