嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

著者 :
  • 角川学芸出版
4.22
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本棚登録 : 4409
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  • Amazon.co.jp ・本 (301ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784043756018

作品紹介・あらすじ

一九六〇年、プラハ。小学生のマリはソビエト学校で個性的な友だちに囲まれていた。男の見極め方を教えてくれるギリシア人のリッツァ。嘘つきでもみなに愛されているルーマニア人のアーニャ。クラス1の優等生、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それから三十年、激動の東欧で音信が途絶えた三人を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う!大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 1960年プラハのソビエト学校で小学生のマリが出会った3人の笑いと涙つまった思い出話と、その後激動の東欧で再会するまでのノンフィクション。複雑な民族間の対立など今の戦争にも繋がる話。耳障りのいい言葉でまとめてはいけないと思った。


  • 長年の読むのを楽しみにしていた本!
    ぜったい好きになる予感の本!
    やっと読めて本当に嬉しい…
    そして予感通り好きな本になる(笑)
    が、その反面想像以上にスケールが大きく、深い内容であり、本のレビューを書くのになかなか言葉が出てこない…

    米原さんのノンフィクション
    1960年プラハ
    マリ(著者)はソビエト学校で個性的な友達と先生に囲まれ刺激的な毎日を過ごしていた
    9〜14歳頃だ
    50カ国以上の国の子供達が集まっていた
    故国から離れているせいか皆が愛国者
    マリさんが居た頃は、国際間のデリケートな問題は校内で避けるという方針
    お休みの日は宿題は無し!素敵(笑)
    のびのびとした無邪気な子供達の言動の端々に彼らの民族性や習慣、アイデンティティが垣間見える
    また社会主義情勢の時代背景も興味深い
    マリも敏感に感じ取ったり、あとから理解できることも多々あった(子供時代と30年後の感覚の違いも読ませる)
    その中の3人の友人とのそれぞれのストーリー
    それは多感な少女達の単純な友情と青春物語ではない
    誰もが幼いながら自分の故郷を抱えざるを得なく、世界情勢に振り回されながらも激動な時代、彼らなりに生きていく

    30年後、東欧の激動
    (東欧の共産党政権が軒並み倒れ、ソ連邦が崩壊)
    で音信の途絶えた3人の親友を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う

    【印象に残った内容】
    ・皆が愛国者だったが、故国が不幸であるほど望郷の思いが強くなるらしい
    ・無差別なき平等な理想社会を目指して戦う仲間同士のはずなのに、意見が異なるだけでお互いが敵になってしまうことが絶望的に悲しい
    ・社会主義の矛盾した経済不平等さ
    それに気づかないふりを続ける特権階級の人々
    国民の平等を唱えながら貧富の差がある
    ・在プラハ・ソビエト学校および大多数の保護者はイデオロギー論争における自国と自国の党の正当化を子供たちに教え込むことより、子供同士の人間関係の方を優先して考えてくれたのではなかろうか
    ・ユーゴスラビアは社会主義諸国の一員ではなく社会主義を語るほとんど資本主義国であると言う見方が多く裏切り者扱いであった
    ・世界の共産主義運動の中で、左派に位置するとみられる日本共産党員の娘である私が、最右翼に位置すると思われているユーゴスラビア共産主義者同盟員の娘と仲良くなることで、論争と人間関係は別なのだと言うことを周囲に示したかった
    ・日本ではいとも気楽に無頓着に「東欧」と呼ぶが、ポーランド人もチェコ人もハンガリー人もルーマニア人も括られるのをひどく嫌うため「中欧」と訂正する
    ・「東」とは第一次大戦まではハプスブルク朝オーストリア、あるいはイスラム教を奉じるオスマン・トルコの支配収奪下に置かれ、第二次大戦期はソ連邦傘下に組み込まれていたために、より西のキリスト教諸国の「発展」から取り残されてしまった地域、さらには冷戦で負けた社会主義陣営を表す記号でもある
    ・後発の貧しい敗者と言うイメージがつきまとうのが嫌なのだろう 「西」に対する一方的憧れと劣等感の裏返しとしての自分より「東」、さらには自己の中の「東性」に対する蔑視と嫌悪感
    これは明治以降脱亜入欧を目指した日本人のメンタリティにも通じる



    自分の生まれた国や親の思想によって、世界情勢の変化が起こると、唐突に人からの対応が変わる
    昨日までの友情が無かったことになる
    当たり前の日常生活がガラリと変わる
    ある日突然、暴動に巻き込まれたり、家族が異国でバラバラに暮らしたり、突然連絡が取れなくなったり、亡命したり…

