武田氏滅亡 (角川選書 580)

著者 :
  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (752ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784047035881

作品紹介・あらすじ

武田信玄の後継者である勝頼は、天正十年(1582)三月十一日、織田信長・徳川家康・北条氏政の侵攻を受けて滅亡した。戦国の雄・武田氏はなぜ、亡国へと追い込まれていったのか。勝頼個人の「暗愚」な資質に原因を求める見方は、はたして正しいのか――。武田・北条・上杉による甲相越三国和睦構想、上杉謙信没後の後継者をめぐる御館の乱、徳川家康との高天神城攻防戦という長篠敗戦後の転換点を主軸に、史料博捜と最新研究から、詳述されてこなかった勝頼の成果と蹉跌を徹底検証。戦国史研究に新たなる足跡を刻む決定版!

序 章 諏方勝頼から武田勝頼へ
第一章 長篠合戦への道
第二章 織田・徳川の攻勢と武田勝頼
第三章 甲相越三国和睦構想と甲相同盟
第四章 御館の乱と武田勝頼
第五章 甲相同盟の決裂と武田勝頼
第六章 苦悩する武田勝頼
第七章 武田勝頼と北条氏政の死闘
第八章 斜 陽
第九章 武田氏滅亡
第十章 勝者のふるまい
終 章 残 響

感想・レビュー・書評

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  • 武田信玄の後継者である勝頼は、天正十年三月十一日、織田・徳川・北条の侵攻を受けて滅亡した。戦国の雄・武田氏はなぜ、亡国へと追い込まれたのか。勝頼個人の「暗愚」な資質に原因を求める見方は正しいのか。甲相越三国和睦構想、御館の乱、高天神城攻防戦という長篠敗戦後の転換点を主軸に、史料博捜と最新研究から、詳述されてこなかった勝頼の成果と蹉跌を徹底検証。戦国史研究に新たなる足跡を刻む決定版。(2016年刊)
    ・序  章 諏方勝頼から武田勝頼へ
    ・第一章 長篠合戦への道
    ・第二章 織田・徳川の攻勢と武田勝頼
    ・第三章 甲相越三国和睦構想と甲相同盟
    ・第四章 御館の乱と武田勝頼
    ・第五章 甲相同盟の決裂と武田勝頼
    ・第六章 苦悩する武田勝頼
    ・第七章 武田勝頼と北条氏政の死闘
    ・第八章 斜陽
    ・第九章 武田氏滅亡
    ・第十章 勝者のふるまい
    ・終  章 残響

    戦国史研究の未踏峰を拓く大著。希代の英雄か、暗愚な後継者か。新たなる勝頼像と大国攻防の真相に迫る決定版。

    p751の大著にもかかわらず、読了できたのは、本書が読みやすく、興味深い内容であったためであるが、思いの外、読むのに時間がかかったのは、大国の滅亡という憂鬱な内容であることによる。
    帯には、稀代の英雄か、暗愚な後継者かとあるが、読了後の印象を言うと、どちらでもあるし、どちらでもないという感じを受けた。
    本書を読むと、単純な愚将論が当てはまらないことがわかるが、かといって英雄かというと、にわかに首肯出来ない。確かなのは、勝頼も時代の子であり、与えられた環境の中で、最善を尽くそうとしたが、武運つたなく破れたということであろう。
    平山先生は、史料を丹念に検証することにより、従来、愚かな選択をしたとされてきた、勝頼の行動にも合理的な理由があったことを論じているが、結果的に、間違った選択を続け、政策の自由度を失い選択の幅を狭め詰んでしまった感じがする。ジリ貧とはこういうことであろうか。(ただし、勝頼が常にベストな選択を繰り返したとしても、滅亡を避け得たであるかは疑問)

