これがニーチェだ (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061494015

作品紹介・あらすじ

哲学は主張ではない。問いの空間の設定である。ニーチェが提起した三つの空間を読み解く、画期的考察-。

感想・レビュー・書評

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  • 哲学初心者の私ですらこの分野のアイドル的存在との認識がある、ニーチェ関連本に初挑戦。しかし、永井均先生の主張が多分に織り込まれており読み解くのに四苦八苦してしまったのです。

    なぜ読むのに苦労するのかと考えると、ニーチェの王道的な思想を学ぶ前に、本作の世間一般的なニーチェ論に対する批判と対峙することになったからだろうと憶測されます。でも逆に、私のニーチェ像は本作から出発することとなり、ある意味で恵まれているではあるのかなと感覚的に察する。

    相手の気持ちを慮ってできることを手助けしようといった慈愛なんてものは、何となく刷り込まれているけどもそれが同情になっているとそれは暴力であると指摘する。その精神的な侵略は逆に相手を傷つけてしまう可能性を感じた。
    P47:敵は私を理解しようなどとはしない。だから、私の固有性は敵からはいつも守られている。だが、同情者は違う。彼らはいつも自分自身の知性と感性を携えて私の内面深くに入り込んできて、私を理解という名の暴力でずたずたにされてしまう。

    ルサンチマンにおける僧侶的価値評価の巧妙な例え。タームとしては、奴隷道徳に該当するのかな。
    P95:ぶどうに手の届かなかった狐が、「あれは酸っぱい部ぶどうだ」と言ったとしても、それはすでにある価値空間の内部で対象の価値を引き下げているにすぎない。・・価値の転倒が起こるのは「ぶどうを食べない人生こそが良い人生である」と‐人に言いふらすだけでなく‐自分の内部で実感したときである。

    「力への意志」概念について言及していると思われるが、理解が追い付かない。むずい。。。
    P140:いまだ実現していない自分の欲望を「そうあるべき」という形で世界に押し付け、それゆえに暗に「ものごとの進行の全体を断罪」しないではいられない。欠如と苦悩を背負った者の隠微な復習意思を起点とする、本質的にルサンチマン的で、そうであるがゆえにロマンティックな世界観である。

    ここにも「力への意志」を理解する一助となる文章がある。
    P144:ニーチェの力への意志説は贋金をモデルにした貨幣論なのである。それは何かを‐じつは自分の必要から‐真理であると信じ込むことなしに生きてはいけない弱者の存在様式をモデルにした人間理解であり、弱さと卑小性を最も抽象化された本質を世界へ投影した世界解釈なのである。

    永遠回帰は仏教にある輪廻と相似かなと思ったら、全然違った。たった一つの固有である人生を良いも悪いも一切合切違わぬ形で永遠に繰り返すという思想だった。諦観・無常なんて概念はなく、途轍もなく人生への熱量が大きい気力たっぷりの概念かなと理解。
    「超人」は実社会には全く適応できない感は否めない。偶然の連鎖における必然性。話が逡巡するしていて掴みどころがないが、胸のわくわく感は止まらない。そんな感じ。
    P208:人生の無意味さは、耐えるべきものなのではなく、愛すべきものであり、悦ぶべきものであり、楽しむべきものなのである。

    ニーチェの第一歩を踏み出しましたが、ここにハマると沼だな。過激でカリスマ性を感じずにはいられない。気持ちを落ち着かせるためにも、次はもう少しフラットなニーチェ解説をしている本で中和しようと思う。

  • 私は今までこの本を読むのをやせ我慢しておりました。ついに手に取って読むようになったのは、とうとうやせ我慢が馬鹿らしくなってしまったからです。
    何をやせ我慢してたかというと、つまりは、いきなりこの本からニーチェに入るのが嫌だったっていうことですよね。ニーチェに自ら直に触れて感じたことをまず打ち立てることが、私なりにですが誠実にニーチェに向き合う上で大事なことだと、どこか直観し、どこか貫き通したいと思っていたからです。

    ところが、今になってどだいそれは無理だということがはっきりしてきた。
    ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』から始まって色々読みましたが、さっぱり自分の中に入ってこなかったというのもそうです。
    ただ、それ以上に何よりも——これはこの本を読んではっきり「やっぱりそうか」と自覚出来たことでもあったのですが——私はニーチェからしたら敵そのものです。自分が「超人」ではなく「乗り越えられるべきあるもの」の側、奴隷道徳にまみれた「弱者」の側であることが、自分の中ではっきりしたように思えた。そしてそのことが、どういう訳か落ち着いた気持ちでもってニーチェの言葉を迎え入れる準備にもなっていたように今は思っています。

