科学と人間の不協和音 (角川oneテーマ21 C 215)
- 角川書店(角川グループパブリッシング) (2012年1月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041101117
作品紹介・あらすじ
現代科学の"危うさ"を検証しポスト原発事故の科学を構想する。
感想・レビュー・書評
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タイトル通り科学者のイメージや思いに対する不協和音が、いろいろな視点で語られている。
科学というものが、皆の中で印象によって素晴らしくもあり、不確実なものとも捉えられてしまうのは仕方ないのかな。しかし、少しは中身を理解する意識がないと、結局自分が損をする気がした -
日本における「科学技術」という概念の分析が興味深い。基礎科学の理学部と技術開発の工学部の比率はおおよそ1対8が維持され、「科学技術」というのはもっぱら技術の推進を意味し、科学はその補完物とみなされてきたという。技術を科学の僕とみなすヨーロッパ、その反対の日本という指摘も重要。
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科学者・研究者の、どうお金に縛られているかがわかる。だから、御用学者なんぞが生まれてしまう・・
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科学技術。
こういった言葉使い、日本人は好きですよね。
四字熟語じゃないのに。。。
安全安心とか。。。。
科学と、技術は違うものだと説いてあるところは
快哉を叫びましたよほんと。
文系が支配する国で、理系が生きていくには
なかなか、辛いのです。
給料すら差がある。
せめて、科学の中に夢を追い求めさせてほしいと
常々願う理系人間より、歓喜をこめて。 -
科学と現代社会の危うい関係について、「産業」「軍事」「宗教」などの観点から考察している本。著者自身も一流の物理学者であり、一種の自己批判として書かれているだけに迫力がある。また、疑似科学(エセ科学)と長年戦ってきている人だけに、「科学が世間からどのように見られているか」についての嗅覚は非常に鋭いと感じる。
まあ、私はすでに産業界に取り込まれた側の人間なので(笑)、半分は他人事といった感じで読んだのであるが、科学技術史を丹念に紐解きながら論を進める姿勢には好感をもった。あと、私が昔から抱いていた「科学者や技術者の最大のメリットは徴兵免除である」という直観は、歴史的にも完璧に正しかったことが分かって嬉しい。兵隊として戦争に巻き込まれるというリスクが、平和憲法によって無効化するなんてありえないんだから。 -
つまらん
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科学は文化で、技術は文明に資するものだというスタンス。なのだけれど、昨今は科学の商業化が進み、文化の高みを目指すような科学の研究がしづらくなっていること、そして科学者のモチベーションの或る種の幼稚さと、視界の狭さ。
原発事故で科学と市井の人々の信頼関係に亀裂が入ったように、そんなことを聞くと、科学に失望したくもなりますが、終章の「地下資源文明から地上資源文明へ」は、短いページながら、とても納得できる内容でした。 -
科学と人間との関わりについて、
震災による原発事故をきっかけとして、科学と人間との不協和音が最高潮に達した、という切り口で、西洋文明史おける科学者論、日本の科学技術論、人間の欲望と科学の共犯関係、科学の神格化、産学官共同体、等を論じている。
科学者は為政者達に利用されてきた被害者ではなく、業績のためにそれを利用してきたとして、マンハッタン計画への関与を批判。万世一系の神の国の詭弁、そして原発安全神話の崩壊。
研究費獲得に奔走せざるを得ない現代の科学者への同情を禁じ得ないものの、産官への無節操な迎合は厳に慎むべきものだろう。 -
科学の限界。科学が科学に内在する自律した論理だけでなく、科学以外の論理や条件によって制限を受けることとして、この言葉が使われている。科学以外の論理や条件とは何か。代表的なのが、大学経営に経済論理が持ち込まれたことが挙げられる。法人化による予算の減少から、必然的に競争的資金という概念が生まれ、科学は近視眼的な実用の分野にしか重きをおかれなくなってしまった。このことに対して著者は強く競輪をならしている。「世界初」の発見、潤沢な研究費をいかに調達するか。科学者はいつもこのことから頭から離れない。加えて、スポンサーとなっている国や企業に対して、消極的な行動は取りにくくなってしまうという現状。科学と人間との間の世界はタイトル通り”不協和音”である。この現状からいかに脱却するか。特効薬などもちろん存在しない。地道で継続的な行動が不可欠になる。著者が提言するアイデアも、現役科学者の啓蒙活動や、地下資源文明から地上資源文明への転換のススメといった長期的なプランがメインである。しかし、現状の不協和音を多くの人が聞こえている今だからこそ、著者の言葉は響くのではないかとも思う。不協和音は本来、音の重なりがずれてしまって起きているもの。そのずれを適切な位置に戻して、次の世代の人たちには美しい音を聞かせてあげたいという筆者の願いがこの本から感じることができた。
