初心者のための「文学」 (角川文庫 お 39-14)
- 角川グループパブリッシング (2008年7月25日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (327ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044191245
感想・レビュー・書評
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初心者向けの本なのに
文学の解説よりも自分の政治的主張が濃すぎる詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
中学、高校生の自分に渡したい本だった
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そもそも「文学」とは何かがあいまいである。
なんとなく普遍的なテーマ(自分とは何か,大人になるということは何か,社会とは何か等)を内包した小説であるという印象。
それぞれの章で紹介している読み方は非常に面白かった。読んだことある小説も幾つかあり,「なるほどーそういう風に具体的な描写から問題へ抽象化するのか」と唸らされた。
常に抽象的な意味を意識してしまうのも小説の読み方としては違う気もするし,とはいえ,事実や描写のみの理解で終わってしまうのも勿体無い気もする。
うまい小説というのは読んでいる時は夢中でストーリーや描写に没頭し,そこにある抽象的な意味は意識されないけど,後で振り返ったり物語の意味を考えたときに作者が用意したテーマ,抽象的な問題意識が読者に伝わってくるようなものなきがする。
この本を読むことで,小説を読む際に新たな視点(というか批評の分野ではお決まりの型なのかもしれない)を加えられるようになるとはいえると思う。 -
三島とか太宰に対して自分で上手く言葉に出来なかったモヤモヤしてたものを、言葉にしてもらった感じ。その他にも、自分になかった視点が分かりやすく書かれていて、勉強になった。いつか子どもにも勧めたい1冊。
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小説をどうやって読み解くか、戦中から戦後にかけての「私」に関する視点を軸に読みつつ解説を行った本。著者自身が何を考え「サイコ」を書いたのかについても言及されている。
そんな事を書いた本があったのか、そんな読み方があるのかと、大きな驚きを味わえる。
http://tenro-in.com/articles/team/22115
にて紹介されていた。 -
そもそも、最初から「文学」はサブカルチャー文学=キャラクター小説であったのに、それを無理やり峻別したところに文学の「サブカルチャー化」という考え方が成立する余地があったのではないか(348頁)
大塚英志という名を知ったのは中学生の頃だった。
同年代のまわりには誰も読者がいなかった『多重人格探偵サイコ』(角川書店)が、その名を知るきっかけだったと思う。
そもそもなぜ『サイコ』を購読するようになったのか?
マンガの少々グロテスクな装丁がカッコよかったからだ。
現在は15巻まで既刊だが、その全てに脳漿と眼球がデザインされており、「グロテスクだけれどなんだかカッコいい」という感じが中二魂を刺激しまくって、新刊が出る度に買うようになった。
もう10年以上経つ。
大塚英志の認識の仕方もだいぶ変わってきた。
まんが原作者以外の面の大塚にも触れるようになってきたからだ。
大塚は民俗学、物語論、サブカルチャーとオタクなどに関する著作も多数出版していて、そこで展開される論はどれも興味深く読むことが出来る。
今回取り上げるのは『キャラクター小説の作り方』(角川文庫)。
大学で教鞭をとっているということもあって、このような「小説の作り方」に関する本は他にも多数出ている(『物語の体操』(朝日文庫)、『キャラクターメーカー 6つの理論とワークショップで学ぶ「作り方」』『ストーリーメーカー 創作のための物語論』『物語の命題 6つのテーマで作るストーリー講座』(いずれもアスキー新書)等等)。
大塚がこの手の本で繰り返し言及するのは、近代文学と「私小説」との関係についてである。
本書でも、『物語の体操』でも、あるいは創作のための本ではないが『初心者のための「文学」』(角川文庫)でも、そのことについて幾度か述べている。
日本の「文学」が「私小説」という伝統の上に成立していることによって、「小説家」であることと「私」であることを重ねる傾向があるけれど、それは一旦置いておく。
文学において語られる、あるいは語るべき「私」というものは実は無いのだ、ということを言っている。
そして、この本で一番面白いと思ったのが、その「文学」はそもそもが「キャラクター小説」であったという主張だ。
冒頭に引用した文と同様の意味で、「はじめに」の部分では
ジュニア小説こそが日本の「文学」の起源の時からずっとあった小説の形式なのです(10頁)
