海の向こうで戦争が始まる

著者 :
  • 講談社
3.32
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本棚登録 : 1369
感想 : 89
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  • Amazon.co.jp ・本 (186ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061316508

作品紹介・あらすじ

海辺で出会った水着の女は、僕にこう言った。あなたの目に町が映っているわ。その町はゴミに埋もれ、基地をもち、少年たちをたくましく育てる町、そして祭りに沸く町。夏の蜃気楼のような心象風景の裏に貼りつく酷薄の真実を、ゆたかな感性と詩情でとらえた力作。『限りなく透明に近いブルー』に続く作品。

感想・レビュー・書評

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  • この作者の感受性があまりに苛烈で豊かで気持ち悪い

    本筋とは違うところだけど(この話にあんまり筋なんてないと思うけど)
    眩しい、というのを目や鼻にキラキラとした光が入り込んでくる、という表現がとても私には響いた

    感覚的に情景を描写した美しい文だと思った

    今までに経験したことのない文で、小説だった
    これをなんと言って要約することができるだろう

    純文学にジャンルされるらしいけど

    私はすごく好きだった

  • 少し難しい。2作目ということで若さと勢いはあるが肝心のメッセージが伝わらなかった。

  • 残酷で美しい、退廃した世界を描いた物語。

    どこかで起こる目を背けたくなるような戦争に対し、平和なビーチで若者たちはコカインをキメている。

    ラスト40ページくらいの怒涛の追い込みが気持ち悪くも、気持ちよかった。

    洋服屋の若者の母親の描写はあまりにもリアルすぎて、読むのを躊躇う程だったが、それすらも芸術に落とし込める村上龍の才能に脱帽だ。

    岡本太郎の「芸術は爆発だ」との言葉があるが、それをそのまま体現したような作品だった。

  • ①文体★★★★☆
    ②読後余韻★★★★☆

  • 久しぶりに村上龍を読む。

    「コインロッカーベイビーズ」を25、6年前、当時付き合っていた、心理学が好きな彼女に勧められて読んだ以来。

    何気なく買っただけやけど、ロシアによるウクライナ侵攻とリンクしてしまった。

    「戦争」という事態は、どうしたら重く受け止めることができるのか、実感をもてるのか。
    そしてその、実感を持てない感が、戦争をおどろおどろしく教え込まれてきた、僕らは、「戦争反対」と言いたくても、実のところ戦争なんて遠過ぎて捉えきれないものというのが、正直なところやから、気持ちが上滑りしまくって、歯が浮く。

    作者の意図は知らんが、誰一人いない海岸でコカインをキメるような、平和で侵略されない見せかけの自由を享受している〈おそらく〉若者と、その対岸の街でおこる、どうしようもない貧困から来る、狂気じみた戦争との相対性をもって、戦争の実感を捉えようとしたんじゃないのではと思う。

    平和ボケも戦争とおんなじくらい人間の大事にせなあかんことに対して、相当やばいことなんやでと、言ってるような気がする。




  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/682668

  • 著者の第二作で、前作の『限りなく透明に近いブルー』に似たスタイルでありながら、幻想的な雰囲気がただよう作品です。

    海辺の「僕」のまなざしの先にある町に暮らす、さまざまな物語がくり広げられていきます。それらは、三人の少年たちの物語、大佐とその愛人の物語、若い衛兵とその家族の物語、洋服屋と病気の母の物語などですが、一つひとつの物語はわかりやすい帰結に行き着くことなく、祭りによってもたらされる興奮に巻き込まれながら、登場人物たちは微妙にすれ違う会話を交わしつづけていきます。そして、そうしたどこにも行き着くことのない物語に、戦争というカタストロフがもたらされます。

    「戦争」は、幻想的な「町」に暴力的に介入する「外部」であり、「町」に暮らす人びとの理解を超えた出来事です。しかしそれは、「僕」にとっては「海の向こう」の出来事にすぎません。こうした「僕」のまなざしは、第一作の『限りなく透明に近いブルー』で示された、即物的な次元に降りていくことで獲得される批評的なまなざしに通じるものがあるように思います。本書の「解説」を担当している今井裕康(三浦雅士)も、『限りなく透明に近いブルー』のリリーのセリフを引用することから本作の解読をはじめており、「村上龍においては、なによりもまず見ることが書くことなのである」と主張していますが、わたくし自身もこれは的確な解釈であるように思います。

  • タイトルを見るだけで何かが始まりそうなザワザワとした落ち着かない気持ちになる。

  • 豊かなビーチから眺める、海の向こうの淋しい町。
    定まらない視点がふらふらと此方と彼方を繋ぎ、祭りに熱狂する町を彷徨う。
    描かれる人々には過去があり人生があり
    それらが境界のない混ぜこぜに
    全てが一続きになっている。
    一続きになって僕を通過していく。

  • 何度目の再読になろうか。鈍色の空の下、祭りの狂騒がやがて戦争の欲望へと雪崩れ込む人びとの心理過程の描写は圧倒だ。吐き気もよおす臭気と、血みどろの排泄物が混濁し、とてつもない破壊へのエネルギーが始動する。一方、対岸の若者は生にも死にも無気力に、太陽と青空を全身に浴びながら対岸の不穏な気配を冷たい目をして見つめている。向う側の死臭は、排泄物は、戦死体はここまで届くことはなかろうと。このコントラストの鮮やかさは不穏な空気を孕みつつ美しく、ただ途方に暮れるばかりだ。限りなく~に続く龍の2作目。限りなく愛おしい。

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著者プロフィール

一九五二年、長崎県佐世保市生まれ。 武蔵野美術大学中退。大学在学中の七六年に「限りなく透明に近いブルー」で群像新人文学賞、芥川賞を受賞。八一年に『コインロッカー・ベイビーズ』で野間文芸新人賞、九八年に『イン ザ・ミソスープ』で読売文学賞、二〇〇〇年に『共生虫』で谷崎潤一郎賞、〇五年に『半島を出よ』で野間文芸賞、毎日出版文化賞を受賞。経済トーク番組「カンブリア宮殿」(テレビ東京)のインタビュアーもつとめる。

「2020年 『すべての男は消耗品である。 最終巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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