    日本でのほほんと過ごしていた自分には本当に恥ずかしいくらいあり得ない世界である
    遠い教科書の中のできごとを少女達やその家族、また彼女らの取り巻く環境を通じて生々しくリアルに知ることができた
    平和な日本では、民族紛争や亡命なんて本当に遠い国の話でしか無いかもしれない
    しかしながら、多様化の時代、これからだってなにが起こるかわからないのではなかろうか

    遠い国のことが急にクリアに目の前で展開され、手で触れ、感じることのできるような錯覚に良い意味で陥った
    現代史の世界情勢、友情、これらのテーマを融合させ、まるで身近な出来事として体感できるような見事なノンフィクション小説だ

    改めてこの頃の時代背景を理解したうえでぜひぜひ何度も再読したい

  • 【感想】
    本書は、1960年~64年の間にプラハのソビエト学校にいた筆者が、当時の同級生たちを30年越しに再訪するエッセイである。60年~64年というと、ヨーロッパではベルリンの壁が建設され、中米ではキューバ危機が起こっていた。まさしく「東vs西」のピークである。その30年後の1990年台前半はというと、ソ連が崩壊し、東西ドイツが統一された。加えて旧ソ連の衛星国が相次いで社会主義体制を放棄し、ユーゴスラビアでは民族紛争が起こっていた。まさに国の概念がひっくり返る動乱が起きていた時代であり、この間東欧諸国出身の同級生たちはどんな人生を送っていたのか――、そうした足取りを辿る一冊だ。

    プラハのソビエト学校では、50を超える国の子どもたちが一緒に勉強していた。当時社会主義体制に組み込まれていた「すべての国の」子どもたちだ。中には亡命してきた者も多く、学生生活のかたわら遠く離れた祖国に思いを馳せていた。
    例えば、フランスの植民地であったアルジェリア出身の少年アレックスは、毎日のように無線ラジオに耳を傾け、独立戦争の行方に一喜一憂していた。そして、独立前後の、まだ政情不安な故国に両親とともに帰っていった。その消息は、その後分からずじまいである。
    また、内戦が続く南米ベネズエラから来た少年ホセはこう言った。「帰国したら、父ともども僕らは銃殺されるかもしれない。それでも帰りたい」。それから一月もしないうちにホセの一家はプラハを引き上げていった。密入国した両親、姉とともにホセが処刑されたというニュースが届いたのは、さらにその3か月後だったという。

    故国が不幸であればあるほど、望郷の想いは強くなる。残酷な運命を抱えた子どもたちは、この学校では決して珍しくない。本書のメインキャラである3人の少女――リッツァ、アーニャ、ヤスミンカも、同じように戦争と政治の惨禍に巻き込まれていく。

    本書は社会主義諸国の人々を描いた人間ドラマだ。それと同時に、激動の東ヨーロッパの歴史を切り取った証書だ。作中では、政治の動乱によって市井の人々の生活や価値観が簡単に壊されていく様子が綴られていく。
    例えば、筆者自身も学校で差別の対象にされていた。スターリン批判によってソ連と中国が険悪になる中、日本共産党は中国派とみなされていた。そのため、一部のソ連人の子どもたちは、筆者から距離を取っていた。子どもたちに関係のない「政治の世界」の出来事であるにもかかわらずだ。同様に、ユーゴスラビアはソ連から「お飾りの社会主義」と見なされており、ユーゴスラビア出身であるヤスミンカは、ソビエト人の校長から酷い嫌がらせを受けて退学している。
    本人たちがどう思おうと、国と政治は否応なく人々の間に線を引いてきた。ソビエト学校の子どもたちは、幼いころから歴史を背負って生きていたのだ。
    一方で日本に住む私たちは、東欧の人々と比べて、政治の変動に翻弄されることが少なかった。民族感情の対立を経験しないまま、今日の平和を享受している。それは幸せではあるが、無知から来る幸せだ。

    愛国心は国を強くする。しかし同時に、愛国心は排外主義を招き、民族紛争の火種ともなる。動乱の経験のない私たち日本人だからこそ、ヤースナのように、友人、知人、隣人を愛さなければならない。マリやかつてのアーニャのように、愛国心を分断のために利用するのではなく、多様性を理解するために活かさなければならない。本書を読み終わった今、そう強く感じている。

