悪霊列伝 (角川文庫)

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著者 : 永井路子
  • 角川書店 (1999年9月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (436ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784041372074

悪霊列伝 (角川文庫)の感想・レビュー・書評

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  • タイトルのチープさに似合わず、歴史的考察に富んだ非常に面白く、教養になる。悪霊の本性を知りたい人は読め。


     怨霊信仰と言えば飛鳥時代から平安時代にかけての貴族文化である。しかし、その後の時代もポツポツと悪霊が出てくる。時代の変遷とともに、悪霊の質も変わったが、結局すべて人間の産物なのである。特に、「後ろめたさ」という感情が生み出すもの。まさに因果応報の産物。
     
     時代は下って、武士の世になっても、結局貴族という者はなくなっていないということを再認識させられる。
     武士団をまとめた源氏や平氏も、嵯峨帝や桓武帝から臣籍降下された氏族であり、血は貴族の出の者なのである。その貴族の血を薄くても引き継ぐ者が江戸時代、いや明治まで政治権力にしがみついてきた。織田信長は平氏だし、徳川は源氏だと自称している。
     そんな貴族の血が絶えず受け継がれてきたのだから、その名残として怨霊の文化もこっそりと受け継がれてきたのだろう。あぁ怖い。くわばらくわばら。

    ______
    p12 蘇我氏
     蘇我氏は蝦夷と入鹿の死で没落してしまったという印象を持たれるが、その後もがっちりと天皇家に根を張っている。例えば天武天皇の妻の持統天皇や元明天皇は蘇我倉山田石川麻呂の孫である。

    p31 長屋王の変の疑い
     長屋王は呪詛を習い国家転覆を企てたという嫌疑をかけられて家宅捜索に押し入られ、その場で現行犯逮捕そして自殺して死んでしまった。こんなの藤原氏の陰謀に間違いない。

    p39 御霊神社
     京都の下御霊神社には吉備皇女が祀られる。彼女は長屋王の妻である。長屋王ではなく妻の吉備皇女の方が祀られるのは、彼女が持統・元明ファミリーの血筋として藤原不比等・四兄弟の本当のライバルだったからである。政変によって吉備もその息子も皆殺され、その血筋は絶たれた。その血筋は蘇我氏の血筋である。
     吉備の死後、藤原不比等の娘:光明子が立后し、新たな藤原の時代が始まる。

     しかし、四兄弟は天然痘で次々に死んでいく。俗にいう長屋王の呪いである。とはいえ、天然痘も自然現象。それが呪いに繋がるのは死んだ者に後ろめたい所があったからである。
     この政変で血が絶えた吉備皇女の怨念を解消するため、御霊神社に祀られたのである。しかし、この皇女の
    存在が話題にされることは現代ではほとんどない。そういった意味で、御霊神社に祀って見事無害化、何もなかったことにできたということではないか。
     この変の時代のお話が『美貌の女帝』という作品になっている。読みたひ。

    p46 不比等のゴリ押し
     奈良時代の政治は天皇だけに権力があったわけではない。皇后にも絶大な政治権力があったのである。他の側室に付けられる「妃、夫人、嬪」とは格が違った。
     その権力ゆえに皇后になれるのは天皇家の血を引く女性のみに限られていた。しかし、藤原不比等はそこに自分の娘:光明子を皇后として輿入れさせた。天皇家以外の血が絶大な政治力を持つことになる前例のないことである。
     色々と横からの圧力もあったようだが、藤原家はそれをやってのけた。その中で長屋王の変を起こすなど、血塗られた歴史があったのだ。

    p56 仲麻呂の躍進
     安積親王の死を契機に藤原仲麻呂は大躍進を遂げる。壬申の乱以後、形を潜めた藤原家も聖武天皇に光明子を嫁がせて外戚の地位を手に入れて政界復帰を目指した。とはいえ、光明子が立后してからの政治工作も簡単じゃあなかった。
     聖武天皇には県犬養広刀自という側室がいた。彼女が光明子よりも先に身籠ってしまった。とはいえ第一子は女児:井上内親王であった。男児が生まれてしまわないか藤原氏にとっては気が気じゃなかっただろう。そして光明子も第一子を出産する。しかし女児:阿倍内親王だった。さて広刀自の第二子はまた女児:不破内親王だった。光明子の第二子は男児だった!しかしこの基王は長屋王の変の頃に早逝する。そんな中、広刀自に男児:安積親王が生まれてしまう。
     藤原氏はこの広刀自の一家を排除する試みに出る。井上内親王は伊勢神宮に嫁がせる。不破内親王は旦那の逆心の罪で皇位剥奪。安積親王には呪詛をかける。しかし、例の長屋王の怨霊事件が起きて、また藤原家は勢力をそがれてしまう。光明子も子供が出来ず、このままでは広刀自の安積親王が天皇になってしまう。
     安積親王が急死した。これが仲麻呂による暗殺だと言われている。親王の死後に仲麻呂の躍進があったのが、もの言わぬ証拠である。

    p57 孝謙天皇
     光明子の娘の阿倍内親王が皇太子になり、749年に孝謙天皇になった。

    p62 道鏡という誤算
     聖武天皇は死に際して孝謙女帝の後継を決めていった。不破内親王の夫の塩焼王の弟:道祖王だった。これには孝謙帝も仲麻呂も不満。政治工作で大炊王(仲麻呂の養子)を後継者にすり替えた。これが淳仁天皇である。ここに仲麻呂の絶頂が来る。しかし、自分のことに熱中しすぎて孝謙帝のご機嫌伺いを怠ったようだ。
     その隙に付け込んだのが、弓削道鏡である。

