- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061494015
作品紹介・あらすじ
哲学は主張ではない。問いの空間の設定である。ニーチェが提起した三つの空間を読み解く、画期的考察-。
感想・レビュー・書評
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私は今までこの本を読むのをやせ我慢しておりました。ついに手に取って読むようになったのは、とうとうやせ我慢が馬鹿らしくなってしまったからです。
何をやせ我慢してたかというと、つまりは、いきなりこの本からニーチェに入るのが嫌だったっていうことですよね。ニーチェに自ら直に触れて感じたことをまず打ち立てることが、私なりにですが誠実にニーチェに向き合う上で大事なことだと、どこか直観し、どこか貫き通したいと思っていたからです。
ところが、今になってどだいそれは無理だということがはっきりしてきた。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』から始まって色々読みましたが、さっぱり自分の中に入ってこなかったというのもそうです。
ただ、それ以上に何よりも——これはこの本を読んではっきり「やっぱりそうか」と自覚出来たことでもあったのですが——私はニーチェからしたら敵そのものです。自分が「超人」ではなく「乗り越えられるべきあるもの」の側、奴隷道徳にまみれた「弱者」の側であることが、自分の中ではっきりしたように思えた。そしてそのことが、どういう訳か落ち着いた気持ちでもってニーチェの言葉を迎え入れる準備にもなっていたように今は思っています。
道徳の系譜を探る第一空間から、力への意志そのものを問う第二空間、そして永遠回帰の襲来と意志そのもの、生きることの意味そのものを問う第三空間へ……永井流のニーチェの受け止めとしても、そこで問おうとしていることはまさしくニーチェにしか問い得ない問いだということは、読んでいて非常に感じるところでありました。
そしてまた、そうであるからこそ、私自身に嘘、偽り、ごまかしが沢山、いやそれこそ無数にあることもまたはっきりさせるような、そういう恐ろしい本でもあったことも間違いないと思っています。無論、何が恐ろしいと言って、永井さんというかニーチェそのものの恐ろしさなのですが。うまいこと社会生活を曲がりなりにもやってしまっていて、嘘、偽り、ごまかしを糧とし、人の弱さを養分として生きているうちの一人であるということを、およそニーチェが生きた問いの空間(こう言って良ければニーチェが身をもって示してきた哲学)からは全くもってかけ離れた身であることを突きつけられるような体験をしたように思います。
まぁ、だからこそ私としては惹かれるんですがね。
とにかく、
「徹底して自己に誠実であるとはどういうことか?」
「なぜ真理を求めてしまうのか?」、いや、「何が私に真理を求めさせるのか?」
「この人生を肯定できるとしたらどこで肯定できるのか?」
等々、ニーチェを読んで私なりに疑問を持ち、課題にしていたことの多くがこの本を読みながらある程度氷解されてきたのを感じています。
にしても、徹頭徹尾、徹底的にニヒリストであったニーチェですが、彼は一体どこに向かおうとしていたんでしょうかね。。。
それとはまた別に(いや、つながっているのかもわかりませんが)、読んでいていくつか幼い頃の生と死に関わる原体験、あるいはふとよぎってくる虚しさや心許なさの原体験が掘り起こされるような感覚も覚えました。それについてはまた、これから改めてニーチェを読む中で深く問うてみようと思います。 -
昔読んだような気がするが、なんとなく気になって読むことに。結果、大正解。誤解を恐れずに言えば、たいしたことは言ってないんだが、当たり前のことを回りくどく言う、いや示すのは気持ちいいなと。
もちろん完全に永井さんのことを理解はしてないが、この本から肉をそぎ落として骨だけにするとそうたいしたら、相対主義のパラドクスを道徳的な展開をしたということになるんではないかと。
あと、ニーチェを読んでいて存在と時間の実存主義に近いよな、と感じたがそれは中途半端なニーチェ主義なんだろう。むしろ突き詰めていくと、ハイデッガーの嫌ったダスマンの方が超人に見えてくるのは気のせいか?
