「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)
- KADOKAWA (2001年5月24日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044191092
作品紹介・あらすじ
なぜ永田洋子は獄中で"乙女ちっく"な絵を描いたのか、なぜ森恒夫の顔が「かわいい」とつぶやいた連合赤軍の女性兵士は殺されたのか。サブカルチャーと歴史が否応なく出会ってしまった70年代初頭、連合赤軍山岳ベースで起きた悲劇を『多重人格探偵サイコ』の作者が批評家としてのもう一つの顔で読みほどく。フェミニズムさえ黙殺した連合赤軍の女たちを大胆に論じ、上野千鶴子に衝撃を与えた画期的評論集に重信房子論、連合赤軍小説論を加え、増補版としてついに文庫化。
感想・レビュー・書評
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「連合赤軍とはなんだったのか」
この問いに病的にまで駆り立てられ関連書籍を読み漁っている。そして読めば読むほどわからなくなる。彼らは何を志向し、どこで何を間違え、何を社会に残したのか。
おそらく、僕を含めた社会変革を志向する現学生世代にとって連合赤軍の存在はどこかノイズ的なのではないだろうかと思う。上の世代の左翼活動への忌避感にこの事件は少なからず影響しているし、日本の学生運動が一度完全に死んだことにも直接的に影響している。
しかしこの本は、連合赤軍の矮小さを、その「左翼の言葉」で語られているようで何も語っていない彼らの言葉を、正面から受け止める。
僕は初めて、森が、永田が、顔の見える、教室で隣に座っている学生だと認識できた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
山岳ベース事件やオウム真理教は、先の戦争のように、多くの日本人から失語され、事実上無かったことにされてきました。それら空白の歴史について、仔細に語っているのがこの本です。平成生まれの私からすると、なんだか歴史の教科書を読んでるような…もちろんこれが正史であるとまでは言いませんが、ひとつの解釈として、多くの人に読まれるべき本であると思います。おすすめです。
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(01)
主に90年代に著された評論で,連合赤軍の一連の革命まがい(*02)が起こされた社会と少女まんがや戦後文学などのサブカルチャーとの連関を論じている.
連合赤軍に限らず,男女平等に踏み込んだ新憲法24条や,漫画雑誌のふろく,女性ファッション誌,キティちゃんや出産本といった消費社会の現象,90年代のオウム真理教なども,女性性とサブカルチャーの近現代的な結合を通して横断的に批評している.
表現する内容と媒体を戦後の女性がどのように獲得していったか,その一部として描かれる永田洋子の姿は喜劇的でも悲劇的でもありうる.また,同じ連合赤軍の森恒夫の「ぼく」を代表する戦後男性の黒歴史も暴かれている.
戦後50年までの特異な半世紀の,民俗史の試みとしても読むことができる.