    ――それでも、このときのナショナリズム体験は、私に教えてくれた。異国、異文化、異邦人に接したとき、人は自己を自己たらしめ、他者と隔てるすべてのものを確認しようと躍起になる。自分に連なる祖先、文化を育んだ自然条件、その他諸々のものに突然親近感を抱く。これは、食欲や性欲に並ぶような、一種の自己保全本能、自己肯定本能のようなものではないだろうか。
    この愛国心、あるいは愛郷心という不思議な感情は、等しく誰もが心の中に抱いているはずだ、という共通認識のようなものが、ソビエト学校の教師たちにも、生徒たちにもあって、それぞれがたわいもないお国自慢をしても、それを当たり前のこととして受け容れる雰囲気があった。むしろ、自国と自民族を誇りに思わないような者は、人間としては最低の屑と認識されていたような気がする。
    「そんなヤツは、結局、世界中どこの国をも、どの民族をも愛せないのよ」
    アーニャは、よく心の底から吐き出すように、そう言った。

    ――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 リッツァ
    リッツァ:ギリシャ人の女の子。リッツァの父親は、軍事政権による弾圧を逃れて東欧各地を転々とし、チェコスロバキアに亡命してきた共産主義者。祖国はギリシャであるが、リッツァは、一時期両親が身を寄せたルーマニアの田舎町に生まれ、5歳のときに家族とともにプラハに移住してきた。
    リッツァは勉強は散々だったがスポーツは万能で、小学校4年生にして男の見極め方や性知識を教えてくるおませさんだった。「女優になって、片っ端からいい男と寝てやる」と豪語するぐらいの美少女だった。

    筆者のマリは1960〜64年の間、プラハのソビエト学校で学んでいた。5年目に父の任期が終わって日本に戻ると、地元の中学校に編入した。
    初めのうちはなかなか溶け込めず、プラハの学校が恋しくて仕方なかった。そのため、リッツァや仲良しのクラスメートにせっせと手紙を書いた。ソ連人の同級生が、誰一人返事をよこさなかった事情については、ずっと後になってから知った。資本主義圏の人間とは、痕跡が残るよう交際をしてはならないと、親や周囲から厳しく牽制されていたのだ。

    プラハ時代の学友たちのことが、むやみに心をかき乱すようになったのは、80年代も後半に入ってからのことである。東欧の共産党政権が軒並み倒れ、ソ連邦が崩壊していく時期。もう立派な中年になっている同級生たちは、この激動期を無事に生き抜いただろうか。いつのまにかクラスメート一人一人の顔が浮かんでいることが多くなった。

    「リッツァに逢いたい。プラハ・ソビエト学校時代の同級生みんなに逢いたい」
    彼らの面影に惹かれるように、再三再四、プラハやプラハ時代の学友たちが帰っていっただろう国々に旅するようになった。

    リッツァは医者になり、フランクフルト近くのナウハイム市に住んでいた。かつて「抜けるように青い」と自慢していた故郷ギリシャの青空のもとには帰っていなかった。

    リッツァの父は、ワルシャワ条約機構軍のチェコ侵入に断固反対したため、ソ連共産党から爪弾きにあっていた。実質的に国を追われる形となり、西ドイツに移住した。リッツァも大学を続けてはいたが、寮にいられなくなり、奨学金も打ち切られた。

    リッツァ「大変は大変だったけど、苦労したのは学問のほう。経済的には、そんなに困らなかった。だって授業料は無料のままだもの。こちらに来て分かったけれど、医学部の授業料は、目が飛び出るほど高くて、これじゃ、金持ちしか行けないわ。私みたいな大して頭の良くない貧乏人があれだけ本格的な教育を受けられたのは、社会主義体制のおかげかもしれない。生活費だって安かったし。気分的にもとても楽だった。まわりには、父の立場に共鳴してくれる人が多かったし」

    リッツァの父は移住先で運び屋になって成功を収めたが、1985年に自動車事故で亡くなっていた。兄のミーチェスはかつてプレイボーイだったが、女性関係のトラブルで現在はほとんど廃人状態である。
    リッツァ自身は二児の母。上の子はダウン症である。