導入の仕方が秀逸。なぜ人を殺してはいけないかという問いをもってきて、道徳的に答える大江健三郎をこき下ろす。誠実に、正直に考えるなら、人を殺してはいけない理由なんてあるわけないのだ。そもそも問い自体が道徳的で、その目的を達しようと思うなら答えを言うのではなく、この世界に生きることがどんなに素晴らしいのかを伝えたほうがいい。至極もっともな話で、思わず妻に読ませて2人で共感した。 -
タイトルが不遜だとして批判している評を頻く見かけるが、誤読するを語るに落ちていることに失笑せざるを得ない。もちろんこのタイトルは意図的に一種のギャグであり、ニーチェ流デュオニソス的明るいニヒリズムの正鵠を得た表現である。ニーチェキーワードを時系列に並べながら、むしろ非論理的に、古い言い方ならスキゾ的に論を進めた挙句の最終章での「全否定という肯定」との結論に開いた口がふさがらなかった。だがむしろそれは、難解で長ったらしい数式の解がゼロになるような快さがある。感動的だ。ほとんど引かれていないが、本当に必要な個所でのニーチェ本人の境遇の記述により、本稿がむしろニーチェの人間像をも明確に浮かびあげさせ、かつ章構造自体が、ニーチェ的あまりにニーチェ的な虚無的世界を表現する仕掛けとなっている。最終章の躁病ともいえる筆運びがニーチェ晩年の発狂を想起させるほど。永井均はニヤニヤしながら本作を書いていたに違いない。
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ニーチェはニヒリズムの人だ。ニヒリズムというのは一般的には全てのものごとには意味や価値なんてないという考えだろう。
以前,哲学史の本でニーチェの考えに触れたとき,私の心はすごく動揺した記憶がある。もちろん,ニーチェの考えの表面的なことしかそこにかかれていなかったが,自分の心をひどく動揺させた。
道徳的に正しいとか言われることは,ただ偶然に社会に好都合であるから,誰かが考えたその論理が「正しい」とされ残されてきたにすぎないのかもしれない。世の中で正しいと言われていることは偽りなのかもしれない。
強者は優良であることを,弱者は善良であることを「よい」とする。しかし,どちらも自分の立場から見た視点から自分を正当化する論理でしかないのだ。
これを見て,キリスト教において,キリストの言った言葉を思い出した。
”この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」”
もし,これを金持ちが実践し,資産を投げ出し,貧しくなったときに前記の考えに至った場合,どうすればよいのか。正しいと思っていたことが,ただの虚偽でしかなかった場合,絶望するだろう。正しいとして行ったはずなのだが,宗教の教えや道徳は弱者が自分を正当化するための一つのツールであり偽りに過ぎないんだったら,どうすればいいのだろう。
ニーチェの考えを知るためにこの本を手にとった。入門書というわりには,そのことについて説明される前に,その後の概念がちらほら出てくるため,思っていた以上に難しく感じられた。
しかし,最後まで読んでみて,なんとなく少しわかったような気がする。もちろん哲学者が人生をかけて考えたことを一瞬で理解することはできないのだろうから,これからよく考えてみないといけないだろう。
結びにニーチェの引用でこのようなものがあった。
『私に「道」を尋ねた者に私はこう答えた。「これが――私の道だ,――きみたちの道はどこか?」と。万人向きの道など,存在しないからだ。』
私の生きていく道についてこれからも考えていきたいと思う。 -
ニーチェの分かりやすい入門を期待してたのに開けてみたら著者のニーチェの批判だった……メルカリ行き
著者の感想文が欲しいのではなく、ニーチェの思想がどんなものなのか説明するだけで良かったのに残念 -
相互性の原理 力への意思 パースペクティブ主義 称揚
類比 相即的 糾合
ニーチェという人について
勝敗に対する態度は他者、自己をどうにかするのではなく、勝負、あるいは環境を変えていく。この態度が弱者である。(道徳を信じる信じないではなく、新しい価値観を据えるのもまた弱者。だが、弱者の救いはここにしかないと。)ガンジーもそうなのかな。非暴力非服従。
「真実への意思」コレ最重要
道徳の否定、あらゆる人間に対する愛を持つ。
道徳に代わるものとしての「力への意思」?
p27 道徳の真実
人間心理の構造を分析!ぶち壊していこう!
p30 道徳に抑圧されていた快楽を解き放つよろこび
道徳的な行為(利他的)を人々の喜びとして信じ込ませれば、人間は皆利己的な行為そのものを利他的な行為として行える為、世の中はより良くなっていく。
道徳、良心 虚構を信じる「サピエンス全史」
真理への意思。嘘を暴くという存在としてのニーチェ。哲学者してるなあ
「すべての哲学者が道徳に負けた」p42 まじ?
