- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061489165
作品紹介・あらすじ
的三項図式にかわり、現相世界を網のように織りなす的存立構制、その結節としてたち顕れる「私」とは、どのようなものか?量子論からイタリアの戯曲まで、多彩なモデルで素描する、現代哲学の真髄!
感想・レビュー・書評
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著者の哲学の入門書。『新哲学入門』(岩波新書)より幅広い話題を扱っており、「モノからコトへ」というサブタイトルが示すように、実体論的世界観に代わる関係論的世界観の意義について比較的詳しい説明がある。
第1章では、現代の常識となっている、物理的実在を実体とみなす見方の問題点を指摘するとともに、場の量子論などを取り上げて、自然科学の内部で実体論的な発想を乗り越える試みがなされていることに触れている。第2章では、カメラの写像をモデルとして認識を説明する見方を退け、ありのままの現相的世界から出発しなければならないと説いている。
第3章では、本質直観の対象となるようなイデア的存在者の自体的存立を認める立場を批判し、著者の「所与-所識」構造に基づいて、「本質」についての私たちの理解が成立する機序を明らかにしている。
第4章では、著者の役割存在論への導入的説明と、判断の客観的妥当性を説明する「能知-能識」構造が解説されている。
現相的世界の対象的側面における「所与-所識」構造と、主体的側面における「能知-能識」構造からなる四肢的存立構造の中で事態は存立する。こうした事態が忘れられて、たとえば感覚的所与や普遍的本質のようなものが自体的に存立しているという「物象化的錯認」が生じることで、実体論的世界観の種々の問題が出来すると著者は論じている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
慎重な認識論。場の量子論や特殊相対性理論など現代物理の知見も援用して、モノからコトへの認識論を説く。最後にこの続きがあるような書きぶりだが、それはどの本なのだろう。
現象学への批判がラディカルではなく、本書の文脈に沿った形でのみ妥当している。 -
哲学
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第2章
近代認識論はそれにもかかわらず、写真機モデルの知覚論と見合う形での「外的対象−心的内容−意識作用」という三項図式を前提的な枠組みとして様々な議論を展開してきた。(pp.65)
第3章 本質はどう仮現するか
唯名論(ノミナリスム)…個物にしか実在性を認めず、普遍というのは総括用の名称にすぎないと見做す立場
実念論(レアリスム)…「普遍」の実在性を主張 -
存在論および認識論について、もっとも基礎的なところから丁寧に整理して話が進められていく。話が原理的なところに遡りすぎていて頭がついていかなくなることもしばしばだが、哲学というのは本来常に原理的(原初的)なところへ立ち戻ろうとする営みだと思うので、がんばって著者の思考についていくしかないだろう。話はだんだん難しくなっていく。第1章と第2章は著者の手際のよさに感動して読んだ。第3章・第4章あたりになると部分的にはわかるものの、全体の筋道が追いづらくなったのが正直なところ。ただ、1章だけでも読む価値は十分にあった。「実体」ということについて頭が整理できたように思う。
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先日、五木寛之と佐藤優の対談本で五木氏と廣松渉の共著を読んでみる気になったが、絶版らしい。
廣松渉の名は知っていたような気もするというレベル。
講談社現代新書の表紙は既に画像と違っている。
これは高校の頃に読んだ形而上学に近いかな。しかし、何となく言い包められらような印象がなく、逆に終盤はこんなに問い詰めていかなきゃいけないのかと、少々音を上げた。
実体は目を通して網膜に写り、僕らはモノを見ていると思っているが、実際は網膜から視神経を通じて脳細胞の電気信号として処理されている。そう考えれば、皮膚感覚や匂いや味に至るすべての刺激がデータとして僕の存在実感が出来上がっているんだろう。そして僕の意識や感覚も莫大なセンサーからの情報処理に他ならないのかとも考える。岡嶋二人「クラインの壺」のような完璧な仮想現実が出来上がったら、現実と仮想の区別はなくなるだろう。ついつい色々余分なことを考えてしまった。
自我自体の認識不可能性とか不可知性が当然の了解事項とされているが、勉強不足でよく判らない。
本の終盤で自我の対自存在としてこの議論が出てくるが。
対象(所与)を認識するとは一定の所識として覚知識されることにおいて個物として現認されるというのは成程、と納得。
そして、所与ー所識なる機構は、人が「誰かとしての私」を共同主観的な同型性を保有させていくというプロセス。能識者としての私が結論付けられる。
しかし、「私は私にとって何者であるか」という問題はよく判らない。判断主観一般の僣你者としての能知者ということなのか。
もう少し、読み返さないと駄目かな。 -
「モノ」の情報が~,「コト」の情報が~
といってたら,後輩のS氏に渡されました.
大御所なのでしょうが,
その時代の哲学者らしく,難しい漢字にドイツ語カタカナ読みでかながふってあったりして,なかなか読んでいて悩ましい.
それはさておき,入門一歩前ってのは入門の手前っていみと,入門して一歩前へって意味をかさねたはるらしい.
相対性理論や量子理論を引き合いに出して,原始論的な実在主義がもはや科学においても崩壊してると論じつつ,認識論についてかたられています.
いろいろ難しいことはおっしゃってますものの,やはり純な哲学ですと,言葉を粘土のごとくこねまわすだけでは,新しいモノは出てこないような印象を感じました.
# あ,失礼なこといってるかモ?
しかし,メルロ=ポンティだーのなんだーのの「間主観性」とかが結局の所,いってみたものの全然前進してないよねー.
と,「ぶっちゃけ」てられたのには共感しました.
本書中に
「哲学の世界ではもはや陳腐になっている話だが,実は概念は抽象と言う手続によっては論理的に生み出されない」
と,ぶちあげたはったんで,理由をよんでみると,ツッコミどころ満載だったと感じた..
哲学者っていうのは,なんでも決定論的にクリスプに考えるよなあ.と思わされた本日でした.
(2014/12/31追記)
突っ込みどころについては,「記号創発ロボティクス」においてツッコミました. -
配置場所:摂枚新書
請求記号:104||H
資料ID:58802703 -
高校のとき読んだ『新哲学入門』は全く理解できなかったが、この本は何とか読めた。