ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21)

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  • KADOKAWA/角川書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041107416

感想・レビュー・書評

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  • 『ヤンキー化する日本』
    2023年3月14日読了

    本書は、はじめに著者・斎藤環氏のよくまとまった論説があり、
    アート、建築、日本近代史など様々な専門を持つ人々との対談が中心をなす。

    特に、著者の「なぜ今、ヤンキーを語るのか」という論説が、ヤンキー文化を簡潔にまとめており大変わかりやすい。(斎藤氏には『世界が土曜の夜なら』というヤンキー・テイストを分析した著書がある。わたしは未読のため想像になるのだが、この論説はこの本がもとになっているだろう。)

    本書では「日本社会そのものがヤンキー的な価値観に基づいて、その大半が構築されている」としている。妙に説得力があるのは、きっとわたしにもヤンキー的な価値観が内包されており、身近な経験として思い当たる節があるからだ。

    学生時代には「気合主義」に基づくスローガンを掲げ、体育祭では「(みんなのために)がんばれ」と応援していた。テレビなどのマスメディアでは、論理的で整然としたインテリよりも、地頭がよくてコミュ力の高いヤンキーの方が目立っているだろう。

    著書が書かれた当時の日本社会を分析する上でも、現在を生きる自分自身を知る上でも、納得する部分が多く大変興味深い内容だった。

  • 非常に面白かった。
    読みながら撮ったメモ(iPhoneでページを撮影しているので"撮"の字で正しい)でいっぱいになってしまったほどに。

    <div class="amazon Default"><div class="pictBox" align="left" ><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E8%A7%92%E5%B7%9Done%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E21-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E7%92%B0-ebook/dp/B00JMAIOGG%3FSubscriptionId%3DAKIAIM37F4M6SCT5W23Q%26tag%3Dlvdrfree-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00JMAIOGG" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51xwmJQOCXL._SL160_.jpg" alt="ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21)" border="0" hspace="5" align="left" style="margin-right:10px" class="pict" /></a></div><div class="itemTitle"><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E8%A7%92%E5%B7%9Done%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E21-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E7%92%B0-ebook/dp/B00JMAIOGG%3FSubscriptionId%3DAKIAIM37F4M6SCT5W23Q%26tag%3Dlvdrfree-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00JMAIOGG" target="_blank" >ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21) [Kindle版]</a></div><div class="itemSubTxt">斎藤 環</div><div class="itemSubTxt">KADOKAWA / 角川書店</div><div class="itemSubTxt">2014-04-21</div></div><br clear="left" style="clear:left" />

    本書の内容を端的に表したのは、あとがきのこの一文だろう。
    <blockquote>ヤンキーを論ずると、どうしても「日本人論」になってしまう。僕にはそれが不本意だった。その内容いかんにかかわらず、あらゆる日本人論は、つまるところ「日本特殊論」というナルシシズムに通じてしまうのだから。
    しかし、本書ではあえて日本人論として読まれることもじさない、という姿勢をとっている。別に心境の変化があったというわけではないが、今回は単純に「わかりやすさ」を重視したということでもある。(p.250)</blockquote>
    たしかにこの本は「わかりやすい」。しかし、その「わかりやすさ」は直ぐに役立つ実利的なモノであるだとか、各章ごとにまとめがあり何が結論か書いてあるといった類のものではない。「ヤンキー化する日本」というテーマについて、特殊論というナルシシズムに陥るかも知れないというおそれをすてて突き進むという「わかりやすさ」だ。

    そもそも「ヤンキーは自らを語らない」(海猫沢めろん)からヤンキーがこの本を手に取ることもないのだろうけれど、非ヤンキー=インテリ(とするあたりが本書のわかりやすさの一端)へのナルシシズムという罠もこの本にはあるかもしれない。

    この本は序論で述べた「日本人のヤンキー気質」について述べたあと、村上隆やデーブ・スペクターといった各分野で一家言ある人と対談をすることによって、様々な面で"ヤンキー的気質がある"ことを検証していくという構成になっている。

    <img src="http://i.ytimg.com/vi/sR3ma4BIafA/maxresdefault.jpg" alt="ヤンキー" width=300 height=300>


