- Amazon.co.jp ・本 (182ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061156975
感想・レビュー・書評
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この本に、早く出会っていたら私の読書スタイルも変わっていたでしょう。
本書で、ケチはいけませんとあります。私は、本書で言うケチな人間でした。
4.本とどうつきあうか
の章にケチはいけないとあります。ケチとは、
・読み始めたら最後のページまで読み通さなければならぬ。
・本を読む以上どの頁も有意味であるはずと考えること
・一語一句をユックリと噛みしめて読まなければならないという態度
・買った本は絶対に手放さないという信念で生きている人
これらの考え方を持って本と接していることとあります。若かりし頃は、ほぼこれらケチな考え方で本に接していました。最近はそうでもないのですがね。
本との付き合い方は、大いに参考になりました。
清水幾太郎さんは、著書も多数あり、翻訳もされていますので、他の書籍も読んでみたいと思いました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
1970年代の読書論であり仕事論・人生論であるが、全く古びていない。読み手を楽しませようというサービス精神に満ちていて、読んでいてとても楽しい。テクニカルな面で参考になったのはメモの取り方と洋書の読み方。ただ、この本の魅力はそのような細部だけでなく、職業を持つこと、そして家庭の重要性を、これでもかとばかりに強調しているところ。本に読まれず、利己的に読み続けながら、自己の思索を深めていきたいものだ。今のままの自分ではなく、己れの理想の姿に少しでも近づき、立派に生きて、死んでいくために。
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素晴らしい本。
>思想というものを最後的にテストするのは、家庭という平凡な場所であると思う。
~略~
>家庭という平凡な、しかし厳然たるリアリティのテストに堪えた時、思想は恐ろしい力で世の中を変えるであろう。
自分も「借り蛮刀」を振り回しがちだ。思想がツルッとした脳を上滑りしているのだ。
脳から脊髄、血液に流れ込んで、全身から蒸発して他者に乗り移るほどの思想には程遠い。そこまで考えに考えないとリアリティのテストに耐えられない。考えることが足りないのだ。
考えることは考えることであり、考えること以外に代替はない。そして他人が考えているかどうかは傍目ではわからない。だから言語化するし、私はあなたに言語化を強要する。考えるために。 -
清水幾太郎『本はどう読むか』講談社現代新書 読了。40年前の著書なのか。マイブームとして教養主義到来の予感を再確認。著者が学生に課してた岩波新書の3冊で発狂してみるかw 人生の問題を解決するため早急に『合本 三太郎の日記』に手を出そう。
2010/09/24 -
ためになった!読んで良かった。
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(1997.02.04読了)(1988.09.09購入)
内容紹介 amazon
本書は、本の選び方、読み方から、メモのとり方、整理の仕方、外国書の読み方まで、著者が豊富な読書経験からあみだした、本とつきあう上で欠かすことのできない知恵や工夫の数々をあまさず明かし、あわせて、マス・メディア時代における読書の意義を考察した読んで楽しい知的実用の書である。そして同時に、ここには、読書というフィルターを通して写し出された1つの卓越した精神の歴史がある。(講談社現代新書) -
懐かしい本。再読でも納得ポイントがいっぱい。
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とても良い本でした。また読みたい。
洋書にチャレンジしたくなりました。 -
まさに「大社会学者」と呼んで間違いの無い、清水氏による読書術。
・・・と言っても、本の全てが読書術に割かれているのではなく、前半は自分の読書の想い出が書かれています。
前半は読書とのかかわりについて、後半は具体的な読書術、という分け方をしてもよいのではないでしょうか。ただ、一貫して書かれているのは、「読書は楽しいもの」ということ。楽しくなければ読書ではない、と。だから、つまらないのであれば読むのなんて止めてしまえ、という話の展開は、遅読かつ教科書づけになる僕にとってはある意味爽快な言葉です。
また、図書館では本を借りない、それは自分の物のようになってしまうし、書き込みもできない。さらに、余計に大切に扱わなければならないという箇所については、諸手を挙げて大賛成です。ただ、金銭的に余裕のない学生や社会人にとっては、やはり図書館に頼らざるをえないという側面もあろうかとは思いますが・・・。
書かれている読書術は、清水氏のような偉人だからこそできると思われるような方法が多いけれども(特に洋書の読み方)、必ずいくつかの箇所は自分のためになると思います。そこいらの大もうけしているビジネスマンが書いた読書術よりは、よほどためになる一冊なのではないでしょうか。具体的な読書法よりも、個人的には「読書に対する気持ち」を養う一冊としてお薦めしたい気持ちになります。
「要するに、私にとっては、英語はどうでもよいのであった。まして、落ち着いて英語を勉強しようという気はなかった。問題は、生きることであった。そして、生きるためには、育児法の原稿を書かねばならず、それを書くのには、判ろうと、判るまいと、英語の本を読まねばならなかったのである。食いつめなければ外国語は身につかぬ、と私は言っているのではない。私が言いたいのは、有無を言わせぬ絶対の目的があって、或る外国語の習得が、その目的を達成するための、これまた有無を言わせぬ絶対の手段である時、こういう緊張関係の中でこそ外国語の勉強は身につくということである。他に目的がなく、漫然と、語学のための語学をやっても、決して能率の上るものではない。」(p134-135)