     この後、仲麻呂と孝謙帝は対立していく。仲麻呂は政治的才覚はあっても女の扱い方は心得ていない男だったようだ。 めまぐるしい…。

    p66 あだ名
     称徳天皇(孝謙帝)は嫌いな相手に蔑みのあだ名をつけるのが好きだったらしい。
     仲麻呂との対立に勝利した孝謙天皇に呪詛をかけたり、彼女の後継者に自分の子供を推戴しようとした諦めの悪い不破内親王に「厨真人厨女」という調理場の下女というような意味の蔑称をつけて罵っていたらしい。

    p68 光仁天皇
     称徳天皇が道鏡の一件で泥沼の闘争を繰り広げた後、後継者のお鉢が回ってきたのは意外な人物だった。
     称徳帝が皇位を争って追いやってきた広刀自の一族:井上内親王の夫:白壁王が即位し、光仁天皇になった。この男は仲麻呂の躍進を蚊帳の外で眺めてきただけで政治的野心はほぼなかった。妹の不破内親王は必至に孝謙帝に対抗して辛酸をなめてきたのに、お姉さんが美味しいとこを持っていった。
     棚から牡丹餅とはこのことである。

    p70 狙いは山部親王
     光仁天皇が天皇になれたのは藤原百川ら、式家の人間の暗躍があったからである。井上内親王はついに自分たちの時代が来たと思ったが、大いに裏切られる。
     光仁帝の後継者は井上内親王の子:他戸親王だったが、井上内親王に呪詛の大逆罪が着せられ皇太子から降ろされてしまう。そして皇太子になったのが、高野新笠の子:山部親王(桓武帝)だった。百川らはこの山部親王と近しい関係を築いていた。この人物を天皇に押し上げるために白壁王を押し上げたのだ。
     そんな裏事情も知らず舞い上がっていた井上内親王、幸運もつかの間、一族はあっさり政治の世界から追放されてしまった。

    p72 不破内親王もお片付け
     束の間の幸せから一転、煮え湯を飲まされた井上内親王。その妹:不破内親王が今度こそはとクーデターを試みて山部内親王一派に挑んだ。しかし、事が起こる前に計画がバレ、逆に山部派にとって敵対勢力を一掃する機会を与えたことになってしまった。
     いや、もしかするとここまで計算に入れて不破内親王は泳がされたのかもしれない…。こわい。

    p73 上御霊神社
     京都には上御霊神社もある。そこにこの度の井上内親王とその子:他戸親王が祀られている。あれほど政権に執着した不破内親王ではなく、姉の方が怨霊として慰撫されている。
     これこそ、怨霊とは後世の人間が作るものという証拠である。生前の怨念の強さよりも、殺し方に後ろめたさがあるかがポイントなのである。
     桓武天皇にとって不破内親王は罰が当たっても当然の悪いやつだったのだろう。しかし、井上内親王は騙されて、桓武帝が即位するための人柱になった存在である。桓武帝には井上内親王に大して後ろめたさがあったのだ。

    p81 桓武の「武」桓武と言いう名前は漢風諡号である。天皇の死後、その功績を讃えて付けられる名前。古代には和風諡号というものがあり、桓武にも「日本根子皇統弥照尊(ヤマトネコアマツヒツギイヤテラスミコト)」という和風諡号がある。
     しかし、平安以降はその天皇が住んでいた地名にちなんだ追号(平城帝や嵯峨帝、一条帝や朱雀帝)が多く、桓武天皇が一つの終わりということを表す一つの指標かな。
     桓武の「武」は周の武王のことだろう。彼が意欲的に政治をしたのを武帝に喩えてくれたのだろう。
     しかし、桓武の生涯を振り返るとなかなか波乱万丈であった。即位も30歳過ぎで遅咲きだし、息子平城との確執や早良親王の怨霊など困難だらけの人生だった。いや、そういった困難に立ち向かい続けたからこそ「武」がついたのか。

    p82 青年の桓武
     桓武の母:高野新笠は百済の渡来人の血を引く女性だった。それゆえ若い桓武の周りには百済系の人材が多かった。愛人:明信もそうだったらしい。
     彼は皇位から遠ざかった白壁王の子としてのんきな青年時代を過ごした。趣味の狩りを楽しみ、愛人と恋愛する。そして一般的な官僚コースを歩む感じだった。それが突然、白壁王の光仁天皇即位という陰謀でチャンスが降って湧いてきた。

    p94 敵が多かったから「武」がついたのか
     桓武には井上内親王、不破内親王、他にも早良親王、安殿親王、さらに蝦夷討伐の東北の権力者などたくさんの敵を作った。それは彼が勇気と決断力のあるリーダーだったからである。現代でも、日本ではそういう知からのある人間よりも、人間関係を円満にできる柔和な人間がリーダーに好まれる。
     桓武はその性格から敵を多く作り、武の称号がついたのかな。

    p96 早良親王は担がれただけ
     早良親王は母を同じにする桓武の兄弟である。それが桓武を呪う怨霊になったのはなぜか。
     桓武は藤原式家に担がれた天皇である。当時藤原の対抗勢力として大伴家(当時は大伴家持が中心)があった。早良親王は大伴氏が藤原氏に対抗するために担がれた皇族だったのだ。望んで桓武に対立するようになったのではないのだ。
     桓武にとっては自分の政治の対抗勢力の旗頭に担がれている早良親王のお人好しが、それだけで鬱陶しかったのだろう。「まんまと兄である自分の対抗勢力の口車に乗せられおって…。」早良親王の本心とは関係のない所で桓武の怨念が増幅し、嫌悪感を募らせる。

    p101 昔の政争はでっちあげで大きくなるもの
     現代の政争はトカゲのしっぽ切りで、下っ端が数人辞めることで黒幕が出てくる前に消沈してしまう。
     しかし、古代の政争は冤罪をでっち上げ次々に逮捕者が出てきて雪だるまのように事件が拡大する。非合理が通用する社会だったから起きえた事象。
     早良親王の処罰もこのでっち上げである。藤原種継の暗殺の嫌疑が早良親王までに飛び火した。いや、ここぞとばかりに早良親王の罪も捏造したのだろう。
     早良親王は配流にあっても淡路島でハンガーストライキで自分の無実を訴え続けた。これほどまでに自分の正義を貫くというのだから、きっと本当に無実で、そして早良は正義に厚い人物だったのだろう。冤罪という卑怯な手段が許せなくてしょうがなかったのだろう。
     ここから早良親王の本心がうかがえる。きっと彼は政権にそれほど固執はなかったのだろう。それなのに罪を着せられたから恨みを持ったのだ。