系譜学……議論を相手の領域で為すのではなく、本来の領域で議論をしていく試み。
だが、領域設定によっていくらでも違う解釈ができてしまうために泥沼の議論にならざるを得ない。
「力への意思」という設定に対しての疑問p42
空間内での内部対立しかしていない。信じる、信じない、という。
神はいないと信じた方が良い、とニーチェは言っているに過ぎない。これは真実ではなく、ただの思想だな。p45
同情は苦悩を取り除こうとする。p48 自助論?
p51 道徳心の欠如したものは世界から必ず排除される。
本来あった神がキリスト教とその道徳によって殺されたp81
道徳、人権、進歩はある意味では神であり、今も生き続けていると言える。人々が道徳(なんらかの価値観)をあるものと信じて行動している限り神は生き続けるp86
p87 三種のニヒリズム(新興宗教を破壊する新興宗教)
神がいる。(道徳)神が死ぬ。(道徳の消滅)神が生まれる(無知という神の台頭)
「無」という神p88 新しい道徳か
価値評価。料理、小説は本質が先にあって、存在はあとから肉付いてくる。だが、人間評価は違う。
ニーチェの人間の価値評価は「何を基準にしようと、それは自由だが、とにかく自分で自分を直に肯定できるということ、これこそが人間の「よさ」を最終的に決める。」92
「能動的ニヒリズム」価値評価の土俵を自分自身で設定する
価値の転倒 「目には目を」という相手の価値観があるが、「左の頬をも差し出せ」ということで自分の土俵に相手を持ち込む。
ユダヤ人はその代表例。神の憐憫がもらえるのは不幸なものであるとの。
記憶は善 忘却は悪 という一般的な価値観の否定
内在的な「道徳」心の中に「神」を飼う人類(パノプティコン)
人は人には償うことができない罪を背負って生まれてきた、という前提に立つことによって神のみが人を救済することができるという論理を成立させることができる。
意味のない人生を、「罪」を与えることによって意味付ける。その「罪」からは神に従うことによってのみ逃れることができる。
自分の心の中の苦悩に自虐的な快楽を覚える101
↓
自分では決して償うことのできない負債を負う(生まれた時、既に罪を背負っている)
↓
「罪人」という烙印を押されることによって自己を救う
↓
神の前にひれ伏し、許しを請うしかない「人」のでっちあげ
「われわれは自分の存在の意味の問題に苦しんでいるので、苦悩という最も強い潜在的な力をもっていたものに意味が与えられて、そのマイナスのパワーがプラスに転化することは、大変喜びなのである。」
第二空間
「現に生きている自然的世界の彼方に、そうあっ て欲しい欲求を投影した別の世界を、それこそが真の世界だとして捏造すること、それが ニーチェ的な意味での形而上学である。」
芸術至上主義、超現実主義
「単に理想や理念に過ぎないものこそを真に実在すると見なす倒錯的な精神のあり方」
「真実は醜い。真実によって亡びないために、われわれは芸術を持つ。」
内部における外部の捏造 真実の援護射撃
「真理とは、それなしには特定の種類の生き物が生存できなくなるような、ある種の誤謬である。結局は生にとっての価値が問題なのだ」
これが正しいとすると、この主張もその「真理」に相当してしまう。(嘘つきパラドックス)
もう一つの解釈は、この文章は例外的に「誤謬」には含まれないとする解釈。
第1空間……神(共同主観)の不在、その論理的証明
第2空間……神不在の世界での、神に代わる存在、または新たな神についての考察
宗教の考えが「生きる知恵」としてではなく、「真理」そのものとして扱われることに対する批判
腐敗した退廃的な生がその真理を必要しているだけ、という問題
パースペクティブ主義 環世界と同じかな
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あるところで薦められていたので読んでみました。
この本を読むに足るだけの知識が自分にはなく、読み進めるのになかなか苦労しましたが、ニーチェの「神は死んだ」について、何となくは理解できた気がします。
が、著者も書いているように、本書は著者が思うところのニーチェであって、ニーチェには、もっと多面的な見方があると思うので、時間を見つけて、他のニーチェ本も読んでみたいと思います。
哲学もそうですが、人文科学や社会科学は、数学でいうところの公理ほどは、確実な土台がないので、根本的なところを考えだすと、なかなか厄介ですね。
まあ、それはそれで面白いところはあるのですが。