    ヤンキーとは
    <blockquote>バッドセンスな装いや美学と、「気合」や「絆」といった理念のもt,家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合した一つの"文化"(P.9)</blockquote>を指す。
    ヤンキーの美学の特徴は「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」(P.18)というところにある。<blockquote>冷静な施策や分析よりも、意気込みや姿勢を重視するスタイル(P.18)</blockquote>
    だから、相田みつを的なポエムと相性が良い。ポエムは知識や論理とは無関係に、依拠すべき公的的感情をもたらしてくれるし、ポエムは強力な共感を生み出す装置だからだ。

    <blockquote>Believe In 鳥肌。鳥肌が立つほどの感動なんて、めったに出会えるもんじゃない。(中略)偉い人の言葉なんかより、自分が心底震えたことのほうが、はるかに本当であり、嘘がないよな。だから大きな選択を迫れれた時、オレは、自分の鳥肌を信じている</blockquote>

    著者である斉藤環も舌を巻くほどに見事にヤンキー的規範が凝縮されたラインだ。
    言葉や論理よりも自分の皮膚感覚を信じる(なおかつ、それを表す言葉が日本語的に間違っている!)。"Don't Think,Feel It."(ブルース・リー)という言葉の都合の良い解釈。
    思想的な一貫性は重視せず、勢いだけの感情論。自分たちの感性を肯定するために、知性を批判する(反知性主義、反教養主義)。スクール・カーストなどでも考えるやつ、理屈を言うやつはキモいとされて、空気が読めるかどうかだけがコミュニケーション能力とされる。そこにはディベート能力やロジカル・シンキングは必要とされていない。


    <blockquote>いまは、承認欲求が非常に肥大化していて、自己実現より上になってしまっているんじゃないかという感じがするんです。(P.60)</blockquote>


    著者は村上隆との対談に於いてこう述べている。

    明治以降の作られた伝統云々というのもあるけれど、元々日本は中国から伝わった文化を自分たちのものとして"伝統"にしてしまう伝統がある。
    そしてヤンキーが重んじているのは本来の意味の伝統ではなく、フェイクの伝統であると指摘する。それは捏造されたものでも良い。ラーメン店の主人が作務衣を来て、毛筆でメニューを書き、薀蓄を述べるのはよく見る風景だが、これなぞはまさにフェイクの伝統である。

    また、キャロル、横浜銀蝿、ダウンタウンブギウギバンドからBOOWYからヴィジュアル系まで面々と続く日本のロックに関してもフェイクの伝統だと言えるだろう。それの最新系が氣志團でありエグザイルなのだろう。

    <img src="http://no4ko4.com/wordpress/wp-content/uploads/2012/01/carolfirst.png" alt="ヤンキー" width=300 height=300>


    <blockquote>音楽の話しついでに、デーブ・スペクターの日本の音楽の聴き方についての発言は興味深く読めた。
    音楽聞いている時、日本の女の子はなんで泣くの? お金払ってなくって、不思議な現象でしょう。(P.117)</blockquote>
    これに限らずデーブの指摘は一面的すぎるし、この例でいうと"お金払って泣く"のはアメリカ人だって、ヨーロッパ人だってそういうこともあると思う(でなければ、欧米の映画に涙をさそうような大作映画は成りたたない)。

    がしかし、日本のヤンキー的気質は音楽の持つメロディやリズム、グルーヴといった音楽そのものより、歌詞の内容であったりだとかミュージシャン、歌い手が持っている物語への"共感"をあまりにも偏って嗜好しているとは言えるだろう。


    <blockquote>
    日本においては集団的現象がしばしばヤンキー化する。
    つまり、半ばは必然的に、反知性主義的な行動主義が現場を支配し始めるのだ。日本に近代的な個人主義や公共意識がなかなか定着しない最大の障壁はここにある。(P.28)</blockquote>

    歴史学者の與那覇潤は"戦後政治史は「官僚派と党人派」という言い方を良くするが、これは「インテリ派とヤンキー派」ではないか"と言う。
    そして"この政治界各区の二十年間は、オタク系知識人が何とかインテリ的な方向へ日本を引っ張ろうとした期間でもあった"と思うと続ける(P.142)。

    そういったヤンキー派の代表格が橋下徹であり安倍晋三だ(ついでいえば小泉純一郎は両方の要素を持ちつつヤンキー派に結局は軸を置いた)。
    真の問題はネオリベ性でなくヤンキー性にある。ネオリベとヤンキーの最大の違いはヤンキー文化には個人主義が完全に欠落しているという点にある。