    マリ「ねえ、リッツァ、質問していい?リッツァは、なぜ、ギリシャに帰らなかったの。ギリシャは民主化されて、帰還は可能になったのでしょう。いつもギリシャの青い空のこと自慢してたから、てっきりもうギリシャに住んでいるものと思ってた」
    リッツァ「マリの言うとおり。軍政が打倒された78年、すぐにも飛んでいこうとしたらビザがなかなか下りなくてね、ようやく行けたのは、81年だった。夢にまで見たギリシャの青空はほんとうに素晴らしかった。目がつぶれてしまうほど見つめていても見飽きないほど美しかった。でもね、マリ、私にとってギリシャで素晴らしかったのは、青空だけだったのよ。一番、我慢できなかったのは、ギリシャでは、女を人間扱いしてくれないこと。それに、子どもをメチャクチャ可愛がるのはいいけれど、犬猫など動物に対する嗜虐性にはついていけなかった。ああ、それにあのトイレの汚さは耐え難かった。結局、私はヨーロッパ文明の中で育った人間だったのね。思い知ったわよ」
    「それで、ドイツ人やドイツでの生活には満足しているの」
    「ぜんぜん。もちろん、病気じゃないかと思うほど街も公共施設も清潔なのは気持ちいいけれど、ここはお金が万能の社会よ。文化がないのよ。チェコで暮らしていた頃は、三日に一度は当たり前のように芝居やオペラやコンサートに足を運んだし、週末には美術館や 博物館の展覧会が楽しみだった。日用品のように安くて、普通の人々の毎日の生活に空気のように文化が息づいていた。ところが、ここでは、それは高価な贅沢。経済はいいけれど、文化がない」


    2 アーニャ
    アーニャ:「雌牛」というあだ名の、ぽっちゃりしたルーマニア人の女の子。筋金入りの愛国者かつコミュニストで、大げさな革命的言辞を異常に好んでいた。アーニャには虚言癖があり、やたらめったら話をドラマチックにしたがった。常に自分流を押し通して周囲を混乱させていたが、心根が優しく、友達を大切にする子で、話しが面白くクラスメートから愛されていた。父親がチャウシェスク政権の幹部であるため大金持ちで、共産主義者でありながらブルジョワ的な暮らしをしていた。

    アーニャはルーマニアを心から愛し、ソビエト学校の途中で母国ルーマニアの学校に転校していった。
    帰国後最初に届いた手紙には、自分の国に住む喜びが素直に綴られていた。
    アーニャ「マリ、ずっとずっと夢見ていたけれど、自国語で暮らし学ぶことが、これほど興奮し心躍るものだとは想像がつかなかった。今は、ルーマニア語で友達とおしゃべりしたり、宿題を考えたり、授業で先生に当てられて答えたりするのが、嬉しくて嬉しくて仕方ない の」

    当時のルーマニアは決して幸せな国ではなかった。国内では国粋主義的・排外主義的締め付けが進み、貧富の差は激しかった。アーニャは特権を享受する立場だった。彼女自身は18歳でイギリス人と結婚し、ロンドンに移住していた。

    1995年、筆者はブカレストを訪れた。かつて東欧のパリと讃えられた街に、その面影はなかった。荒れ果てた街の風景に、何よりも人々のすさんだ表情と、何かに怯えるような落ち着きのない瞳に衝撃を受けた。その瞳からは独裁体制から自由になった喜びや希望は読みとれない。崩れかかった古い建物、建設途中で放置されたコンクリートの建造物、大量の野良犬。それと対を成すように立ち並ぶ豪華な邸宅には、チャウシェスク政権時代の幹部が今も住んでいる。街も人も、いまだにチャウシェスクの時代に取り残されていた。

    アーニャの両親は、警備員付きの豪華な邸宅に住んでいた。広い庭とテニスコート、革張りの玄関扉を抜けた先には、広い廊下と両側にいくつもの巨大な部屋が並んでいた。アーニャ自身は今、ロンドンで旅行雑誌の副編集長をしている。英語も完璧であり、完全にイギリス人になっているらしい。あの熱烈なルーマニア愛国者のアーニャがだ。