    p111 桓武の苦悩
     桓武の苦悩は人が生み出す悪霊という者の答えの一つを示す。
     早良親王は清廉潔白な人物で、生前は悪霊になるような人ではなかったのである。それが悪霊と言われたのだ。悪霊になるのに当人の性質はあまり関係ないということがわかる。悪霊はその死者の怨恨を恐れる人の中で生まれ、自己肥大していく。
     きっと桓武はどんなに早良の怨霊慰撫をしようともその恐怖から逃れられなかったと思われる。なぜなら悪霊は彼の心の中にいるのだから。

    p115 怨霊信仰とは
     古代の社会は徳治主義であった。為政者の徳が高ければ社会は自ずとよくなるという考えで運営されていたのだから、加持祈祷の類が信じられていたのも納得である。
     この徳治主義はともすれば悪用される。すべての責任が為政者の徳に帰結するのだから、凶事も為政者の不徳の成すところになるのだ。ということは、為政者の不徳を創造すれば責任問題にできるのだ。
     為政者の不徳があれば「天罰で収穫量が少なくて…」と不作をでっち上げ、納税逃れも横行したらしい。このように悪用のために為政者の不徳を大げさに演出するために怨霊信仰が発展したともいえる。
     怨霊信仰は徳治主義の付随品である。

    p126 伴氏になった
     大伴氏が823年に改姓した。淳和天皇の諱が大伴だったので、同名を憚って伴氏に変えた。
     有名なのが応天門の変の火付け役「伴善男」である。

    p148 良房の心変わり
     伴善男は藤原良房に忠誠を誓ってきた。応天門の変も源信という良房の政治ライバルを失脚させるために鉄砲玉になったのだ。しかし、良房は善男を見捨てた。
     良房は善男の心の裏に、自分の死後、弟の良相との関係を築くと考えた。善男は良房の下ではきっと便利屋で終わるだろう。野心の強い善男なら容易に良房を裏切り、良相の右腕となりより高い地位を目指すことも想像に易い。使える駒も、裏切る可能性を感じたら無慈悲に切り捨てる。古代政治の恐ろしさ。

    p152 咳の神 伴善男
     伴善男は良房の裏切りによって配流に処され二年後に死んだ。良相も善男に連座したという嫌疑で良房の脅威を感じただろう。そのためか、それとも暗殺されたか、応天門の変の一年後に死去する。応天門の変で冤罪を逃れた源信は、せっかく助けられたのに政治の世界から身を引き(政界のしがらみに嫌気が差したか)、善男と同じ年に事故死している。
     良房自身も男児に恵まれず、養子の基経が後継している。つまり、彼の血筋はここで絶えている。
     これは善男の怨念の仕業と言えば、彼は大成功したと言えるだろう。しかし歴史上では、彼は怨霊として大した名をあげていない。なぜだろう。
     善男の一件では天皇に被害はなかった、良房は後継者がいなかったから怨念の受け手が居なかった、善男は悪いやつだから怨霊になれるだけの恨みが無い、因果応報。など色々考えられる。 結果、彼は怨霊としても貧弱な「咳の神」にしかなっていない。かわいいもんだ。

    p173 たいしたことない道真
     道真の生前の姿は、死後怨霊になるほどバイタリティのある人間には思えない。学校は成績優秀で出たものの、世渡り下手で、ボヤキの多いくだらない男だったようである。名誉欲は強いくせに、受動的で責任を嫌う、出世できないタイプの社会人である。その彼が掴んだ出世のチャンスが阿衡事件である。この調停役で活躍して、時の宇多天皇の信任を受けて、娘を天皇家に輿入れさせ右大臣にまで出世した。彼の持ち腐れていた知識能力が奇跡的に花開いたのだ。
     
     その彼はやはり、藤原氏でもないぽっと出の学者として反感を買っていたのだろう。道真落しが行われたのは事実だろう。しかし、道真は太宰府に入るになってから、それを恨んで発狂したり、早良親王のように命を懸けて無罪を主張するような激しいことはしていない。気の大きくない彼らしい様子である。なのに、彼が禍々しい日本の三大怨霊になったのはなぜか。ここが見どころである。

    p176 藤原忠平
     角田文衛氏は、道真の怨霊を最も必要としたのは、時平の弟:忠平だという。
     道真の死以後に時平の一族が死んでいき、その後に政権を握ったのは忠平なのである。彼は例の雷事件に出くわしている。自分も道真の怨霊を感じたし、同時にそれを利用できると感じたのではないか。
     大したバイタリティのない道真が強大な悪霊になれたのは、後世に大演出家がいたからなのである。

    p180 承平・天慶の乱
     道真の怨霊が跋扈した時代は、承平・天慶の乱のあった時代であり、朝廷の統制力が揺らいでいる時期だった。その不安が道真の怨霊説に拍車をかけたのだろう。
     乱と怨霊は相関関係がある。将門は道真が巫女に乗り移って彼の蜂起に賛同しているという託宣を受けて武装蹶起している。そのため更に怨霊説が蔓延る。社会混乱は相互に不安を増幅させるのである。

    p186 神作り
     道真は怒りの悪霊だったのが、学問の神へと転身した。それは死んで十数年経って忠平の子:師輔によって北野神社に祀られて毒気が抜ける。また、死後百一年後の1004年に一条天皇が自ら北野神社に参拝して、完全に神格化する。この頃には藤原氏も院政が始まり権力を弱め、平氏や源氏に押され始めている。無用になった悪霊が今度は庶民の信仰の対象になったというのも、面白い。