    ネオリベ性は基本的に(良くも悪くも)父性的である。最後は自分から独立させて切り離すという個人主義が根底にある。これに対してヤンキーは「厳しい母性」であると著者は解く。保護的なのだがスパルタ的でもある。

    <blockquote>母性的だからこそ気合だとかアゲアゲとか、身体性に依拠する。ヤンキーにとって真実を担保してくれるものは常に行動であり、行動を可能にしてくれる「夢見る身体」なんです。(P.148)</blockquote>

    この構ってくるような"厳しい母性"こそが自分の頭で考えたい(インテリ)にとって、一番生きづらいという指摘は目から鱗が落ちるような思いだった。そして、ヤンキー的な人間にはこれがいちばん心優しいのだということも。
    阿部謹也が指摘した「世間」もこういう「厳しい母性」ということだろうし、同調圧力とか空気を読むというのは、「自分に合した人は優しく受け入れる」ということでもあるから、体育教師の生活指導みたいなものを(内容はなんであれ)受け入れられる人には心地よいだろう。

    <blockquote>
    <b>與那覇</b> たとえば江藤淳は『近代以前』という評論で、徳川初期の日本の知識人は天下国家に秩序をもたらす治者の言葉、つまり父性的なものとして儒学を身に着けていったと書く反面で、その日本儒教では和歌の情緒と折衷しやすいこの陽明学系の成分が、中国より濃い目に出たとも指摘している、そこが案外、ヤンキー化するインテリの原点だったのかもしれませんね(笑)。
    <b>斉藤</b> 今回、対談をさせてもらって感じましたが、日本におけるいろいろな問題はヤンキーという人種の歴史意識の無さから生まれている気がしますね。
    <b>與那覇</b>山本七平と丸山真男でもう一つ共有するのが、まさに日本人の思考法における歴史意識の欠如でした。山本風に言うと日本にはキリスト教のような終末論がないし、丸山龍に言えば日本人は世の中の変化を「勢い」としてしか把握しないから、<B><u>自分の行為を遠い将来の視点から振り返って、歴史の中に位置づけるという感性が育たない。</u></B>(P.175,176)</blockquote>

    引用が長くなってしまったが、まさにここだろう。著者は更にオタクとヤンキーを対比して歴史的感性(元ネタや作品相互の関係などなど)がある前者と後者のような分け方をするが、今日日はどちらにも歴史的感性は抜け落ちてしまっていると思う。オタクに引き寄せて言うならば、アーカイヴも新作も全てフラットにYouTubeで見られるし、歴史も語られ過ぎている。オタクというのは"インテリ"の一派ではなく、ヤンキー的感性の顕れであるといえるだろう。
    岡田斗司夫がオタクのキングと呼ぶに相応しい人間かどうかはさておいて、岡田の病的なセックス依存と女性蔑視はヤンキー的感性を拗らせたものだと捉えられる。


    良くも悪くも関心領域が親密圏止まり。だから、安倍晋三にしても好戦的というわけでもなく、安倍晋三には適切な歴史的認識もなければ、まっとうな国際感覚もあるわけではない。だから"好戦的"であるというよりも仲間内でいい顔をしたい、憲法を変えた内閣総理大臣という称号が欲しい程度の矮小さなのだろう。

    また、ヤンキー性は保守にもつながる。
    建築家の隈研吾によるとこの”ヤンキー性”は和風建築などにも息づいているのでだそうだ。なるほど、言われてみれば金屏風などの金ピカ具合はヤンキー趣味だ。つまり、これは日本人のDNAとも呼べるかもな。

    長い不況で"いまがよければいい"という思いと80年代後半のバブルが忘れられないという憧憬がアマルガム的に綯い交ぜになって、こういうヤンキー的風潮が根付いたのかなとふと思う。

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  • ヤンキー文化を定義し、色々な分野にこれを見つける本。面白い。特に建築家の隈健吾さんとの対談が面白かった。
    ただ「あとがき」にも書かれている通りヤンキー文化=日本文化と思えてしまう。それを踏まえて、なぜヤンキー文化がダメか、を論じた部分が欲しかった。著者がヤンキー文化からの脱出を志していることが伝わるだけに。前著を読まないといけないかな?

