シリーズ江戸学 江戸に学ぶ「おとな」の粋 (角川ソフィア文庫 I 11-5 シリーズ江戸学)

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  • 角川学芸出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044063030

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    神崎宣武
    1944生。民俗学者。旅の文化研究所所長、岡山県宇佐八幡神社宮司。著書に『「まつり」の食文化』角川選書、『酒の日本文化』『しきたりの日本文化』角川ソフィア文庫、『江戸の旅文化』岩波新書、『神さま、仏さま、ご先祖さま』小学館など多数。



    しかし、江戸の紀行文を総じてみると、案外と和歌が少ない。江戸時代に、その分野ですでに和歌の後退現象が生じている。というか、和歌が古典として格上げされたのである。  かわって 流行るのが俳句である。なかでも、芭蕉は、のちに俳聖といわれるほどに俳句を広く知らしめた。その芭蕉の俳句も、大半が旅先で詠まれたものである。

    「赤富士」や「浪裏」で知られる浮世絵師 葛飾北斎 は、自己の画技完成をなお探究した。『 富嶽 百景』にいう。

    川柳では、世情を憂い、世情を皮肉る。紀行文では、いうなれば、「あるく・みる・きく」、そして考える。随筆では、自分と自分をとりまく生活環境のあれこれを私感をもって綴る。いずれも、あらためて「自分さがし」をするのであり、「自分史」をまとめる作業となるだろう。

     私は、海外のフィールドワークにもよく出かけるので、成田空港を利用する機会が多い。飛び立つまでの暇な時間、もっぱらそこでの人間ウオッチングを楽しむようになった。いま、もっとも元気なのは熟年女性であり、もっとも覇気のないのが熟年男性であろう。熟年女性の場合、一人旅とおぼしき人も目立つ。さっそうとしている。グループ旅行とおぼしきは、華やいでいる。対して、熟年男性はというと、多くは出張か家族旅行。男の目からみても「 恰好 いい」という人をあまりみかけないのはなぜなのだろうか。

    旅は、ハレの行動様式には相違ないが、そのハレのなかにまたハレ的な行為とケ的な行為がある。そのメリハリは、当然のことである。が、現代の旅行では、とかくハレの連続を求めがちである。それは、交通の発達により旅行日程を短縮できるがゆえに、観光ポイントや宴会・パーティーなどをつめこむことになるからだ。また、多くの日本人が実際には時間的にも経済的にもさほどのゆとりがあるわけではなく、旅行に出た以上いっときに消費を重ねようとするからでもある。私の親しいアメリカ人女性は、日本人観先客を「多忙症」と評したほどだ。つまり、ハレの旅のなかで、たとえば読書とか音楽や美術鑑賞とか散歩や昼寝などのケ的な行為が十分にとりいれられていないわけだ。いきおい、その土地の風物や人情になじむまでには至らない。ただ、そこに足を運んだということにとどまりがちである。

    だが、旅のもうひとつの意義は、「世間を広げる」ことにある。ゆえに、「かわいい子には旅をさせろ」とか「旅は人生」といったのだ。  世間にはさまざまな人がおり、さまざまな暮らしがある。つまり、 分 さまざまということ。さまざまな土地や人びととの出会いによってあらためて自らの分を知る。それではじめて自らの再生をはかる、その転機にもなるだろう。そこではじめて旅は癒しの場となりうるのだ。

    「されば泊々土地、処の風俗によって、けしからぬ 塩梅 の違あるものなり。此等の事を 兼 而 心得 居 ねば、大に 了簡 違ふものなり。(中略) 実に 貴賤 共に旅行せぬ人ハ、 件 の 艱難 をしらずして、 唯 旅ハ楽、遊山の為にする様に心得居故、人情に 疎、人に対して 気随 多く、陰にて人に 笑 指さゝるゝこと多かるへし」

    重ねていうことになるが、「陰にて人に笑指さゝるゝこと」のない旅──それが大人の旅の第一条件である。そのうえで、ことさら気どらず、されど余裕をもってにんまりと世間を広くみる。大人の旅とは、粋な旅とは、そんなものではあるまいか、と思えるのである。