    本書は、今後、同時代を論じる上で、欠くことの出来ない1冊であり、お勧めである。

  •  「戦国史研究の未踏峰を拓く大著!」「新たなる勝頼像と大国滅亡の真相に迫る決定版」――本書はこうした帯の文句に偽りないものだった。膨大な数の資料を参照し、全精力を傾けて執筆された本書は、読む者を圧倒しつつ、当時の世界に引きずり込むかのような迫力あるものだった。著者の平山氏は、本書執筆後、一種の「燃え尽き症候群」に陥り、なかなか復活できなかったそうだ。
     本書を手に取ったのは、仕事が忙しいこともあり、「勉強のために」などといった難しい話を抜きにして、私の趣味ともいえる戦国時代物でかねてより関心があった本書を読んでみたいと思ったからだ。しかし、読書の時間が確保できないうえ、752ページにも及ぶ労作を読みとおすには大変な時間がかかってしまった。
     本書は、そのタイトルどおり、武田信玄の後継者である武田勝頼について、家督継承から長篠合戦での敗北を経てその滅亡までの過程を分析し、なぜ武田氏が滅亡に追い込まれたのかを解き明かそうとしたものだ。これまで、武田氏は勝頼の暗愚ゆえに滅亡したという見方がしばしばされてきたが、著者はこうした見解を採らない。
     「あとがき」において長大な労作の内容が整理され、著者の考えが披瀝されているので、少し長くなるがこれを引用する。
    「しかしながら、本書を書き終えて感じることは、武田氏がなぜ滅亡したかという回答の提示は実に困難ということだ。武田氏は、長篠敗戦後も必死に立て直しを行い、御館の乱終結直後は、武田信玄時代よりも広大な領国を誇るに至った。とりわけ北条氏は、勝頼による北条包囲網に苦しみ、関東の領国を侵食され、悲鳴をあげていた。
     天正十年の織田軍侵攻が始まった当時、北条氏政は勝頼が滅亡するとはまったく思っておらず、天正十年一月から二月の戦局を誤報だと信じて疑わなかった。織田信長もまた、勝頼はどこかで乾坤一擲の決戦を挑んで来るに違いないと信じ、息子信忠では荷が重いと焦慮していた。信長もまた、勝頼があっけなく滅亡するとは思っていなかったのだ。
     では武田氏はなぜ滅亡したのか。私は、勝頼が長篠敗戦後、どのような動きをしていたかを詳細に探ることで、彼の成果と蹉跌を見極めようと考えた。その結果、勝頼には幾つかの転機があったと思う。それは大きく甲相越三国和睦構想、御館の乱、高天神城攻防戦での対応であろう。それらへの対応が、勝頼の生き残りの可能性を狭めていったといえるだろう。
     だが勝頼の対応や判断は、流動的であり、かつ多様さが縺れあう当時の情勢に規定されており、彼だけの問題ではなかった。上杉、北条、徳川、織田、毛利、本願寺などの大名や中小国衆、足利義昭らの思惑に規定され、勝頼自身が予想もしなかった展開をもたらしたこともあった。そうした意味で、滅亡の要因を勝頼の個人的資質にすべて押し込めて説明することは出来ないことだけは、はっきりしたであろう。調査、分析を行う過程で私が感じたことは、信長がいみじくも勝頼の首に語りかけたように、彼には『運がなかった』ということである。」(「あとがき」、p.748-749)
     それでは、ここで述べられている武田勝頼の「転機」における「対応」とはどのようなものであったか。
     ⑴まず、天正三年から四年にかけて、武田勝頼・上杉謙信・北条氏政による、織田信長を追い詰め、戦国史を左右する大きな可能性を秘めた甲相越三国和睦構想の気運が高まった。しかし、紆余曲折を経て、最終的には謙信がそれまで味方であった北関東の諸大名を見捨てることができなかったため、この構想は不首尾に終わってしまった。こうして、謙信、勝頼ともに信長打倒、西国への領土拡大の絶好の機会が訪れながら、これをみすみす逃してしまった。さらに、このときの謙信の決断は、その後の勝頼の命運をも左右することとなった。
     ⑵上杉謙信の後継者争いである御館の乱においては、武田勝頼は当初、同盟関係にある北条氏が支持する上杉景虎を支援するため、越後へ出兵した。それにもかかわらず、景虎に敵対する上杉景勝からの要請に応じる形でこれと和睦し、その後は景虎・景勝間の和睦調停に努めた。しかし、この両者の争いは終わらず、最終的には勝頼も調停を諦め、景勝が景虎を滅ぼす事態となった。このときの対応について、武田氏滅亡の日、主君勝頼に忠臣の土屋昌恒は落涙しながら諫言した際、次のように述べている。
    「もはや胸臆を包み隠さず申し上げれば、先年御館の乱で景勝と景虎が争った時、景虎に対し不義の行動をとったが故に、武田氏は天下に悪名を乗せ、諸人の嘲笑を買った。甲相同盟が破綻し、それまでの重縁が切れて怨敵となり、その結果が今の状況だ。小山田をはじめ、多くの恩顧の人々が武田家を見放したのも、ここから始まっている。敵は余所にはいないものだ。」(第九章、p.670-671)
