名と恥の文化 (講談社現代新書 261)

著者 :
  • 講談社
4.00
  • (1)
  • (0)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 10
感想 : 3
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (186ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061156616

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「名」言い換えれば「名声」「実名」を重んじるのは儒教的思想。「名実」という単語があることからも分かるように、名と実は表裏一体、との考えがある。ただしどちらが先であり、どちらを重んじるか、というところでいろいろな思想が生まれてくる。
    儒教も当初は「名誉」であり「悪名」「虚名」「売名」は含まれなかったのだが、近世になるに従い「名を上げるためには偽善でもよい」とみなす意見も見られるようになった。
    他方、老荘思想では「無名」を重んじ「名声」は否定される、なぜなら名声を重んじると他人本位になり、また競争心を煽って争いを生じさせるからだ。
    儒教思想の名声追及のアクセルに対して、この老荘思想はブレーキの役割を果たし、例えば孟子の直後の時代を過ごした荀子は老荘思想の影響を受けて虚名を憎む著述をしている。
    では中国ではなぜ「名」を重んじる思想が進んだのかというと、無神論寄りの汎神論思想が主であること、来世の観念が希薄であることが挙げられる。つまり、神もなく来世もないので、人の幸福を何に求めるかといえば現世利益に至る、そしてその人が存在したことを後世に残すために「名」を残すことを重んじる。
    ここで、中国での「名誉」と呼ぶものは、その実が「顔」「面目」「面子」に相当しており、西洋的な「名誉(オナー)」とは異なっていることを指摘している。オナーは「封建的名誉」であり、君主への忠誠という「徳」に基づいており、これは日本の「武士道」もほぼ類似の概念である。中国での名誉がオナーと異なるのは、中国での国家制度が秦代に封建制から郡県制(ウェーバーが言うところの「家産制」)へと移行したためだ、とする。郡県制への移行により、官吏が天下を統治し、士大夫が世襲でなくなり、また文官と武官とが分離されて文官優位の原則が成立した。そしてウェーバー曰く「封建制が名誉を基礎としたように、家産制は恭順を基礎とした」。官吏は天子への忠誠と服従のみが要求され、自律的名誉心よりも恭順が重んじられるようになった。このため、名誉の原則が儒教的「孝弟」の道徳に基づくように変化した。
    秦代以降に封建制度は全く忘れさられてしまう。そして中国文化は秦代を区切りとして成立したとも言える。よって、現代においても中国での名誉は「面子」になっている、とのことである。