  • 2010年代も半ばに入り、ヤンキー論に興味が湧いてきたので、前回レビューを書いた『だから日本はズレている』と一緒に購入。本日読了しました。

    個人的な感想を一言で申し上げますと、大変為になりました。

    構成は筆者自身のヤンキー論の大まかな主張が冒頭で示され、後の6人との対談で様々な視点から「ヤンキー」について語っていき、最後に筆者が対談を踏まえて締めるという形です。冒頭のヤンキー論は非常によくまとまっていたので、前著『世界が土曜の夜の夢なら』を未読の私でもある程度概要を押さえることが出来ました。

    一番為になったのはデーブさんとの対談で、今後の勉強(ヤンキー論周りの研究)に役立つ本や思想家などの示唆を得られたのは與那覇さんの対談ですね。特にデーブさんの「ポスター、街宣車やめろ!」は、すっごく同意します。あと、與那覇さんの対話では名指しで出てこなかったですが、内容を踏まえると『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』もまた読んでおきたいと思いました。隈研吾さんの内容は、一応建築業界にほんの少し居た身として分かるところもあり、やっぱり現場で工具弄って作業する人じゃないから語るに厳しそうだなーというところもあり。溝口さん海猫沢さんあたりは未知の領域でしたがそれだけ知る為のとっかかりは掴めた気がします。
    ただ、村上隆さんの内容は、ごめんなさい、あんまり感心しませんでした。芸術で食っている人の発言という感じがビンビンしますが、やってることもやろうとしていることもブラック企業そのものだなぁと。芸能に携わる者は賎民という考えなどは同意出来るのですが、読んでいて「随分自己完結してきているんだなぁ」と思い、それだったらアート名乗らなくてもいいじゃんとすら思えます。さっさとシステム化して、全く別のことやればいいのに・・・なんて外野ですが言いたくなりましたね。

  • 地元大好き、気合い大好き、仲間最高、みんな一緒に気合いで根性でどうにかしようよ!
    そんな耳に心地のよい言葉を何の迷いもなく受け入れていた自分がいましたが、新卒で入った会社に疲れ果ててしまい辞めたことがあります。
    そんな何で自分が疲れてしまったのか、着いて行けなくなってしまったのか、をヤンキー化という面から捉えるととても納得できました。

    現代日本が、なぜまだ個人主義を徹底できないでいるのか。
    就活がなぜこんなに歪なのか、過酷な労働が迫られるブラック企業がなぜあるのか。
    なぜ日本は人権後進国と言われているのか。
    ヤンキー化という指摘から考えると、周りの事例が多く思い当たりました。

    戦後日本に近代的な民主主義を導入するのに、ヤンキーな面が上手く活用されたという斎藤氏の指摘がとても興味深かったです。

  • 精神科医で社会評論家の斎藤先生の「ヤンキー」論。
    昔からヤンキーにカテゴライズされる人たちは沢山いたわけであるが、何故か最近「発見」されて、消費マーケティングの世界でも人気だったりする。
    これはネットをはじめ「トンガッた」ところにいる「オタク」たちは、弁は立つし、知識も豊富で、ロゴスの世界では優位にいるように見えるのだが、じつはマイノリティだ。世界は「気合い」=ヤンキーの精神的な支柱で動いているのだw

    <齋藤先生のヤンキーの定義=笑える>
    ・過剰装飾を好む「バッドセンス」な美的感性
    ・気合とかその場の勢いをなにより大事にし、「深く考えない」ことを美徳とする精神(反知性・教養主義)
    ・大局的・本質的な理解よりも、実際的な技能を至上とする価値観(戦略軽視、戦術重視)
    ・循環的な社会関係を重要視する志向性(結果としての家族重視)
    ・本物とフェイクのすり替わりを許容する程度の「伝統」重視

  • 「気合いとアゲアゲのノリさえあれば何とかなる」というヤンキー文化が広がっている。
    ここでは「ヤンキー」と「インテリorオタク」と分類されているが、高校時代「ネアカ」「ネクラ」でクラスメイトが二分された時の気分を思い出した。
    維新の会や阿倍首相など、近年の趨勢には驚くばかりだが、「オタク」が少数派なのは自明の理だったのだ…!

著者プロフィール

斎藤環(さいとう・たまき) 精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学・教授。オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。著書に『社会的ひきこもり』『生き延びるためのラカン』『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』『コロナ・アンビバレンスの憂鬱』ほか多数。

「2023年 『みんなの宗教2世問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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