(*02)
山岳ベースとは革命の戦略においてどのような基地であったのだろうか.第1章に引かれた高沢皓司氏の記事を著者は批判的に取り上げている.山岳社会革命主義の文脈で連合赤軍を捉えなおす試みは無効であるのか,考えてみたいところではある. -
連合赤軍事件の犯人の一人である永田洋子が、マンガ風のイラストを描いていたことを知った著者が、消費社会の入口に立った女性の悲劇として彼女の内面を読み解いた本です。
新左翼の男性たちが、女性に対して支配的な振舞いをおこなっていたことは、これまでもしばしば批判されてきました。連合赤軍の中で坂口弘のような男性たちには、女性に対するそうした態度が認められます。その中で、森恒夫の「目が可愛い」と言った金子みちよだけが、1980年代以降に登場した、消費主体としての「私」を発見した女性たちと通底する感性を持っていたと著者は指摘しています。
さらに著者は、森と永田の存在に注目します。女性の生理時の出血への嫌悪を表明している森は、女性に「性的身体」を期待する坂口らとは違い、むしろ「性的身体」を持つ女性を忌避しようとしています。また永田は、「女性」である自己に対する戸惑いを見せています。この両者に、彼らより少し後の世代に見られる、少女マンガ的な「少女」と「おたく」との間の男女関係の雛形が見いだされるのではないかと著者は言います。有害コミック騒動においてフェミニズムの側から、いわゆるロリコンもののマンガは女性を侮辱していると糾弾しました。しかし、ロリコンマンガの読者は、現実の女性の「性的身体」に怖気づいて、自身の性欲を記号的な身体に向けていました。さらに永田のような女性自身が、記号的身体に近づくことを性的な成熟からの解放と錯認することになったことを、著者は指摘しています。
こうした困難を解きほぐすために著者は、戦後史を「歴史」として認識することを拒否する江藤淳と、「歴史」として認識する視点を欠いている丸谷才一の双方に対して異議申し立てをおこない、80年代のサブカルチャーの全盛に至るまでの「戦後」を、歴史として引き受ける必要があると主張します。
一方で著者は、こうした「歴史」を求める動きが、たとえば西尾幹二や藤岡正勝に代表されるような、「大きな物語」へと回収されてしまう危険性を孕んでいることへの警戒も怠っていません。そのことに関して著者は、サブカルチャー的な想像力をあくまでサブカルチャー的な物語の中にとどめようとした村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を評価しています。 -
2月5日、永田洋子が死刑執行を待たず66歳の誕生日の3日前に獄死しました。
奇特な方が開いておられる『永田洋子さんを取り巻く状況と彼女の近況』というブログを読むと、もう何年も前から寝たきりで脳萎縮がすすんでいたらしく、27歳のときに連合赤軍事件で逮捕されてから、およそ39年間余り拘束されていた人生もついに大団円を迎え、ようやく安らかな眠りについたというわけです。
吉永小百合やタモリと同じ1945年生まれということは、朝鮮戦争とベトナム戦争という2つの対岸の火事のような戦争と、東京オリンピックと大阪万博という無理して突貫工事の末に開いた見世物興行による特需によって、高度成長期というインチキな見せかけの好景気/経済発展/生活の豊かさに踊らされた世代ですから、のほほんと時代にもっと迎合していれば、何もそんなに悲惨な人生を送らなくても済んだものを。
ただ、死者に鞭打つようで申し訳ないようですが、おそらく安らかな眠りでいられるはずはありません。
あの世には、妙義山中でリンチによって殺害された12人が、手ぐすね引いて待っているからです。
尾崎充男(22歳)
進藤隆三郎(21歳)
小嶋和子(22歳)
加藤能敬(22歳)
遠藤美枝子(25歳)
行方正時(25歳)
寺岡恒一(24歳)
山崎順(21歳)
山本順一(28歳)
大槻節子(23歳)
金子みちよ(24歳)
山田孝(27歳)
という12人の、1971・72年当時まだ20歳代の暴行の末に殺された若者たちが、40年の歳月を待ち続けて怨念の彼方で待機しているのです。
あともう2人を忘れていました。リンチ事件より前に、脱走したメンバーを殺害するよう命令を出して殺していたことを。
早岐やす子(21歳)
向山茂徳(20歳)
2人とも首を絞められて殺されました。(敬称略)
社会のまちがいを正して、そのありかたの根本的な改革を願って実行に移すことが革命だったはずですが、どこでどう何を見失ったのか。