    もちろん、徒歩行の時代であるから日程が長期に及ぶ。現在、私たちの海外旅行における平均が七泊八日。その四倍にも五倍にもなる。であるから、毎日をハレ、ハレと連続することはできない。が、当時は「往きの精進 帰りの観音」といったように、目的を成就するまではつつましく旅するのが一般的であった。

    旅の目的地である伊勢に 逗留 中は、一転して豪勢な飲食となる。もちろん、これは、上州板鼻あたりを縄張りとしているなじみの御師のもてなしでもあったが、それにしても豪勢なものだ。

    あたりまえといえばあたりまえすぎることだが、近代以降、交通の発達や勤務形態などの変化のなかで、旅がせせこましくなった。時計(時間)に縛られ、ゆとりが失われてしまった。全体的に、現代の旅は、メリハリのない、いうなればハレハレ急行。何となくつまらないものになってしまったように思える。

    できるなら、スケジュールを細かく固定しないことだ。旅の楽しみのひとつは「出会い」。その出会いは、良き出会いは、日程がゆるやかでいかようにでも行動できる時間的余裕のなかにこそ生じるのである。

    ある共通の目的をもって親しい仲間同士で旅に出たとしても、その目的を果たしたあとの後半は、それぞれの興味や好奇心にそって別行動をとるのがよろしかろう。一緒に行動する楽しみと一人の楽しみ、それぞれの合理をつかいわけしたいものだ。連帯責任の強かった江戸時代でさえ、金井忠兵衛たち一行のように、共通の目的であった伊勢参宮をすませたあとは、個々のホンネの旅へと分散しているのである。タテマエとホンネの 対 の行動、そんな余裕をもててこその「江戸に学ぶ大人の旅」なのではあるまいか。

    江戸っ子、とくに 半纏、 股引 姿の職人たちは、「宵越しの銭は持たねえ」を信条とした、といわれる。金はなくてもせこせこしない。「金は天下のまわりもの」と、きっぷよくつかい、清貧思想を 標榜 していた。それを美学とした。

    落語には、じつにさまざまな「金」と「人」との関わりあいが登場する。  たとえば、『 文七元結』では、泣く泣く娘を吉原に売ってつくった大金を、身投げしようとしている人にあげてしまい、その金が戻ってくる段になっても、「一度懐から出た金は受けとれねえ」といって、けなげにも江戸っ子の意地をみせる。また、『水屋の富』の主人公は、 富籤 で千両当たるが、他人に盗まれはしないかと少しも気が休まらなくなる。ある日、ついに金を盗まれてしまうが、「ああ、これで心配ごとがなくなった」と胸をなでおろすのである。

     江戸っ子たちは、けっして浪費家だったのではない。副収入で上手に遊んでいたのである。それぞれの財布をはたいて好きに遊ぶ、そのかぎりにおいては誰に遠慮がいるものか。何よりも江戸という時代が、それを許容したのである。

    「女房をこわがるやつは金が出来」という川柳もある。遊びに誘われても女房の顔を思いだして断るような恐妻家は、さぞかし金がたまるだろう、という皮肉は、現代人にも相通じることではある。が、それを是とするか非とするかに時代の違いがある。

    そうした金銭に執着しないという伝統は、つい近年まで日本人のなかで受け継がれていたことでもある。もちろん、金銭の価値を認めたうえで、金銭的な問題をあらわにしたりこじらせることを恥としてきた。金銭的な苦労をしながらも、金銭に潔いことを美徳としてきたのだ。

    いいかえるならば、しつけは社会の 規範 づくりの一環にあり、個人の自由が優先する現代社会には無用の旧慣、というわけにもゆかないのである。

    かつて、しつけは、家庭ばかりでなく、地域社会でもきっちり行われていた。  たとえば、江戸時代。村落社会において、若者に対するしつけに重大な役目を果たしたのが年長の青年たちであった。その地域内での「若者 頭」、あるいは「若衆頭」、「若勢頭」。それが若年層をしつける役目を担っていたのである。

    隠居と 隠遁 とは違う。趣味 三昧 の生活であっても、ある部分で実社会とのつながりをもっていた。というか、それまでの人生の経験を存分にいかせる立場を得ることでもあった。なかには、隠居してのち、世に残る仕事を成した人もいる。