    マリはその日の夜、アーニャの兄のミルチャと会い、家族の身にあったことを話した。
    「僕の両親は、この体制の救いようのないことをとっくに察していたんですよ。おそらく、すでに60年代後半にはね。それで、目に入れても痛くないほど可愛い娘を外に逃すことにしたんだと思います。父だけでなく、党の幹部たちの中でもインテリ出身の連中は、まるで暗黙の了解でもあるかのように、軒並みそういう手を打っていました」
    「どうして、分かるんです?」
    「僕も父から言われたからです。外国に留学して、留学先で結婚相手を見つけてこの国を出ろと」
    「そのアドバイスに従わなかったんですね」
    「当然です。そんな卑劣な父が許せなかった」
    「アーニャは、素直に従ったというわけですか?」
    「いや。アーニャの前では、父も尊厳を保とうと、かなり見栄を張ってましたからね。僕に対してと同じ台詞を言ったとは考えられない。でも、そのようにアーニャの人生が展開するようにリモート・コントロールしていった。党の幹部たちの子弟用には、普通の子どもたちが行く学校ではなく、特別な学校があったんです。アーニャはプラハから帰国すると、そこへ通いました。少人数で教師たちは皆、超一流の学者だった。本職はみな大学教授でしたからね。その中には、学生時代からの父の友人も多く、その友人たちを通して、アーニャの関心を近代西欧の哲学に向かわせ、ルーマニアの大学ではなくイギリスの大学に留学するよう仕向けていった」
    チャウシェスク政権下では、ルーマニア人が外国人と結婚するのはほぼ認められていなかった。政権幹部だけが、その特権を悪用していた。ミルチャはその立場に我慢できず、自ら家を出たのだった。

    その後、マリはアーニャとプラハで再開する。
    「アーニャはソビエト学校でも愛国心の強さでは右に出る者いなかったでしょう。あれも、白黒の世界だったの?国籍を変える時は、辛くなかったの?」
    「国境なんて21世紀には無くなるのよ。私の中で、ルーマニアはもう10パーセントも占めていないの。自分は、90パーセント以上イギリス人だと思っている」
    さらりとアーニャは言ってのけた。ショックのあまり、私は言葉を失った。ブカレストで出逢った、瓦礫の中でゴミを漁る親子を思いだした。虚ろな目をした人々の姿が寄せては返す波のように浮かんでくる。

    「本気でそんなこと言っているの?ルーマニアの人々が幸福ならば、今のあなたの言葉を軽く聞き流すことができる。でも、ルーマニアの人々が不幸のどん底にいるときに、そういう心境になれるあなたが理解できない。あなたが若い頃あの国で最高の教育を受けられて外国へ出ることができたのは、あの国の人々の作りあげた富や成果を特権的に利用できたおかげでしょう。それに心が痛まないの?」次々とそんな想いが頭の中を駆けめぐるのだが、口ごもってしまって、言葉にならない。アーニャは、顔を上気させて滔々とまくし立てる。
    「そうよ、マリ。民族とか言語なんて、下らないこと。人間の本質にとっては、大したものじゃないの。人類は、そのうち、たった一つの文明語でコミュニケートするようになるはずよ」

    「ルーマニアの人々の惨状に心が痛まないの?」
    「それは、痛むに決まっているじゃないの。アフリカにもアジアにも南米にももっと酷ところはたくさんあるわ」
    「でも、ルーマニアは、あなたが育った国でしょう」
    「そういう狭い民族主義が、世界を不幸にするもとなのよ」
    丸い栗色の瞳をさらに大きく見開いて真っ直ぐ私の目を見つめるアーニャは、誠実そのものという風情だった。


    3 ヤスミンカ
    ヤスミンカ(ヤースナ):ユーゴスラビア人で、クラス一の優等生の女の子。体育とダンスをのぞくあらゆる学科をほぼ完璧にこなし、とくに絵の才能がずば抜けていた。葛飾北斎にインスピレーションを受けていたらしい。本人は褒められてもあまり喜ばず、何事にも程よい距離を保ちクールに振る舞っていた。
    1960年代初頭から63年の半ばぐらいまでは、ソ連から「ユーゴスラビアは社会主義諸国の一員ではない」「社会主義を騙るほとんど資本主義国である」とみなされ、ヤスミンカもあまりクラスに友達がいなかった。

    筆者が中学三年生のとき、ヤースナはソビエト学校を退学してチェコの学校に転校した。そのまま学年末まで通い、ユーゴスラビアに帰国した。

    筆者がユーゴスラビア連邦を訪ねたのは1995年の11月、ユーゴスラビア民族紛争の真っ只中だった。なんとヤースナの父親は、ユーゴスラビア連邦の大統領のひとりになっていた。その中でもボスニア出身の大統領は彼が最後である。ヤースナ自身は外務省の通訳・翻訳官を勤めていたが、3か月前に辞め、ベオグラードに住んでいた。