    p187 道真の神
     道真が庶民に信仰されたのは演出家の力だけでない。その神のご加護を必要とする人が大勢いたから今に続く大信仰になっているのである。
     現代では受験戦争という言葉があるくらい学問が人生を左右する。そこに学問の神として御利益があると言えば、需要が生まれるだろう。天神信仰はペンが剣より強くなった近代以降だからこそ栄える信仰なのである。
     こないだ悪霊だった人間をあやかるなんて正気の沙汰じゃないが、人間なんてそんなもんなのである。

    p191 現代と平安
     平安時代は現代人からすれば喜劇としか言えないような呪いの掛け合いをしている。源氏物語で彩られるような美しい文学や管絃や衣装の文化社会の裏にはこんな喜劇が隠されている。
     とはいえ、平安時代の貴族と現代人は、溢れる物と娯楽に囲まれているという点では同じ社会を生きている。ってことは現代人にもどこか喜劇的なところがあるんだろうな。余裕のある者にに限って変なことをするもんだ。

    p227 修験者に使われた顕光
     悪霊の登場で得をするのは政治家だけではない、人々の不安に浸けこんで飯を食う、修験者や陰陽師の類もである。
     道長の幸運でに悉く政治権力を握れなかった藤原顕光は死後悪霊となって道長一族を祟る。
     その悪霊登場に活躍したのが修験者である。「すわ一大事。この度御不幸の連続はかのひねくれ者であった顕光の霊の仕業ですぞ。私にお任せくださればその悪霊を討祓い、鎮めてみせまする…。」なんてことだろう。
     この平安後期頃になると、桓武帝の頃のように悪霊の悪さも規模が小さくなる。奈良時代は飢饉や疫病など国家レベルの災厄をもたらしたが、時代を下るごとに個人的恨みの復讐しかしなくなる。このように悪霊の器の小さくなる感じ、うまく利用されている感じがプンプンする。修験者や陰陽師など胡散臭いものが存在したこと自体が、悪霊という者の本質を物語る。

    p239 将門の時代
     この時代の東国は互いの領地を虎視眈々と狙う弱肉強食の社会だった。頭領を中心に武士団としてまとまっている印象だが、そのころは大して統率があった物じゃなく、純粋な荒くれ者集団でしかなかった。後世の武士の道徳観念などまだまだ赤子状態である。そんな時代の将門は、もれなくそういった荒くれ者たちの一人で、ガサツな人物であったに違いない。

    p249 平貞盛とは
     将門を討ち取った武将。彼の子孫が正盛、忠盛、清盛である。
     菅原道真と比べて、将門は彼を殺した貞盛の一族を呪うことはできなかったということだ。これは、彼が政争の道具にならなかったということを示す。

    p255 将門の子孫と名乗る者
     鎌倉時代初期に活躍した相馬氏とその系列の千葉氏は将門の子孫と名乗った。将門から七代子孫の重国が相馬氏の源流というが、確証はない。しかし、これらの氏族が東国武士政権である鎌倉幕府の創建に与したのは意味がありそうだ。
     将門の蜂起から200年経って改めて東国で武士が興った。そこから将門の信仰も有名になる。武士の世が来て、相馬氏や千葉氏に担がれたことで現代まで続く伝説的存在になったのである。つまり、将門は武士政権を作る前例として利用されたともいえるだろう。

    p258 明治時代の将門
     将門は鎌倉時代に世間に浸透し伝説になった。その彼が歴史上、明治時代に再び世間を沸かせた。
     彼が祀られた神田明神に明治天皇が参拝した際に「天皇家に刃向った逆賊を祀る神社に参拝するとは何事か!」と問題にされた。これに恐れをなした神主が独断で他社から少名彦尊を貰い受け首座におきかえた。これはさすがに地元の氏子たちの反感を買ったらしい。とはいえ、これを機に将門は逆賊者としてのレッテルが改めて貼られた。戦後まで、逆賊の代表格扱いされたのである。国の象徴が武士から天皇に戻り、改めて将門の扱いが変わったあたり、歴史のポイントである。

    p262 将門の見方
     戦後の将門研究の意見は、反権力闘争の英雄として扱われ、それは朝廷の統率力の低下が原因にあり中世的武士政権の先駆けとして考えられている物が多い。
     しかし、将門と頼朝では武士政権の質が全く違うことから、中世の先駆けと見ることには注意が必要だと、筆者は言う。

    p263 将門と頼朝の武士政権の違い
     一点目、武士の棟梁と主従の紐帯の強さが全く違う。将門の時代は荒くれの烏合の衆だったから、ひとたび戦闘に敗ければ自分の命を守って逃げ出し、頭領の身の安否なんて二の次、その程度の主従関係だった。しかし頼朝の時代になれば、主従の関係は封建制の御恩と奉公の強い信頼関係ができていた。
     二点目、朝廷からの独立の度合いが違う。将門は藤原忠平に泣きつくことが度々あった。この時代は墾田永年私財であっても、東国の地は貴族の代わりに武士団が自治しているという仕組みになっていた。だから当時の棟梁は何かあればすぐに都の貴族に伺いを立てるし、貴族に贈賄は当然だった。頼朝の時代までなれば、武士が朝廷から完全に独立した政権を取ろうとしている。
     200年の間にこれだけの違いができているのである。

    p270 白河天皇の異例
     平安時代、天皇の正后が男児をちゃんと生む例は少なかった。側室や女御が男児を産んで後継者争いを発生させていたので見落としがちだが、道長の娘:彰子ほか数例しかないのだ。意外。

    p281 性の頽廃 光源氏の世界も妥当である
     白河天皇は自分が種を付けた女性を息子の鳥羽に贈っている。穴兄弟どころか、穴親子とか生理的にやばい。
     でもそんなのが当然のように横行していた時代だったのだ。源氏物語の光源氏もパパの女に手を出してるしね。貴族社会ここに極まれり、何をしてもいい無法状態だったのである。

