再読。学生の頃に初読して以来なので、30数年ぶり。
先日ドストエフスキーの小説を全読した。そして、再読したいと思った作品は2つであった。1つは「死の家の記録」。そして、この「罪と罰」である。
「罪と罰」を初読したとき、自分は若い学生だった。そのため、内容を十分に咀嚼出来なかったのではあるまいか、という気がしていた。また、作家の著作を全読して、ドストエフスキーの全体像や傾向を把握した気がしている今、改めて「罪と罰」を通読すれば、また新たな読み方が出来るように思ったのである。
また「罪と罰」を再読せんとする動機、もう1点は、ドストエフスキーの五大長編のなかでは、構成、ストーリー展開の面で最も❝まとまり感❞があり、❝ぜい肉❞が少なくて完成度が高かったように思うためだ。
そして、ひとまず上巻を読了。
以下、上巻段階での感想諸点。
・犯罪、犯行の心理を臨場感緊迫感たっぷりに描き、この点では現代ミステリーに比肩する出来。トム・リプリーシリーズのようなドキドキ感がある。
・だが再読すると、本作にもやはり、❝ぜい肉❞というか、夾雑物みたいな要素はある。
・ラスコーリニコフの犯行後、他の物語要素がこってり挿入される。
・親友ラズーミヒンの世話焼きと引っ越し祝宴。
・妹ドゥーニャに求婚した男ルージンの来訪。
・酔漢ダメ男の「交通事故死」。
・母プリヘーリヤと妹ドゥーニャの「上京」来訪。
・そして、それらの場面でドストエフスキーおなじみの長口舌。
以前読了後の記憶では、ラスコーリニコフの犯罪・犯行にしぼり込んで描かれてまとまり感あり、と思っていたが、やはりそうでもない。本作でもドストエフスキー名物の❝くせ❞が「健在」で苦笑。
ただそうした詰め込み感、過剰な感じ、登場人物のえぐみは、作品世界を豊穣にしているとも言える。
また、本作「罪と罰」を、シベリアの監獄での4年を経て書かれたことを想起しつつ読むと感慨深い。流刑の4年間に見た人間達の群像とその記憶が「罪と罰」の人物造型や構想の輪郭を力強いものにしているように感じるのだ。
さて。
前回は新潮文庫(工藤精一郎訳)で読了。今回は別の訳で読むことに。角川文庫で米川正夫訳である。
角川文庫版は、表紙デザインがロシアアバンギャルド風でかっこよく清新な印象。だが翻訳そのものは1968年訳で、実は意外と旧い。
訳について言うと、ごくまれに旧い言葉がちらほら使われているのに出会う。が、文体が旧いとかまわりくどいなどの読みづらさは無い。わりと読み易い。
付記:前半部、ラスコーリニコフのいわゆる「独自の犯罪哲学 」が初めて詳述されるのは、安居酒屋で隣席した他の学生の熱弁を通じてである。ラスコーリニコフは、自分の考えとそっくりな理論を耳にして、その偶然に運命的なものを感じるという場面だ。この、他者の説明から切り出された展開構成は巧く無いな、と私は感じた。
そして、上巻の後半。実はその2ヶ月ほど前にラスコーリニコフが雑誌に投稿した論文があったとされる場面が描かれる。この部分、私見であり個人的な推測だが、ドストエフスキーが執筆進行中に後から補足追加した一節のような気がしている。
他者の熱弁を先に記述した事で、あの犯罪哲学がラスコーリニコフの発意である印象を薄めてしまう欠点に気付き、過去の論文という要素で補強したように思えたのだ。あくまで私見である。