    ヤースナ「マリ、私、空気になりたい」「誰にも気付かれない、見えない存在になりたい」
    紛争が始まってから、ムスリム人の両親から生まれているヤースナの人間関係はギクシャクしていった。外務省を辞めたのは自ら退職願を出したからだった。

    ヤースナはアーニャ一家とは違って、庶民向けの大規模団地に暮らしていた。日常生活を丁寧に生きる、幸せな家庭を築いていた。
    ヤースナ「でもね、マリ、このすべてが、いつ破壊し尽くされてもおかしくないような状況に、私たちは置かれているのよ。翻訳している最中も、本を読んでいるときも、台所に立っているときも、ふとそのことで頭がいっぱいになるの。すると、振り払っても振り払っても、 恐ろしいイメージが次から次へ浮かんできて気が狂いそうになる」
    「この戦争が始まって以来、そう、もう5年間、私は、家具をひとつも買っていないの。食器も。コップひとつさえ買っていない。店で素敵なのを見つけて、買おうかなと一瞬だけ思う。でも、次の瞬間は、こんなもの買っても壊されたときに失う悲しみが増えるだけだ、っていう思いが被さってきて、買いたい気持ちは雲散霧消してしまうの。それよりも明日にも一家皆殺しになってしまうかもしれないって」
    「私にはボスニア・ムスリムという自覚はまったく欠如しているの。じぶんは、ユーゴスラビア人だと思うことはあってもね。ユーゴスラビアを愛しているというよりも愛着がある。国家としてではなくて、たくさんの友人、知人、隣人がいるでしょう。その人たちと一緒に築いている日常があるでしょう。国を捨てようと思うたびに、それを捨てられないと思うの」

  • ロシア語通訳を務める米原万理さんが、変革で揺れる1990年代の東欧で、チェコ・プラハのソビエト学校時代の友人3人を訪ね歩くノンフィクション。

    米原さんは、お父様がプラハに設立された国際共産主義運動の理論誌の編集局に日本共産党から派遣されたことから、プラハのソビエト学校で青春時代を過ごした。
    学校には共産主義政党から派遣されたさまざまな国の子供たちが集まってきていて、さぞかし特殊な環境だったのだろう、と思いきや、米原さんの文章からは、日本の同年代の若者と変わらない、わちゃわちゃとした楽しい学校生活が伝わってくる。

    モテモテの兄を持ち、ちょっと勉強が苦手だけど、映画女優になることを夢見るおしゃまなギリシャ人のリッツア。大げさな物言いを好み、息をするように嘘をつくけれど、皆から愛されていたルーマニア人のアーニャ。クールな優等生で、米原さんのあこがれだったユーゴスラビア人のヤスミンカ。
    米原さんが日本に帰り、いつしか連絡が途絶えた後、ヨーロッパの共産主義圏は激動の時代を迎える。いてもたってもいられず、かつての旧友を訪れる米原さん。わずかな情報をもとに少しずつ消息をつかんでいく様子は、まるでサスペンスのような緊迫感をはらむ。そして、その過程で、米原さんは、青春時代には見えていなかった彼女たちを取り巻く複雑な事情を知ることになる。

    何も知らなかった楽しい青春時代を最初に知らされているからこそ、再会した彼女たちの現状になんとも言えずやるせない気持ちになる。もちろん、不幸のど真ん中にいるわけではなく、それぞれにたくましく幸せに生きているのだけれど、現実は、若い日に思い描いた明るい未来からはるかに遠い。
    個人的に好きだった勉強嫌いのリッツアが医者になっているのには、驚くと同時に、彼女の苦労を想像しなぜか涙が出てしょうがなかった。

    米原さんの著書は実はこれが初読み。もっと早くに読んでいればよかった、という思いもあるが、本書に関しては、青春時代を懐かしく、切なく思い返すことのできる今が読み時だったような気がする。

  • フォローしている沢山の方が絶賛している本。
    たまたま最寄りの図書館に在架していたので、おーこれだ!と借りた。

    冷戦時代に東側の国で子供時代を過ごした経験のある人は稀なのではないだろうか。
    西側の自分たちが思い描くのは、窮屈で緊張を強いられるような生活だが、そんなステレオタイプな思い込みを吹き飛ばす、自由で破天荒な子どもたち。学校の先生たちもユニークだ。