    p286 崇徳帝の運の悪さ
     白河帝の種ながら、鳥羽帝の息子である崇徳帝は、当然のように父と確執があった。鳥羽帝は崇徳帝をなんとしても上皇になれないよう画策した。子のできない崇徳に鳥羽上皇の男児を養子に入れ、皇太子に据えた。崇徳の血を引くものが皇位を継げない状況を作った。ひどい。崇徳帝はその養子を受け入れたすぐ後に男児を授かる。彼はこういう運の悪さが続く、幸薄な人物だったんだよな。ところがこの養子が早逝する。これで自分の息子に皇位継承権が降りてくるか。そうは鳥羽が許さなかった。崇徳の弟:後白河帝が即位することになり、皇太子も彼の息子に決められた。そこまでして崇徳をいじめ抜くか…。

    p307 知られていない呪い
     鳥羽帝の死後、同腹の兄弟である崇徳と後白河は敵対することになり保元の乱で武力衝突した。それで敗れた崇徳は讃岐の国に入るという皇族には重すぎる異例の懲罰を受けた。配流された崇徳は四国で出家し、罪滅ぼしの証として大乗経五巻を3年がかりで写経し、都の鳥羽の墓所などに収めたいと申し出た。しかし、それすら拒否されついに発狂した。出家までした人間を蔑ろにするとはもう許せない。祟ってやる。そう誓ったのだ。
     しかしこの呪いは世間には知られていなかったと考えられる。憎むべき後白河に怨霊がついたような話題はないし、保元の乱で攻められた清盛らもますます盛況である。とても呪われているとは思わなかっただろう。
     彼の怨霊への恐怖が顔を出したのは十数年後(1177)である。この時に「崇徳」という諡号がつけられた。

    p308 鎮魂の「崇」「徳」
     崇徳帝には久しぶりに諡号が贈られた。白河帝や鳥羽帝などは居住地の名を送った追号である。崇徳帝に追号を送るとしたら「讃岐帝」ということになって具合が悪い。恥の上塗りなんてして怨霊をさらに怒らせることなんてしない方が良いだろう。さらに「崇」や「徳」といった敬意を表する文字を送ることで怨霊慰撫を目論んだのは間違いないだろう。

    p313 崇徳のフェイドアウト
     崇徳帝の怨霊伝説は後白河上皇の死後、静かに消えていった。これがもし源平合戦で兵士が勝利し、平安時代の延長で歴史が進んだら、この崇徳帝の怨霊を悪用する者が出て、その後も人々を恐れさせる怨霊でいたかもしれない。しかし、後白河帝の死後、鎌倉幕府が始まる。政治の実権が貴族から離れていく世相に合わせて、怨霊も朝廷の中からでなくなるのである。
     この様子からも、悪霊の類が何なのかが見えてくる。

    p314 明治にリバイバル
     このフェイドアウトした崇徳帝が再び日の目を見る機会が来た。およそ700年後の1866年の孝明帝の頃である。明治維新に先駆けて、尊皇派がそれまで士族に蔑ろにされてきた歴代天皇の尊厳を回復する運動をしたのである。不遇なままの天皇がいるようでは国家の象徴として陰りができる。その点での合理性を得るため、崇徳や淳仁などが改めて京都の白峰宮に祀られた。
     このように死人の霊は今を生きる人の都合によって悪霊にでも神様にでもなるのである。

    p347 頼朝の死の意味の違い
     頼朝の落馬死は事故かそれとも怨霊のせいか。頼朝の死がただならぬものであると記述するのが『保暦間記』である。このなかでは、保元の乱で敗れた平氏の怨念、義経の怨念などが原因とあるが、これはこれを書いた者の願望が見え隠れする。頼朝の死は、ほぼ間違いなく落馬と高齢による病死であると考えれる。だから、ただの頼朝を嫌う者による与太話であると考えられる。
     ただ、この本が与太話になっているという点に意味がある。
     鎌倉時代にはもう、怨霊という存在が与太話になっているのである。これ以降、悪霊というものが政治の道具としての価値が無くなって、悪霊を使うものは負け犬の遠吠えにしかならない。時代の境目を感じられる。

    p355 七生報国
     楠木正成が湊川の戦いで死の間際に弟の正季と話した時に出た言葉、正成「そなたの最後の願いは何か」正季「七回までもこの人間界に生まれて、朝敵を滅ぼしたい」この直後、互いを刺し違えて自害した。
     この言葉が太平洋戦争中にスローガンとして使われ、美談として扱われた。

    p366 太平記の南朝批判
     太平記は対話式の文体で歴史を客観的に批判する。そこには一種の道徳史観が見られる。南朝礼賛の史書という人もいるがこういう一説もある。
     「後醍醐天皇はせっかく北条氏を滅ばされたのに、なぜ御治政が長続きしなかったのですか」「確かに後醍醐天皇は随分賢王のマネをしようとなさったが、真実の仁徳撫育の御志が全くない。仏心に深く帰依さているように見えたが、驕慢で本心から敬神崇仏ではなかった。だから北条高時の運の傾いたとき、消える直前の灯を消す扇のような役目をしたまでことよ。天子としての賢明の徳が無かったから、北条に劣る足利に、たちまち世を奪われてしまったのだ。」
     手厳しい南朝、後醍醐帝の批判である。さらに、北朝の持明院統の天皇も批判している。武士に飼われるだけに成り下がっておきながら、仁徳も志さず未だに天皇権力だけは欲し続ける浅ましさを批判する。