と記している。
ここで言われるキャラクター小説・ジュニア小説とは、「若い読者向けに月に何十点も様々な出版社から刊行されるゲームやコミックを内容的には連想させる小説」と定義されている。
具体的には、カバーにまんが家やアニメーターのアニメ絵を装丁したスニーカー文庫、電撃文庫、富士見ファンタジア文庫、コバルト文庫などである。
さらに大塚は「自然主義文学」を、「架空の人物を書くにしても現実の人間の肉体や考え方を基準にしてその肉体や考え方を描いていく」として、現実を「写生」しようとした小説のあり方だとする。
それに比して、上記のスニーカー文庫のような「キャラクター小説」が「キャラクター」をその装丁に全面的におしだしているいるのは、
アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」する小説(20頁)
であるからだと述べている。
さて、物語の「創作」に関しての大塚の視点にも特徴があるので、それも取り上げなければならないだろう。
大塚は民俗学を学んでいたという背景もあり、卒業論文は「都市伝説」についてだったということを述べている(都市伝説をメインに据えたマンガ『とでんか』(角川書店)の原作もしている。)
民俗学を学んだ際に、日本各地の民話、あるいは世界各国の神話などに触れ、さらには学生時代に「物語の構造」を分析すること自体がある種流行っていたこともあり、大塚はストーリーにはパターンがあるということを一貫して言っている。
つまり、「物語の文法」が存在すると言っている。
上述した日本文学と私小説との問題にも関係してくるが、大塚は小説を書くことが出来る作家を「特別な存在」とは決して思わない。
物語には文法があるのだから、それをある程度学ぶことが出来れば、誰でもそれなりのものを作ることが出来るというようなことを記している。
この視点はとても新鮮だった。
本書ではこのような見方に基づいて、「物語の文法」を意識したストーリー制作に関する参考書を色々列挙しながら解説しているのである。
そこで問題になってくるのはやはり「オリジナリティ」という問題だ。
全ての物語が文法構造に還元出来るならば、誰でも物語を簡単に作ることが出来て、さらに「オリジナルな作品」という存在が危うくなってしまう。
この本では、「スニーカー文庫のような小説」というジャンルでのストーリー創作を前提としている。
その上で言えば、「スニーカー文庫のような小説」以外の分野の小説、映画、あるいは昔のマンガなど(本文では八〇年代以前のマンガ、ラブコメなどを例にして解説している)から「パターン」を抜き出し、自分専用の「パターン」のリストを作ることが出来たなら、それは「個性」とか「オリジナリティ」ということになる。
要は、色々な物語から「パターン」を抽出して、それを自分流に組み合わせて編集して新たなストーリーを作り上げるということだ。
大塚も実際に自身が原作であるマンガの元ネタを惜しげも無くぶっちゃけて解説している。
大塚原作マンガを読んだことのある人なら、そのことが書かれている時点で読む価値がある文章だろう。
しかし、こんなことも言っている
パターンやデータベースに決して還元し得ない個性やオリジナリティというものが、まんがにも小説にもアニメにもゲームにも全ての表現にやはりあるはずです(83頁)
そりゃそうだ。そうでなければ、パターンさえ学べば、誰でも売れてしまう。
そういった「パターンの組み合わせ、データベースからのサンプリングでは決して至り得ない領域」に至る作品への尊敬の念をきちんと示すところに個人的には好感をもてる。
このような大塚の「物語」への姿勢は(自身でも書いていたが文学関係者からいくつかの反発があったらしいが)、大塚自身がやはり「日本文学とは何か」あるいは「日本文学の今後」という問題に真摯に向き合っていることに起因するものだと思う。
発端はそのようなある意味で言えば重いものであるのだけれど、それをあくまでサブカルチャーという枠のなかで軽いものとしての物語である「スニーカー文庫のような小説」の方法論としてトランスレートするというのが大塚らしいところだと言えるだろう。
「文学」が、「私」という存在がその起源において「キャラクター」であったことに無自覚な小説として今、あり得るのなら、キャラクター小説は「私」が「キャラクター」としてあることを自覚することで、いっそ「文学」になってしまいなさい(279頁) -
09050
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世の中にはすぐれた小説がたくさんあるが、
その中の「私」に安易にコミットすることは、危うい。
「私」はどのようにして周囲の環境「社会」と繋がるのか、
そういったことを通じて、私たちは社会とどのように繋がっていけばいいのか。
そういうことを考えろといっているような気がする。 -
文学の取扱説明書です。
“私”とは何か、文学の役目とは、文学が書かれた時代についてのあれこれです。 -
文学批評なのに著者の自己顕示欲がウザい。