    目や耳から入るフィルターを通した情報と、そこに暮らす人々の声というのは必ずしも一致しないのだ、ということを教えてくれた。

    「古本道場」でも米原さんの魅力を角田さんがチラッと伝えてくれていたが、他のエッセイもがぜん読みたくなった。
    2020.12.6

  • 私は海外小説は読むのですが、現実の海外事情にはほとんど興味がありませんでした。と書くと、後ろめたい気もするのですが。日本が好きなのです。

    ただ、そうした興味の無さは、読書がきっかけで変わることもあるということを、今回、本当に実感させていただきました。我ながら驚いているのですよ。共産主義運動やユーゴスラビア紛争にしても。

    元々、読もうと思った理由は、フォローしている方々が絶賛されている感想が多かったからで、この作品の内容について、日本に居るだけでは、本当に実感することのできないお話です。下手したら、一生知らずに終わってしまうかも。

    それぞれの国があって、それぞれの民族、宗教、歴史がある中で、「ソビエト学校」での様々な事情を抱えながらも、個性的な生徒たちが集まった生活風景には、明るく微笑ましいものを感じながらも、次第に時代の荒波に飲み込まれていく為す術もなさを、大局的な視点で映し出される出来事には、何も思うことができず、情けないが、ただただ無心でページをめくり続けるだけ。このやり切れない無力感は、私の想像を遥かに絶する。

    それでも、大いなる存在に強く抗う様や、考え方を変えるしなやかさには、国や民族に捉われない、その人自身の気持ちがはっきり表れていることが分かり、それがノンフィクションだということもあって、とても嬉しかった。

    それは、おそらくマリとリッツァ、アーニャ、ヤスミンカとの友情にも。

    このような形で、色々な国の当時の事情を、米原万里さんの視点で知ることができたことに、感謝したい気持ちでいっぱいです。

    ノンフィクションなのですが、ドラマチックで生々しい展開は、劇的な物語といっても違和感がないほど、ストーリー性の高いことにも驚きでした。世界は広いし、安っぽいと思われるでしょうが、愛しい気持ちになってしまう。

  • 米原万里さんは、9歳から14歳までの間、プラハのソビエト学校に通われている。米原さんのお父様が日本共産党の幹部としてプラハに派遣されるにあたり、家族を帯同されたもの。ソビエト学校は、プラハに派遣された各国の共産党幹部の子弟が通う一種のインターナショナルスクールで、50カ国の生徒で構成されていた。授業は、ロシア語で行われる。
    米原さんは、14歳の時、1964年に日本に帰国される。それから、30年を経た1990年代の半ばに、当時、仲の良かった、ソビエト学校の3人の同級生を探すことにトライする。3人の国籍は、ギリシア、ルーマニア、ユーゴスラビア。
    3人を探す旅は、NHKで「わが心の旅 プラハ・4つの国の同級生」という番組として、1996年2月3日に放送されている。この番組は、実際にYou Tubeで視聴可能だ。私も観た。
    本書の発行は、2001年なので、米原さんは、テレビ放送の後で、この話を書籍化されたのだと思う。本書は、2002年の大宅壮一ノンフィクション賞作品でもある。

    14歳と言えば、日本では中学生。ただ、この話は、中学校の同級生を30年ぶりに訪ねるという簡単な話ではない。30年の間に歴史は大きく動いている。
    ■ベルリンの壁崩壊が1989年
    ■ソビエト連邦解体が1991年
    ■ユーゴスラビア内戦は1991年から
    ソビエト学校のおおもとのソ連自体がなくなり、その衛星国であった東欧の社会主義国は体制が大きく変わり、また、ユーゴでは内戦が始まる。その過程で、共産主義そのものの力、東欧各国の共産党の力は弱体化する。それは、当然、各国の共産党幹部の子弟であった、米原さんの3人の同級生のその後の人生に大きな影響を与えずにはいられない。
    と考えると、米原さんの同級生探しは、とてもスケールの大きな、激動の歴史の影響を探る旅でもあったのだ。