    道徳の系譜を探る第一空間から、力への意志そのものを問う第二空間、そして永遠回帰の襲来と意志そのもの、生きることの意味そのものを問う第三空間へ……永井流のニーチェの受け止めとしても、そこで問おうとしていることはまさしくニーチェにしか問い得ない問いだということは、読んでいて非常に感じるところでありました。
    そしてまた、そうであるからこそ、私自身に嘘、偽り、ごまかしが沢山、いやそれこそ無数にあることもまたはっきりさせるような、そういう恐ろしい本でもあったことも間違いないと思っています。無論、何が恐ろしいと言って、永井さんというかニーチェそのものの恐ろしさなのですが。うまいこと社会生活を曲がりなりにもやってしまっていて、嘘、偽り、ごまかしを糧とし、人の弱さを養分として生きているうちの一人であるということを、およそニーチェが生きた問いの空間(こう言って良ければニーチェが身をもって示してきた哲学)からは全くもってかけ離れた身であることを突きつけられるような体験をしたように思います。
    まぁ、だからこそ私としては惹かれるんですがね。

    とにかく、
    「徹底して自己に誠実であるとはどういうことか?」
    「なぜ真理を求めてしまうのか?」、いや、「何が私に真理を求めさせるのか?」
    「この人生を肯定できるとしたらどこで肯定できるのか?」
    等々、ニーチェを読んで私なりに疑問を持ち、課題にしていたことの多くがこの本を読みながらある程度氷解されてきたのを感じています。

    にしても、徹頭徹尾、徹底的にニヒリストであったニーチェですが、彼は一体どこに向かおうとしていたんでしょうかね。。。

    それとはまた別に(いや、つながっているのかもわかりませんが)、読んでいていくつか幼い頃の生と死に関わる原体験、あるいはふとよぎってくる虚しさや心許なさの原体験が掘り起こされるような感覚も覚えました。それについてはまた、これから改めてニーチェを読む中で深く問うてみようと思います。

  • 昔読んだような気がするが、なんとなく気になって読むことに。結果、大正解。誤解を恐れずに言えば、たいしたことは言ってないんだが、当たり前のことを回りくどく言う、いや示すのは気持ちいいなと。

    もちろん完全に永井さんのことを理解はしてないが、この本から肉をそぎ落として骨だけにするとそうたいしたら、相対主義のパラドクスを道徳的な展開をしたということになるんではないかと。
    あと、ニーチェを読んでいて存在と時間の実存主義に近いよな、と感じたがそれは中途半端なニーチェ主義なんだろう。むしろ突き詰めていくと、ハイデッガーの嫌ったダスマンの方が超人に見えてくるのは気のせいか?

    導入の仕方が秀逸。なぜ人を殺してはいけないかという問いをもってきて、道徳的に答える大江健三郎をこき下ろす。誠実に、正直に考えるなら、人を殺してはいけない理由なんてあるわけないのだ。そもそも問い自体が道徳的で、その目的を達しようと思うなら答えを言うのではなく、この世界に生きることがどんなに素晴らしいのかを伝えたほうがいい。至極もっともな話で、思わず妻に読ませて2人で共感した。

  • タイトルが不遜だとして批判している評を頻く見かけるが、誤読するを語るに落ちていることに失笑せざるを得ない。もちろんこのタイトルは意図的に一種のギャグであり、ニーチェ流デュオニソス的明るいニヒリズムの正鵠を得た表現である。ニーチェキーワードを時系列に並べながら、むしろ非論理的に、古い言い方ならスキゾ的に論を進めた挙句の最終章での「全否定という肯定」との結論に開いた口がふさがらなかった。だがむしろそれは、難解で長ったらしい数式の解がゼロになるような快さがある。感動的だ。ほとんど引かれていないが、本当に必要な個所でのニーチェ本人の境遇の記述により、本稿がむしろニーチェの人間像をも明確に浮かびあげさせ、かつ章構造自体が、ニーチェ的あまりにニーチェ的な虚無的世界を表現する仕掛けとなっている。最終章の躁病ともいえる筆運びがニーチェ晩年の発狂を想起させるほど。永井均はニヤニヤしながら本作を書いていたに違いない。