    p378 文観
     後醍醐帝の第一側近の僧:文観(モンカン)。倒幕の南朝動乱はだいたいコイツのせい。この人は重要重要人物

    p381 革命者が新しいとは限らない
     革命後の新しい世の中は、刷新した世界とは限らない。新保守派みたいな人が作る世の中はただの歴史の逆流の時だってある。南北朝動乱の頃は革命者がいっぱいいたが、ほとんど革新的な人物はいなかったように思える。①北条政権に代わる武士政権を作りたい足利尊氏や新田義貞、②今の世にとりあえず不満のある各地の武士団、③反幕府の悪党集(楠木正成とか赤松氏)④反幕府の朝廷、、、③の悪党集が新しい世を想像できる革新性があるが、とはいえ結束力が無いので新しい世は作れずどこか既存の権力に取り入るしかない。ゆえに結局、頭のすげ変わった幕府か、仕事をしない貴族政権に戻るかしかない。世の中は変わらない。

    p383 新保守主義
     新保守主義は時に進歩主義者よりも革新的なことを声高に叫ぶが、しかしそれを見誤ってはいけない。あくまで時代に逆行しているのだ。歴史にやり直しはきかない。社会の仕組みを過去のある時点に戻して新しい未来へ進むことは、後醍醐帝のようにしがらみのせいで新しい者は作り出せない。革新的な楠木正成は旧弊ガチガチの朝廷に足を引っ張られておじゃんになった。この歴史から学ぼう。

    p384 足利尊氏のやったこと
     彼の功績は「時代の逆行を防いだ」ということだ。ここで朝廷が政権を取る社会に戻ったらどうなっていただろう。

    p386 悪霊の変化と合理性
     南北朝動乱の頃もほとんど悪霊が出てこない。足利尊氏は恨みを買ってもいいぐらいの人物だが。
     それはこの頃に芽生え始めた合理的精神の表れだと筆者は言う。この頃輸入された宋学は朱子学と同じく合理主義的思考で霊的な物への興味関心はほとんどない。この思想の輸入と思考の変化は大事だ。
     もう、完全に魑魅魍魎の類はリアルを失ってしまった。

    p391 多妻・多子
     徳川家斉のすごさは、多妻、多子が段違いであること。生涯自分の物にした女性は一説では40人にもなり、うち17人から55人の子供を持った。日本史上の多妻・多子の記録保持者だろう。
     さらに彼の時期の大奥の使用人は7~800人と歴代一の贅沢をしている。このような贅沢三昧の将軍が11代将軍家斉である。

    p398 中野清茂(石翁)
     家斉側近の黒幕ラスボス。彼らに贈賄しないとどうにもならない。

    p405 大塩の乱
     家斉は悪霊に脅えていた。そもそも家斉は将軍に就けるはずではなかった。十代将軍の子:家基が後継者だったが、彼は早逝してしまった。そこで御三卿の一橋治済の子だった家斉にお鉢が回ってきたのだ。家斉が体調を崩した時に、家基の怨霊のせいだと言われ信じ込んでしまった。彼はその怨霊慰撫を実際にしている。ここにきて悪霊が政治的道具に再び使えるようになった。これは徳川体制がどう変質したかを物語る。
     とはいえ、この頃、天保の大飢饉など世の中がおかしくなり、大塩平八郎の乱といった社会不安の暴発も起きている。悪霊の仕業といえる舞台は整っていた。

    p412 格上げ商売
     子だくさんの家斉はそれで金を稼いだ。彼の子供を婿や嫁にもらうということは将軍家とコネができるということである。それは多額の賄賂を払ってでも欲しいものだった。そこに目を付けたのが側近の水野忠成だった。
     彼は家斉の子をすべて売り払うために、家格の低い家の格上げを行い(当然袖の下をたんまり)広く嫁ぎ先を応募した。賄賂合戦で袖の下を貰えるだけもらい、嫁ぎ先を手際よく決めて、家斉の信用も得た。
     この格上げ商売で二万両近く裏金を儲けたらしい。

    p417 東大赤門
     加賀前田家の江戸藩邸に建てられた門が今の東大赤門である。これは家斉の娘:溶姫が前田家に輿入れした際に建てられた門だが、つまりこの門は、家斉の豪奢な生活とその裏で行われた汚職の象徴の門ともいえる。

    p419 四谷怪談
     文化文政時代の霊的な物の捉え方を象徴しているのが鶴屋南北の『東海道四谷怪談』だろう。
     もはや悪霊譚は恐れられるものだけでなく、魅力ある文化にまでなって受け入れられている。人々の霊的な物への信仰は、「人の手の触れられないもの」から「人の手の届くもの」という認識に随分お手軽なものになったもんだ。これは、当時の仏教など宗教の堕落にリンクしているだろう。

    p421 怨霊とは
     権力構造が停滞し頽廃した時、大義名分を失った権力闘争で行われる非人道的な行為、その結果生まれる「後ろめたさ」それが悪霊の温床である。
     それは現代でも同じだろう。科学が進歩しても、人は悪いことをすれば後ろめたさを感じる(はず)。人々が仁徳を軽んじて、不毛な権力闘争を繰り返すならば、そこに悪霊は再生産されるだろう。
     悪霊から解放される方法として、鎌倉時代の武士の精神が一つの参考になる。むやみな権力闘争に左右されない義心と仁徳を持ち、実践することである。

    p434 現代の悪霊
     現代では科学や合理的思考の進歩で、悪霊なんて信じる者はいない。しかし、名を変えてそれはいまだに人々の心に住み着いている。「不安」これが悪霊でなくてなんだろう。
     歴史上比べようもないほどの豊かで幸福な生活を送っている現代人。しかし、不安というものはなくなるどころか、小さく細分化され、いよいよ種類も量も増えている。持つものは、それを失う不安を併せ持つ。多くを持つ現代人はその分不安も多く持っているのである。
     「持つ」優越感。その権力を手放したくないから現代人は「不安」という悪霊に取り付かれている。こういえるだろう。
     物があふれる現代社会では、「所有する」ということに囚われないことこそ、悪霊に取り付かれない方法である。

     人は歴史を残せる。その歴史を学び、過去の人物を違うことをすることで、新しい時代を作っていける。過去の人たちは悪霊を生み出していた。現代人も信じていないが、悪霊に悩まされているのである。この悪霊を学び、少なくとも実態の無い者に振り回されることのない現在を作っていけるようにしないとね。