後に起こった坂本弁護士家族殺害や地下鉄サリン事件のオウム真理教の一連の虐殺行為とともに、革命志向と宗教至高という違いはありますが、知識習得だけが先行した未成熟な人間形成途上の若者たちが起こした殺戮というこの前代未聞の事件は、他人事ではけっしてなく、世人が考えるより以上に深い問題として、現代に生きる私たちの背中に重くのしかかる原罪として存在している気がします。
・・・と、ここまでは私のつたない愚考ですが。
この本は、この40年あまりの間に書かれた関連する書籍の中でも出色のもので、異才・大塚英志お得意のサブカルチャー論から援用した連合赤軍論というので、革命的でも一般良識的でも、ましてや警察権力的でもない,それはきわめて私たちの日常に卑近な女性性という問題の指摘でした。
永田洋子の最初の総括=制裁=粛清の矛先が、遠山美枝子さんのしていた指輪が革命戦士に相応しくないということだったこと。他にも髪を伸ばしていて、鏡を見ていて、化粧をしていた。
小嶋和子さんは恋人の加藤能敬さんとキスをするところを見られ、大槻節子さんは美人だったので髪を切られて殺され、金子みちよさんは妊娠8カ月で胎児とともに殺されました。
化粧をするとは革命戦士にあるまじき行為だ、と言われて反論も出来ずに殺されてしまうという似非革命行為。
当時のウーマンリブも、男女同権以上に女の権利主張を強く意識し、男と同じ格好をして働き、出産・子育て・育児もやってのけという無理難題をしょって立つ頑張りを自ら強要したのでしたが、考えてみれば、それは一方の男性の無理解から来るあらかじめの覚悟だった以上に押しつけでもあった、つまり社会全体の有無を言わせぬ強制だったといっても過言ではないと思います。
革命的でもなんでもないことを、ウーマンリヴの闘士も革命戦士も、そのよってたつ美意識(?)が革命的だと信じて殺し殺されたわけですが、その根源がなんと彼らが忌み嫌うただのブルジョワ社会の常識だったと種明かしされたら、さぞかし爆笑ものでしょうが、それ以上に殺された直接の理由が、永田洋子の革命とは何の縁もゆかりもない嫉妬心・猜疑心・劣等感・残虐性によってだと知ったらどうでしょうか。
普通、人が死んだらほとんどは安らかな永遠の眠りにつくのですが、永田洋子の場合はそうはいきません。阿鼻叫喚の中で永遠に悶え苦しんで、それこそ死んだ方がましだという境地で、これから何億万年も居続ける権利を与えられた極悪人なのですから。・・・・合掌。 -
連合赤軍の事件を知らない世代もはまって読める評論集。ただし「大塚節」なので、それが嫌いな人には読めないでしょう。
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1972年。連合赤軍のリーダー森恒夫のことを女性メンバーが評した「目がかわいい人」という一言。獄中の永田洋子が描いたイラストが乙女チックだったこと。山岳ベースで自壊していった彼らが対峙していたのは、実は来るべき消費社会、消費によって主体を確立しようとするまだ見ぬ新しい価値観だった。左翼言語で自己の総括を目指していた彼らの背景では、時代が変節の時を迎えようとし、自らの輪郭を求めていた女たちがまずそれに気づいたのだった、という視点で今日にいたるサブカル文化の発祥を読み解く。
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70年代に消費化社会に突入した「彼女」たちの話。
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僕はこの本のタイトルとなっている連合赤軍の女性メンバーの分析よりも、むしろ戦後史に対する大塚の態度にとても共感してしまった。
「たとえ「憲法」が「与えられた」(あるいは強制された)ものであったとしても、五十年の歴史を具体的に生きたのは日本人たちである。そこで達成されたもの、さらにはその過程で顕わになった困難さ、それら歴史的所産の主体は戦後社会を生きた日本人たちの責任である。安直な戦後民主主義批判や憲法押しつけろ論に戦後社会の諸問題を無批判に結びつけてしまう類の言説は、それこそ「歴史」に対する責任の放棄に他ならない」(p152〜153)
「日本国憲法および戦後民主主義への評価は、それがいかなる政治的起源をもって始まったかの立証によって終結するわけではない。それは出発点にすぎず、その後、私たちはそれをいかに生きたかこそが検証されるべきである」(p171)
「戦後民主主義」のみならず、歴史的視点を欠いた現状分析は、空虚なものになってしまうような気がする。その意味で、日本の戦後はいかなる「過程」を経たものだったのか、という分析の必要性を説くこの文章に、僕は大きくうなずいてしまうのであった。