態度が悪くてすみません: 内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21 A 49)

著者 :
  • KADOKAWA
3.50
  • (32)
  • (64)
  • (127)
  • (10)
  • (1)
本棚登録 : 635
感想 : 60
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784047100329

作品紹介・あらすじ

最も「態度の悪い」哲学者が贈る知のエクササイズ!!知的興奮のありかを探る。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ・「嘘」や「芝居の台詞」には「何か」が決定的に欠けている。
    身体が欠けているのだ。
    演技者は「台詞がよく聞き取れるように、きちんとアーティキュレートして語る」ことを求められる。私たちがふだんしゃべるとき、私たちのことばづかいに必ず随伴する「ためらい」も「前のめり」も「無意味な間」もそこにあってはならない。そのような夾雑物をすべて「削ぎ落とし」た、クリアーカットな発声を達成したのち、演技者は、その「台詞にふさわしい」動作や表情をこんどは「付け加えてゆく」。
    →小さい子どもの反応がわざとらしい時がある。ふさわしいと思われる態度を演技しているからかも知れない。発展というか、学習途上で夾雑物が生成されないのか。

    ・太宰治の最晩年のエッセイ『如是我聞 四』は新潮社の編集者を夕刻電報で呼び出して口述筆記させたものである。太宰は編集者の前で炬燵に入って、酒杯を含んだまま、「蚕が糸を吐く」ように、よどみなく最後まで口述したという。
    ところが1998年にこの口述筆記された『如是我聞 四』の「草稿」が発見された。それは発表原稿とほとんど一言一句変わらぬものであった。
    つまり、太宰はまず草稿を書き、それを暗記し、ついでそれを聴き手の前で暗誦してみせたのである。

    ・くわえタバコでネクタイを緩めたやくざな兄ちゃんが「いいから、適当に面白そうなのを選んで、ちゃちゃっと訳しちゃってよ」と汚いペーパーバックの束を私に投げてよこした。
    読んでみると、どうでもいいような動機の殺人があり、みえみえのトリックがあり、30分以内に犯人がつかまるというまことに無内容なミステリー短編集であった。最初は律儀に訳していたものの、そのうちに内容のあまりのつまらなさにうんざりして、ついに一大決心をするに至った。
    書き換えてしまうことにしたのである。

    ・例えば、日本製電気掃除機のマニュアルに「お餅が喉につかえた場合などにもご使用頂けます」というような記述があったとしよう(ないけど)。これをいま仮にフランス語に訳すことを明日までの急務とするベルナール君がいたとして、「お餅」というものの形状や性質について知るところがなかったという場合をご想定願いたい。辞書的語義はわかっても何のことかぜんぜんわからないというケースは技術翻訳においては少なくない。
    そういう場合は、静かに「餅のことは忘れる」というのも訳者の取りうる一つのオプションではないかと私は申し上げているのである。

    ・「タカハシ」さんと高橋源一郎を隔てる距離は、「テスト氏」とポール・ヴァレリーを隔てる距離より、「苦沙彌先生」と夏目漱石を隔てる距離より狭い。そして、この距離が狭いほど批評装置の性能は高く、響く「倍音」は深い。

    ・私たちにできるのは、この「どこまで信用してよいかわからない私自身の世界経験」」を慎重に腑分けして、そこから「信用できそうな要素」と「信用ならない要素」を識別し、「信用できそうな要素」だけに準拠して、「ほんとうの世界」について近似的に知ろうとすること、それだけである。
    「信用できそうな要素」というのは、「今ではないとき、ここではない場所、私ではない人間」の世界体験と共通するような要素のことである。

  • 内田先生の本は、古くなってもなお面白い。
    グッと来た箇所を少しだけ。

    人間の社会は、一人一人が「オーバーアチーブ」、つまり対価以上のことをしてしまうことによって成り立っている。(「『合理的な人』は結婚に向かない」)

    言語とは、意味であり、同時に身体であるようなプロセスである。(「言語と身体」)