    よく知られるところでは、 伊能忠敬 である。彼は、一七歳で伊能家の養子となり、没落しかけた家業を再興し、名主として郷土の発展にも貢献した。そして、五〇歳で隠居。それから江戸に出て、天文学を学び、日本全土の測量を志したのである。七二歳までの一六年間で地球一周を超える行程を測量し、その全距離を自らの足で歩き通したというのだから、すごい。何を語らずとも、その後ろ姿が若者の指針になったに相違ない。

    江戸後期の出雲松江藩主であった松平治郷 は、五〇代で家督を譲り、以後は全国を食べ歩き、書画、和歌、茶道に親しむなど、優雅な隠居生活を送ったことで知られる。そのようすは、自著の『甲子夜話』に詳しい。ただ、着道楽や酒道楽にほど遠く、浪費はしなかった。未練がましく後継者に口を出すこともしなかった。だが、その存在感そのものが、藩をになう次代の若者を導いていたことは、その伝説のなかからも想像にかたくない。

     今日では、着物を着る機会が極端に減ってしまったが、着物こそ日本の気候風土にあった装いなのである。それについては、先にもふれたが、たとえば、着物の最大の特徴は、直線裁断のためからだにピッタリあわせることができず、着付けたときにもフワッと、どこかに無駄な隙間ができることである。そのうえ、 袖 付けの下、脇縫いの上の部分に 身 八ツ口 といわれるあきがあり、袖口も洋服に比べて広くとられている。つまり、通気がいいのである。だから、蒸し暑い日本の夏に適した装いといえる。夏にはとくに 浴衣 が重用された。浴衣は、江戸の町人社会で夏のくつろぎ着として広まったものである。浴衣を着て夕涼み、というのが夏の風情のひとつにもなっていた。

    香具師は行商人であり、その生活は旅にある。そして、かつての旅は、歩くことが前提であった。その場合、荷物は最小限にまとめるべきであった。荷運びのための馬や人夫を雇うことができる身分ならともかく、旅から旅へと巡り歩く小商人なら一般の旅人と同様に身軽であるにこしたことはない。そうでなくても、人間一人が運びうる荷物の量は知れている。しかし、行商人である以上、商品が要る。そうした場合の商品は、当然かぎられてくる。かさばらず重すぎず、保存がきいて、どこでも平均して売れる貴重品であることが条件となる。そのうえ、行く先々で資本をかけずに補給が可能なものでなくてはならない。そうなると、薬品類がもっとも有利な商品となるのである。何らかの漢方調製の法を知っている者が、その知識や技術を頼りに行商をして歩いたことに疑いをはさむ余地はない。

    つまり、リサイクルは、いまのような運動ではなく、生活システムの一部であったのだ。ゆえに、リサイクルに相当するような言葉さえなかった。みんながふつうにやつていることをあえて表現するためのとくべつな用語など、意味も必要もなかったのである。  私どもは、いわば先祖が築きあげた巧妙なリサイクル社会を戦後三〇年以上もかけて 叩きつぶし、簡便な使い捨て文化に切り替えようとしてきたのである。そのツケがいままわってきているのだ。現在、私どもが頭をかかえていることの多くは、ほんの三、四十年前まで残存していた「循環」の意識や制度を再構築すれば、解決できることもあるのでは、と思えるのである。

    ところで、死後、人びとはどのように葬られたのであろうか。  江戸時代の葬儀は、身分や経済力によって差があったが、その手順はほとんどかわらない。  文字どおり、夜を徹しての通夜を行い、翌日が葬儀。家の中で僧侶による読経がなされ、その後出棺となる。出棺後は、 門火、後火、送り火などといって、火を 焚く習俗が広くみられた。

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著者プロフィール

神崎 宣武(かんざき・のりたけ):1944年岡山県生まれ。民俗学者。武蔵野美術大学在学中より宮本常一の教えを受ける。長年にわたり国内外の民俗調査・研究に取り組むとともに、陶磁器や民具、食文化、旅文化、盛り場など幅広いテーマで執筆活動を行なっている。現在、旅の文化研究所所長。郷里で神主も務めている。主な著書に『大和屋物語 大阪ミナミの花街民俗史』『酒の日本文化』『しきたりの日本文化』『江戸の旅文化』『盛り場の民俗史』『台所用具は語る』などがある。

「2023年 『わんちゃ利兵衛の旅 テキヤ行商の世界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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