    ________


     やべぇ。書き込みすぎた。怒られるレベルだわコレ。

     でもでも、それほど勉強になった本だった。終盤になって、悪霊とは何ぞやってことがわかってきて、内容の理解が加速してくると、すごいはまった。

     自分が悪霊を生み出さないため、仏教の考え方はすごく効果的だなと思う。「とらわれないこと」仏教の素晴らしさとありがたさを再認識できる本でもあった。


     なんつーか、最後は心理学的な解放感というか、そんな感覚になった。

  • 悪霊は魂の中に棲む―呪われてしまった権力者はいかなる生き方をするのか?古代貴族社会の熾烈な権力闘争を勝ち抜くことができず、恨みを呑んで死んでいく者。それらの者が死後、“祟り”を及ぼす悪霊になるといわれる。崇道天皇、伴大納言、菅原道真、平将門、楠木正成…。悪霊に苦悩する者、悪霊を利用する者。平安の公家社会に横行した悪霊の系譜をたどりながら日本人の裏精神史に迫る、連作歴史人物評伝の大傑作。

  • 悪霊は魂の中に棲む―。呪われてしまった権力者はいかなる生き方をするのか?古代貴族社会の熾烈な権力闘争を勝ち抜くことができず、恨みを呑んで死んでいく者。それらの者が死後、“祟り”を及ぼす悪霊になるといわれる。崇道天皇、伴大納言、菅原道真、平将門、楠木正成…。悪霊に苦悩する者、悪霊を利用する者。平安の公家社会に横行した悪霊の系譜をたどりながら日本人の裏精神史に迫る、連作歴史人物評伝。

    新潮文庫 (1984.09)
    角川文庫 (1999.09) ※楽天ブックス画像あり

  • 長距離列車の暇つぶしを買おうとブックオフに入り、永井路子だからハズレはないだろうと105円で買ったこの本、びっくりするほどの良著であった。たしかに永井路子の本はどれもおもしろいけど、これは頭一つ抜けている。
    その筆は、冷酷である。むしろ私は彼女にこそ、南條範夫の冠言葉の「残酷」を捧げたい。左大臣顕光などの書き方はもう残酷としかいいようがなくて、なんというかその、たまらなく気持いい。虫に刺されたあとを皮膚が破れるまで爪先でかきむしるような、そういう気持ちよさがある。

  •  連作人物評伝の形式をとる本作は、単なる読み物レベルを超えた、日本史の負の領域を辿る裏系譜の研究評論。
     悪霊が実在するか否かの検証ではなく、それが現象として誰に対して働き如何に利用されてきたかという観点から、各時代の『呪い』の実態が解き明かされてゆく。

     特に、冒頭にて吟味される「長屋王の変」の真相が、初見は衝撃だった。
     王の名を冠した事件ながら、その実本命として狙われたとされるのは、彼の正妃であり元正天皇の妹である吉備内親王と、皇孫待遇を受けた彼女の子供たち。
     王の誅殺の影に隠れるように、吉備と子供たちは共に死んでいる。
     だが、王の弟以下が縁座を免れ、別の妃・藤原長娥子(父は不比等)とその子供には類が及んでいないことを見れば、仕掛けた側の意図は明白。
     王者の系譜における、血の革命の壮絶さと虚しさ、権力の推移。
     京都の下御霊神社に祀られながら由緒概要が不明となっている祭神・吉備聖霊を、この非業の死を遂げた皇女と推測する著者は“悪霊は、人の心の中にある”と述べる。
     “不当な仕打ちをした加害者が、内心の恐れと後めたさのために作りあげた虚像”なのだと。
     やがて、死者の復讐とも思える不幸の影に脅かされる聖武天皇は必死の魂鎮めの無効力さに慄きながら、屈折した自身の心を更に食い破ってゆく。
     帝王の放浪という奇態が、罪悪感と恐怖心のもたらす苦悶にあったことが淡々と語られる。
     小説「美貌の女帝」にて具象される、その荒涼たる描写が忘れられない。

     また、不比等以来、奈良朝随一の政治家・藤原仲麻呂の権謀の構図の見事さにも目を見張りつつ、傍らで精神を蝕まれてのた打ち回り遺詔も蔑(ないがし)ろにされた聖武の後継者問題に絡む、娘たち(井上・不破両内親王)の運命も数奇。
     一時は立后し、やがて廃后の憂き目に遭って謀殺され、延いては崇道天皇(早良親王)と併せて桓武天皇を苦しめる怨霊の一つとなった井上皇后の例を見れば、怨霊が“負い目を感じる側の価値判断”とする考え方は妥当。
     聖武から桓武へ。
     呪いの種は脈々と継がれている。
     自らの後半生をもってして、恐怖と贖罪の意を表し続けた王者たちの姿を、著者の筆致は鮮やかに浮かび上がらせる。
     平安仏教が伝わる前の『谷間』にあって、政治方針により奈良仏教を否定したことが魘魅や呪詛の野放図な拡大を生み、結果として縋る先を失ったと桓武の絶望の深さを指摘するのも鋭い。
     後の御霊会の様子に象徴される平安王朝の変質も示唆的。

     他、殊に名を知られる怨霊と言えば、やはり菅原道真だろう。
     生前の当人と無関係の性質を持った悪霊が百年もの長期に渡って存在した理由を、“生きている道真が廟堂にいることが邪魔だったと同様に――あるいはそれ以上に――悪霊としての道真を必要とした人がいたからではないか”と述べている。
     政敵追い落としの有効な手段として、相手方に祟りの名目でもって脅しつける。
     贖罪意識から口伝に語られるのではなく、政争や学者の派閥闘争、寺院相互の対抗策における宣伝効果を目的に、死者の名は一人歩きする。
     “神の近くにいる者は最も神なき者であり、神なき者がいるかぎりどんな悪霊も作りあげることができる”のだと、人間の身勝手さが霊の性質を変えることが鮮烈に指摘される。
     演出する者と、信じる者の存在、信じ込ませるに充分な状況によって、霊は神にも怨霊にもなりうる。