    タイトルのもう一方である「恥」なのだが、これは「名」の裏にあたる概念になる。今となっては古くなった感のある大ベストセラーであったルース・ベネディクト「菊と刀」がこの本ではよく取り上げられているのだけど、「菊と刀」では世界文化を「罪の文化」と「恥の文化」に分けている。罪の文化は「内面的な罪の自覚に基づいて善行をなす」、恥の文化は「外面的強制力に基づいて善行を行う」としている。規範意識の違いですね。そしてベネディクトは、日本人の性格を解くために日本を「恥の文化」に属するとして話を展開していくのだが、中国が「恥の文化」の本家本元であることをこの本では説明している、なぜなら「名」の思想の影響が強い社会では、その対立概念となる恥の感覚もそれだけ強いはずだからだ。
    ところで「孔子」為政篇には次の項目がある。
     子曰「道之以政、斉之以刑、民免而無恥。道之以徳、斉之以礼、有恥且格」。(これを道びくに政をもってし、これを斉(ととの)うるに刑をもってすれば、民免れて恥なし。これを道びくに徳をもってし、これを斉(ととの)うるに礼をもってすれば、恥あり且つ格(ただ)し。)
    ここでは、恥という「内面的な力」によって人を悪から善へと導く、との視点がある。つまり、孔子であれば「罪は外的強制力に対する恐怖意識、恥は内面的道徳意識の現れ」となり、ベネディクトと全く逆になる。これはなぜか。
    まず、ある意識が内面的か外面的か、というのは客観事実ではなく心理的問題であり、つまりは「なじみ」があるかないかである、と指摘する。よって、経験や学習により、なじんで内面的された恥の意識というものも存在する。では、恥と罪の本質的な違いとは何か。
    上に挙げたように、中国での宗教観は無神論的に変化していった。論語で「罪」が用いられているのは「天」に関連する場合のみとなっているのだが、時代が下がるにつれて、「罪」が天によるものから、天の代行者たる君主が設定した法を犯すこと、へと変化した。このため、罪から宗教的意識が消え去り、道徳意識としての資格さえ失っていったため、恥にその道徳意識の座を譲ることになった、とのことだ。一方、欧米では、未だにキリスト教伝統がやはり根強いため、罪の意識が道徳の規範となっている。
    それ以前にキリスト教では、人間は原罪を負っており、罪から解放されるには神に頼るしかない、との意識がある。そして罪は神に対するものであった。一方、儒教では神はなく、罪は対人的なものとなるため、やはり道徳基準にはなりえない。
    結局、中国で罪よりも恥の概念が優位なのは、有神論を持たなかったためである。行為の善悪は「世間の制裁」であり「道義による非難」により決定される。道義的非難に対する恐れは恥のことだ、とこの本は述べている。
    最後に、神の意識が薄れてきている世界では、日本や中国のような「恥の文化」へと変化するのではないか、として本を閉じている。ほぼ半世紀前に出版された本なのだが、いまの世界は「恥」が主になってきているだろうか。

  • ルース・ベネディクトは、日本人論の先駆的業績となった『菊と刀』の中で、西欧が「罪の文化」であるのに対して、日本は「恥の文化」であると規定しました。本書は、このベネディクトの洞察を引き継ぎながらも、日本における「恥の文化」が、中国における「名」の思想から強い影響を受けていることを解き明かしています。

    著者は、儒教や老荘思想を幅広くとりあげ、中国の伝統思想の中で「名」をめぐってどのような議論が形成されていたのかということを解説しています。とくに、「名」と「実」が一致するべきだという「名分」の思想や、中国と日本の「恥」をめぐる意識などが、ていねいに説明されています。

    また著者は、ベネディクトが「罪」と「恥」を峻別して、「罪」が内面的な自覚に基づくのに対して、「恥」は外面的強制力に基づいていると論じたことを批判して、ある意識が内面的であるか外面的であるかということは客観的な事実の問題ではなく心理的な問題だと述べています。もし「罪」が国家の刑罰の対象として強く意識され、個人にとってなじみのないものとして感じられるのであれば、外面的な強制力となります。反対に、世間に対する負い目の意識である「恥」も、心のうちに定着すれば内面的な道徳意識となります。そのうえで著者は、中国では早い時期に宗教的な意識が薄れてしまい、罪は天の罰に結びつくよりも、天罰の代行者である君主の刑罰に結びついたため、罪は法を犯すことにすぎず道徳意識としての資格をもたないと考えられるようになったことを論じています。

    ベネディクトの「罪」と「恥」の二分法そのものに対する批判はしばしば見ることはありましたが、本書はベネディクトの議論をひとまず受け入れたうえで、その思想的背景をさかのぼって論じており、興味深く読みました。

全3件中 1 - 3件を表示

著者プロフィール

1909年京都府に生まれる。京都大学文学部哲学科卒業。大阪大学名誉教授。文学博士。著書に『中国古代神話』(清水弘文堂書房)、『上古より漢代に至る性命観の展開』(創文社)、『「無」の思想』『「名」と「恥」の文化』『神なき時代』『老子・荘子』(ともに講談社)、『老荘と仏教』(法藏館、後に講談社学術文庫)、『中国思想史』(第三文明社)など、訳書に『荘子』(中央公論新社)、『墨子』(筑摩書房)などがある。1986年、逝去。

「2021年 『梁の武帝 仏教王朝の悲劇』 で使われていた紹介文から引用しています。」

森三樹三郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×