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普通のヒトは、昔も今も、科学への好奇心、自然法則への憧憬が希薄なもの。それは仕方ない。なぜならば、科学のプロになるのには時間も手間も、そしてちょっとは人並み以上の知能だって必要だ。そして、自分は科学に近しい「選ばれし人」と思っている人は、エリート意識を持ったりスノッブになったり、科学に無知な人を軽蔑しがちである。
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科学者と普通の人の間に横たわるもの。科学者の研究欲を突き動かすものは「世界初」という言葉。軍事目的の研究でも「抵抗感を感じるだろうか?」科学者はどうして疑似科学に無関心なのか。
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東日本大震災とそれに伴う原発問題を経て、科学と人間(社会)が今後改めてどのように向き合っていくべきかを考えた本書。読み進めていくと、何とか主義 (例えば懐古主義)とか、何とか論(例えば生物機械論)とか何とかかんとか(例えばポストモダニズム、サイエンス・ウォーズ)といった専門用語が少し度を越して見受けられるため、またそうしたものに対して十分とも言える説明がないと感じる部分も多々あるため、文章に少し浮ついた印象を受ける。
全編を通して一貫しているのは、「科学と社会はお互いもっとしっかりと向き合って対話をしていかなければならない」という論調である。そのあたりの対話が欠けているからこそのあの原発事故であり、そういう意味では、原発事故に関して、第一義的には政府、電力会社、科学者の無責任体質に問題があるとしつつも、私たちにおいても「自らもある種の加害者であったという意識を抱きつつ、関係者の責任を追及しなければならないのだ(P148)」と述べている。
また科学者に対しては、より厳しい姿勢を求めている。科学者は誰も求めていない真理を純粋に探究する存在でありながら、そのための研究資金を獲得するためにスポンサーの意向に沿わなければならない苦悩の存在であるが、その苦悩の中でも自律的存在でなければならない。少なくとも、自律的存在であるように努力しなければならない。資金の主たるスポンサーである政府や産業にただ身を任せるような存在であってはならないし、その科学的成果についても、社会においてどのような影響を持つのか、その説明責任を持たなければならない。
僕自身、筆者の言っていることはもっともだと思うし、またそうありたいとも思うが、それにしても日本において科学と社会の本当の意味での対話が可能なのだろうか?と単純に思ってしまった。というのも、筆者も言うように、日本におけるいわゆる“科学”という概念は富国強兵のために明治期に導入されたものであり、哲学的と言うよりはむしろ技術的なイメージとの結びつきが強いからである。そもそもの存在基盤が西洋と異なる中で、日本社会が今後時間をかけながらでも、どのように“科学”を人々の思想や生活の中に落とし込んでいけるかが今後の鍵になるのではないかと思った。(何だか取ってつけたような感想になってしまうほど、何を言っていいのかが難しい本でした。”科学的思考”については自分なりのイメージがあるが、”思想や文化としての科学”と言われるとたちまちよく分からない・・・困ったものである。) -
途中で気になる点が出てきたのでそこだけ。
第4章で日本とドイツの戦争責任を持ち出しているが、見当違いであきれる。
ドイツは分断国家であったことを利用しうやむやにして、結局国家賠償はしていない。
ユダヤ人への賠償はドイツ国家としてではなく、ナチスに属した個人個人の犯した罪としてである。
一方で日本の国家賠償は北朝鮮を除き完了している(含請求権放棄)。
しかし池内はp146.現代の神話が崩れるとき の節に於いて、ドイツは戦争責任を全うし、日本は戦争責任を果たしていないと述べる。
ほかの文章がまともなだけに、こういう事実を見ないサヨク的言説を潜り込ませるのは、悪質である。
池内自身の述べる「神話」に池内自身が嵌まっているように思われる。 -
評論家であり、現役の科学者でもある池内了さんが、科学者は人々に何を期待され、誰の顔を見て何を目的に研究を行うべきかを、世に問うた渾身の著書。歴史をひもときながら、また、科学者のホンネを吐露しつつ、未来の人類の運命の鍵を握る科学者への注文が、胸に迫ります。