     ⑶高天神城攻防戦においては、武田方将兵は籠城すること三年に及び、武田勝頼からの後詰を受けられないまま徳川軍の重囲に陥って完全に進退窮まることとなり、兵粮が尽きて多くの餓死者を出すとともに、生き残った者も最後は討って出て壮烈な戦死を遂げた。当時の人々は、この出来事について、武田氏が忠誠を尽くして籠城した者たちを救援することなく見殺しにし、惨めで無残な死に方をさせてしまったと認識した。このため、勝頼の求心力と威信は完全に失墜し、もはや取り返しのつかぬ事態となってしまった。もっとも、これは勝頼が後詰に出てこられないことを見越した織田・徳川方が、その後に控える勝頼討伐を容易にすべく、その政治的威信の失墜を目論み、高天神城からの降伏の申し出を拒絶することで演出したものだった。当時、武田氏は織田信長と和睦交渉中で、これに一縷の望みをかけていたため、織田・徳川方に攻勢に出ることができなかった。高天神城救援に出陣しようとする勝頼は、家中の反対に遭って押しとどめられた。しかし、この和睦交渉は信長にとっては最初から締結する意思のない、時間稼ぎのための策略であった可能性が高いという。
     さて、これらの武田勝頼の「転機」における「対応」を見ていると、⑴は別として、⑵及び⑶は武田氏が当時の人々からの信頼を大いに失うこととなった事件である。これら以外にも、度重なる戦いのために勝頼が推進した課税強化や新府築城の動員に、領民は不満を抱いた。甲府から新府への移転については、勝頼と武田一族、重臣、そして領民との分裂を決定的にしてしまった。武田氏滅亡は、武田氏が強大な敵を前にして単純になす術もなく滅亡したのではなく、そのあっけない滅亡の理由の一つには、武田氏から人心が離れてしまっていたという背景があることが見えてくる。
     織田信長は武田勝頼の首を蹴り飛ばしたなどと伝えられているが、実はそうではなく、勝頼の首を前にして、同情を込めて「ご武運がお尽きになったことよ」と述べたという。勝頼は優れた武将であったが、運が尽きたというのだ。確かに勝頼はその最期、味方のほとんどが逃げだし、または織田方に裏切り、数十人で逃避行を行うこととなったが、その逃避行も最後の味方と頼んだはずの重臣小山田信茂の裏切りによってあっけなく終わりを迎え、滅亡したのだった。本国である甲斐国の地下人まで、勝頼の進路を阻み、襲いかかろうとした。長年盟友関係にあった北条氏にも攻めこまれた。
     運勢というものは、それまでの当人の行いに基づき、周囲の人々が支援するのか、または無視するのかなど、どのように行動するかによって左右されることがありうるものなのではないだろうか。もちろんそれだけで運勢のすべてが決まるわけではないだろうが、上記の「対応」などから勝頼が人望を失い「運が尽きた」のだとすると、とても残念に思われる。
     もっとも、武田勝頼について考えてみると、その与えられた条件の悪さばかりが目に付き、本当に気の毒に思われてくる。武田信玄遺言によりあくまで諏方氏からの中継ぎの当主とされて権力基盤が脆弱であったこと、信玄以来の重臣層との関係がしっくりいかず、よい側近にも恵まれなかったこと、そして信玄が織田・徳川と戦端を開き、蜂の巣を突いたような状況を作り出して死んだこと等々……。そうしたなかで、勝頼は長篠敗戦を経て、その後の悲惨な状態から武田氏の立て直しを行い、最大の版図を築きあげるに至った。やはり、織田信長や上杉謙信が高く評価したように、非凡な武将であったことは確かなのではないだろうか。
     しかし、それにしても、武田勝頼の悪い流れは、その最期まで、尋常でないほどに続くこととなる。織田信長による武田領侵攻に際して、勝頼は信長の朝廷工作によって「朝敵」「東夷」と指弾され、天下に仇なす悪逆人のレッテルを貼られた。このため、勝頼はもはや政治的に逃げ道を塞がれ、家臣たちを繋ぎ止める正当性をも喪失した。「朝敵」「東夷」と認定された勝頼を、多くの家臣、国衆、領民は支えることを躊躇したという。そして、天皇を主催者として畿内の有力寺社が信長の戦勝と「朝敵」「東夷」勝頼の打倒を祈願した成果が天正十年二月十四日夜に現れた(と多くの人々が信じた)。それは、いよいよ織田軍が信濃に侵入したそのときに起こった、浅間山の大噴火だった。当時、浅間山の噴火は東国の政変を告げるものとされていたが、ここに武田氏に加護を加える神仏は敗退したとみなされ、武田領内では城に籠城していた家臣が逃亡し、村々は勝頼を見捨て織田方に帰属しようと動いた。
     ところで、本書が描く“優れているが不運な武将”としての勝頼像には同意だが、織田信長の先見性を伴った行動、言い換えるなら尋常でないまでに将来をよく見通したうえで取られる行動には驚嘆した。上記⑶の「演出」を行った信長の見通しは、恐ろしいほど正確なものだった。このとき信長は、実際に高天神城で戦い犠牲を払うことになる徳川家康に、その心情に非常に配慮した形でこの「演出」の提案を行った。
     最後に、当時の北関東情勢に詳しいのも本書の特徴の一つだと思う。