    どちらが先でも構わないと思うが、本書とYou Tubeでの番組の両方を見られると、より立体的にストーリーを楽しむことが出来ると思います。

    • Macomi55さん
      sagami246さん、初めまして。この度はフォロー有難うございます。
      1990年前後、日本は昭和から平成への変わり目、ベルリンの壁崩壊、ソ...
      sagami246さん、初めまして。この度はフォロー有難うございます。
      1990年前後、日本は昭和から平成への変わり目、ベルリンの壁崩壊、ソビエト連邦解体、中国の天安門事件と世界的な大事件が続きました。その頃、演説していたゴルバチョフ書記長の姿、そのソ連のトップと日本の総理大臣の間で通訳をされていた米原さんの姿をテレビで良くお見かけしたのを覚えています。普通は通訳の方の姿まで覚えていないのですが、ポニーテールで美しかった米原さんは印象的でした。
      「もしや、あの通訳の方の本?」と思いながら、あの印象的な時代に激動の現場を体験してこられた米原さんの「嘘つきアーニャ…」をもう15年くらい前ですが、興味深く読んだのを覚えています。この本について詳しくレビューして下さる方を見つけ、嬉しかったので、コメントさせて頂きました。
      2020/11/02
    • sagami246さん
      Macomi55さん、おはようございます。
      初めまして、コメントいただきありがとうございました。
      いわゆる東西冷戦が終わろうとしていた頃、米...
      Macomi55さん、おはようございます。
      初めまして、コメントいただきありがとうございました。
      いわゆる東西冷戦が終わろうとしていた頃、米原さんは通訳として、歴史の中で大事な役割を果たされていたのですね。
      もっと言えば、プラハのソビエト学校に通われていたということから始まり、米原さんは歴史の変化の中を生きた方なのだな、と感じます。
      コメントありがとうございました、引き続きよろしくお願い致します。
      2020/11/24
  • 読書会参加二回目、課題図書
    いい本を挙げて頂いた
    米原真理さんは「犬猫好き」で有名でエッセイも楽しませてもらった
    有能なロシア語の同時通訳者だったそうで、ゴルバチャフさんのお気に入りだったとか

    プラハの「ソビエト学校」の個性的過ぎる同級生三人
    両親の生きざま、時代背景、国家まで背にして生きざるを得なかった彼女たち
    三人を探し出し、涙の再会
    夫々の過酷な人生を想う
    どうぞお幸せでありますように
    万理さん、悔しいです

    現在のウクライナ情勢も考えずにはいられない。
    地図を見つめながら……

    ≪ 激動の 東欧の点 真実は ≫

  • 9歳から14歳までの多感な時期をプラハのソビエト学校で過ごした少女時代の思い出、そして社会主義体制の崩壊を経て、大人になった著者が友人たちの消息を訪ねて東欧各地を訪れたときの出来事を綴ったエッセイです。

    本書は3人の少女に焦点を当てて綴られています。
    ギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。
    彼女たちとの思い出は、20世紀後半からの東欧諸国の情勢と切っても切り離せません。
    時代のうねりに翻弄された少女たちやその家族の心情、その後に辿った人生を読み進めるにつれ、ヒリヒリとした感触が身体の中に強くなっていきました。
    その感触に促されて一気に読んでしまったせいか、読んで感じたことがうまく言葉にできなくてもどかしい…。

    これからの時代を生きていくのに忘れたくないことがたくさん詰まった1冊だったので、折にふれて読み返し、より深く自分の中に沁み込ませていきたいです。

  • 主人公マリが、それぞれ祖国が異なる三人の旧友の消息を訪ね歩き、彼女らの人生を辿る物語。

    異国の地での一筋縄ではいかない再会。
    離れていた時間を瞬く間にうめるような時間。

    彼女らの選んだ、選ばざるを得なかった人生が、中東欧の激動の歴史と共に綴られていく。
    米原さんの大切な思い出と、友への言葉、心にしまい込んだ思いが何度も心に響く。

    社会情勢に左右され、ふりまわされる人生、友のあの時の言葉の裏の真実には衝撃と共に胸が痛む

    自分がもしその地で生活していたとしてもその年齢でそこまでしっかりとした考えで生きていけただろうかと考えずにはいられない。

    この作品を手にしなければ永遠に知り得なかったこと、知ろうともしなかったことがあふれていた。

    付箋だらけになったこの作品、読んで良かった。心からそう思えた作品。

    • くるたんさん
      kanegoneさん♪

      ありがとうございます♪

      ゆっくり観てみます✧*。(ˊᗜˋ*)✧*。
      kanegoneさん♪

      ありがとうございます♪

      ゆっくり観てみます✧*。(ˊᗜˋ*)✧*。
      2019/04/05
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著者プロフィール

1950年東京生まれ。作家。在プラハ・ソビエト学校で学ぶ。東京外国語大学卒、東京大学大学院露語露文学専攻修士課程修了。ロシア語会議通訳、ロシア語通訳協会会長として活躍。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)ほか著書多数。2006年5月、逝去。

「2016年 『米原万里ベストエッセイII』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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