    死者たちは正しく弔わなければならない。しかし、どのような服喪の儀礼が正しいのかについては誰も確言する権利を持たないし、持ってはならない。なぜならば、それは本来死者たちの判断に委ねるべきことだからであり、にもかかわらず死者は言葉を持たないからである。(「死者の無権利-靖国論争をめぐって」)

  • さまざまな雑誌などに寄稿された著者の論考・エッセイを収録している本です。

    著者のブログ記事をまとめた本とはちがい、字数制限のためか尻切れトンボの感のあるエッセイも多少見受けられるように思いますが、身近な話題から思いもかけない理路を通って見晴らしのきく場所へと読者を連れ出す著者らしい議論の運び方が随所に見られます。

    個人的には、橋本治の思想、とくに身体論、他者論、歴史論にかんしては、内田樹の思想を通して読み解くことではるかに理解しやすいものになるのではないかという見通しをもっており、「速度と祝福 God speed you―書評『蝶のゆくえ』橋本治著」の橋本治論は興味をもって読みました。「速度」というキーワードを提示するだけで終わってしまっているのは残念でしたが、一つの行間を一冊の分量にザバッと広げてしまったかのような橋本の批評の文章についても「速度」という観点から考えてはじめて見えてくることがあるのではないかという気がしています。

  • 内田先生のエッセー集。内容は多岐に渡り、統一性がないといえばない。でも面白い。

  • 態度が悪くてすみません

  • 内田流に言えば「何を読み取ることになるのかまだ分からないけれど、それは私がまだ知らない私についての知であることを、読み終えて感得した」ということでしょうか...。

  • 正直言って難しくて、よくわからなかった。
    エッセイや本の解説を寄せ集めたという書き方もあるだろうし、自身の教養不足もあるだろう。10書いてあるうち理解できたのは2,3だろう。

    ただ、それにも関わらず、この人は何か面白いことを言っている、理解したい、カッコいい。と思えるのは不思議である。

    これこそ、本書でも触れているメンターなのだろう。ナイアガラーならぬウチダーに自身もなりたいとそう思うのである。

    また、時期を開けて読み直してみたい。
    とりあえず、内田樹には並々ならぬものを感じる(論じられないが)というのが本書のまとめである。(本書は内田樹入門書ではないので内田樹にご興味ある方は別のやつからオススメしたい。)

  • 社会学、文学、心理学など多方面にわたる身近な問題を、筆者の見解を加えて綴られたエッセイ集。
    大学教授をされているという職業柄、実際に学生と触れ合われているようで、そうしたジェネレーションギャップに関するエピソードも面白い。
    なかでも『待つことの功徳』は、興味深い。携帯電話のせいで失われつつある「待つ」ことを美風とまで言い高めた筆者の視点は共感しないでもない。
    古(いにしえ)の人々が「待つ」という行為をどのようにとらえていたか、百人一首からの引用も味わい深い。

  • 態度が悪くてすみません

    内田樹15作目(?)
    相変わらずの内田本を読むと何か安心する。高校時代尊敬していた英語の教師の言葉であるが「初心者と玄人は気を付けるところが同じ、どちらも基礎を気を付ける」という言葉を、内田樹の文章を読むと思い出す。衒学的な本ばかり読んでいると忘れてしまうような、基礎的なことが繰り返されているこの本は、構造主義の話が多めだったが、十分に楽しめる。
    この本でも、本が読むという話があるが、まさしく大学生にならんとするときに手に取った「寝ながら学べる構造主義」が、僕を内田本の読める主体に変形させ、師とは、学びとはどういうことなのかを教えてくれた。
    この本はと言えば、排毒というストーリー、秩序の話、などなど、構造主義が基盤になった話が多い。今・ここ・私を自明としないという一貫した姿勢があり、書評集にもそのような批評の仕方がされている。自然でもなんでも、自分ではどうにもならないものを想定する謙虚さが、この思想の根幹にあることがわかる。翻訳の話も面白い。

  •  内田氏の本もだいぶ増え、本書で10冊目となった。今回のもブログ等からの記事の抜粋集とのこと。だいぶ氏の思想、思考がトレースできるようになってきた気がする(言い回しに慣れただけかもしれないが)。

全60件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

内田樹の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×