  • 武田信玄から勝頼の時代の滅亡への流れがよくわかった

  • 武田勝頼を軸に甲斐武田氏滅亡に至る道程を、周辺諸勢力の動向も含め詳細に追う内容。700Pを超える情報量が生々しい戦国時代の現実を浮き彫りにしている。特に、天正十年一月以降最期までの動静を詳述する章は滅びるものの悲哀が詰まっている。

  • 長篠の戦い以後の武田氏について詳しくまとめてあり、決して滅亡一直線ではなかったことが分かり、感銘を受けました。

  • 勝頼が武田家を継いでから滅亡するまでの、さまざまな事件のお話。

  • 天正元年~10年に事件多過ぎ。信玄死亡。長篠の戦。謙信死亡。御館の乱。武田家滅亡。そして本書の後に勃発するが天正壬午の乱。

  • 勝頼が武田家を継いでから滅亡するまでの約9年間を資料に基づいて丁寧に著述している。平山さんの本はみんな好きだがその中でも群を抜いた名著。
    勝頼の失策として例えば長篠の戦いや御館の乱での動き、高天神城見殺しなどが挙げられると思うんだけど、その背景に勝頼のどのような思惑があったのかがわかる。遠交近攻の地理的な難しさもわかったし、滅亡の直前まで信長も北条氏政もあんなに呆気なく武田家が滅びるとは信じていなかったことも面白い。
    滅亡時にまともに戦ったのが高遠城だけで、勝頼は最期まで武田家の勝頼ではなく諏訪勝頼だったのか。

  • 戦略は細部に宿るね。信長の透徹した戦略は恐ろしいね。ビジョンと正義感ゆえだろうが。

  • 新田次郎の「武田勝頼」を読んで以来、勝頼が気になって仕方がなかった。
    長篠の戦いで暗愚な将と言うよりも、武田信玄でも陥せなかった高天神城を陥とし勇将というイメージを持っていた。
    しかし新府城や諏訪大社の造営等で過酷な役を課し、それ等により離叛を招いた点では、人心掌握に長けた武田信玄を超えられなかったという事なんだろう。もっとも側近もロクな奴しか残っていなかったのも事実。
    あれだけ強かった武田軍がこんなに脆かった事が信じられないね。

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著者プロフィール

平山優(ひらやまゆう)
一九六四年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹、山梨県立中央高等学校教諭を経て、健康科学大学特任教授。二〇一六年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」、二〇二三年放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を担当。著書に、『武田氏滅亡』『戦国大名と国衆』『徳川家康と武田信玄』(いずれも角川選書)、『戦国の忍び』(角川新書)、『天正壬午の乱 増補改訂版』(戎光祥出版)、『武田三代』(PHP新書)、『新説 家康と三方原合戦』(NHK出版新書)などがある。

「2023年 『徳川家康と武田勝頼』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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