     左大臣・藤原顕光の項では、政(まつりごと)が身内の盥廻しと相克の対象となった背景に、プロ化した修験者や陰陽師の打算をも重ねて悪霊の変質を挙げている。
     矮小化された国家と政治意識の退廃を反映し、悪霊もまた、国家的要求や責任より個人レベルの恨みを焦点とする。

     公家社会の悪霊の典型である道真に対し、武家社会でそれに比するものは平将門にて論考される。
     悪霊は個人の性格や行為とは関わりなく、後世の人の頭の中で造り上げられ利用される。
     如何に政争の具として有効に機能し得るかが、その発祥にある。
     将門伝説の多様さも、中世武士という担い手があって漸く起きえたという政治的効果が根底にある。
     彼を祀った神田明神への明治天皇の参拝を巡る騒ぎは公権力の神社への介入を示しており、歴史教育における位置付けが転々と変質する現象も皇国史観を露骨に表す一例として興味深い。
     将門の乱と鎌倉武士団台頭との本質的な比較論の展開は、研究者の姿勢と観点からしても見習いたいもの。
     地方土豪層の力の蓄積、主従関係の紐帯の度合いと階層的な組織性、中央政権の価値観の排除など、両者を交えた東国問題の奥深さと難解さは途方のなさすら感じさせる。
     “ものごとの本質が、当事者の認識しないところにかくされているということもまた、歴史の上にしばしば見られる”とは、現代にも通じる一文なのだろう。

     古代末期の頽廃的な宮廷社会の土壌において生まれるべくして生まれた怨霊を追う崇徳上皇の項では、「源氏物語」の軸にある心の負い目や罪悪感すらも遠くなり、インモラルな構図も行き着くところまで行った感の末期的な平安王朝の様にぞっとする。
     一旦は葬られた過去の事実が巡り廻って表面化した途端、周囲の人々を巻き込んで翻弄し出す奇怪さ。
     天皇家・摂関家の内部抗争がより深刻に剥き出しになり、院政の発達の影にある近臣や戦力も経済力も持ちつつある武士側の思惑が絡みに絡んで、火種は益々増幅する。
     やがて時を経て明治期に復活した魂鎮めに見る、アナクロニズムに装われた政治的意図による演出――天皇の絶対的権威の確立――はまさに、“悪霊がそれじたいとして存在するのではなく、社会がそれを必要とするときにのみ存在する”という著者の洞察を裏付ける。
     敗残の王者の凄まじさや物悲しさは置き去られ、前時代的な要素を孕んだ明治が真の近代たりえたのか、との疑問までも残して。

     後半は、厳密に悪霊の検証よりも歴史的な人物評価へと比重が移る。
     源頼朝の死の推察も面白いが、大忠臣から悪党呼ばわりまで幅のある楠木正成の実像に迫る下りは、難解な南北朝時代を背景にしているだけあって特に勉強になる。
     当時の武士層を一概に北朝・南朝で区別できないこと。
     むしろ、動乱の背後に控える寺社勢力の強大さと分裂、武士との結託に目を止める必要性について、簡潔明瞭に説明される。
     この時期の動乱を性質的に二期に分け、鎌倉幕府滅亡後に武士たちが自らの血を賭けて新しい政治を模索した事実に注目している。
     そこにいるのは忠臣としての勤皇ではなく、自分らのために闘う者たちであり、彼らこそが歴史の底流を動かす担い手であった。
     整理し難い時代故に誤りやすい錯覚も指摘され、どきりとする。
     いわゆる『建武の親政』が崩壊したのは、革新さよりも復古的な性格にあったこと。
     必ずしも新しいものが古いものに取って代わるわけではないのだということ。
     「太平記」に見られる悪霊も、合理的な宋学の知識階級への広まりに伴い、あくまで物語の世界に閉じ込められ、時代や政治を批判する道具としてしか使われなくなる。

     最後、徳川家斉の周辺では、将軍をも巻き込んだ感応寺事件に見る、政治の堕落の根の深さ、魂の問いを置き去りした仏教との関わりに、いかがわしくも脆い虚妄の世界が描かれる。
     権力が頂点を超えて頽廃し、本質を欠いた政権争いと成り果てれば、平安王朝時代の悪霊が同質に再現され跳梁する。
     醜い我欲が連綿と続きながら、そこには悲哀と奇妙な可笑しさがある。
     太平の世にあり繁栄を享受し、けれど生き甲斐を失いながら刹那的な恋愛遊戯に耽る時代の符号は、そのまま現代の世相に通じている。
     忘却の技術や負い目の処理の仕方すら似通っていて、微妙に背筋が寒くなる。
     歴史の流れの底に淀むのは必ずしも精神の発展とは限らず、人間の心の後ろ暗い部分が蟠って社会を引き摺っていくこともあるのなら、人は負の遺産をこそ学ぶ必要があるのではないだろうか。

  • 「悪霊列伝」とありますが、怪奇小説ではありません。ただ、むしろこちらのほうがどろどろしていますれど。。。

    歴史とは、勝利者の記録である。ということがよくわかりました。政争に負けてしまった人々は悪者にされ、死してなお「祟り」として勝利者である権力者の周りから離れない。
    悪霊とは、人の心が創るものである。後ろめたい気持ちがある人に悪霊はまとわりつく。

  • 厳密には古代のみではなく古来からの怨霊となった人物を取り上げていますが古代が目当てだったので。
    其々の人物が怨霊となった(された)背景や経緯が様々で面白い。生きている人間の心が怨霊を作り上げる、または必要に応じて作り出されるものという解釈が大変に腑に落ちる。早良が本命でしたが道真や崇徳の項も非常に面白かったです。

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