  • 『これがニーチェだ』永井均 1998年初版 講談社現代新書 2019.10.17

    序文 p.7
    永井均なりに考えたニーチェ論。ニーチェに対する考察。万人向きのニーチェは存在しない。その言葉を著者は本書の結びで使っている。
    ニーチェは思想家であって哲学者でないという風潮がある。だがニーチェは自分の思想を宣伝したことがないどころか、思想を持ったことがないのではないか。
    哲学は主張ではなく徹頭徹尾、問いだ。問いの空間の設定であり、その空間を巡る探求だ。
    ニーチェは思想家としてみれば完璧に敗北した。マルクスに復活の可能性があるが、ニーチェにはない。
    その敗北の完璧さによって逆に時代の本質を射抜いている。ニーチェを後ろ盾にして言うことには復讐意志が隠れている。
    ニーチェを頼って元気がでるのならニーチェ的批判のすべてはあなたに当てはまる。

    1.なぜ人を殺してはいけないのか p.20
    なぜ殺人がよくないか。このような道徳に反する問いに不穏を感じる者は、問い自体を不安なものに変質させる。
    ニーチェの哲学だけが、この問題にまつわる全て解明しつくしている。
    まず第1にこの問いには答えがない。
    第2に答える人の嘘について。この種の問いに対する反応が嘘をうみだすことに、ニーチェは鋭く解明している。
    他者の追随を許さない独自の洞察が冴えわたる町域である。
    三つのグループに分けて紹介しよう。
    第1に世の中の全ての言説は道徳性それ自体を問題として問うことを禁じている。この奇妙さを奇妙だと感じてよいのだと言ったのはニーチェだけであった。
    第2に、ニーチェは人が道徳に服従する根拠を正確にとらえている。「人が道徳に服従するのは道徳的あるからでない。奴隷根性、虚栄心、利己心からでも起こりうる。
    それ自体は道徳的でない。」「道徳的理想の勝利は『不道徳な』手段によって得られる。すなわち暴力・嘘・誹謗中傷によって」
    ニーチェの視点からすれば人を殺してはいけないのは、誇りによってでなく、奴隷根性と断念によってなのは明白である。
    第3に、誇りゆえに語られるようなことを信用してはならないということだ。
    いじめられる子の方も悪いところがあるという主張が禁じられているように。

    ニーチェの究極の答えについて p.29
    本当の答えははっきりしている。重罰を受ける可能性も考慮に入れてどうしても殺したければやむを得ない。
    公共の場で誰も言わないが、これが本当の答えだ。ニーチェは自明の心理をあえて語ったのか? 彼はそれ以上のことを語ったのである。
    人を殺して自分が悦びを得る、こちらの価値を認める可能性はありえないのか?
    ニーチェはそれを問い最終的には肯定的な答えを出したのだと思う。「どうしても殺したければ、やむをえない」といったのではなく、
    「そうすべきだ」といったのである。最終的に肯定するという視点、それこそがニーチェの視点であり、私が知る限りではニーチェだけがはっきり打ち出した。
    相手の立場に立って考えるという普遍性の普遍的原理は否定される。善とは究極的には反社会的なものだ。
    残る問題はこのようなことが他人に伝えることはできるかという疑問。伝わった時にはニーチェはある種の弱者を導く新しい僧侶に変質せざるをえないのではないか。
    これが私の問いである。

    誠実という道徳 p.37
    哲学に必要なのは勇気と強さだ。そのように語るニーチェに私は強い共感を感じた。
    ニーチェは誠実の道徳がキリスト教道徳に由来するものであることを誠実に認めている。

    強さとしての誠実さ p.39
    力のない者は自分に誠実であることはできず、嘘をつかざるをえないゆえに悪にして醜なるものであらざるを得ない。
    相手の価値基準を自分の価値基準に「強-弱」空間に包み込んでその内部で下位に弱さとして位置づけしようとそれ自体に「弱さ」が示されるのではないだろうか
    キリスト教道徳は敵を自分の「罪と贖罪」の空間に引き入れて強者を罪人の枠に収めた。
    相手の空間を自分の価値観の空間に引き入れたことによって勝利とすることができた

    宗教批判 p.42
    ニーチェは哲学の伝統を道徳的な高尚なものにみせかけるための工夫に過ぎないと批判する
    哲学的な建築家が、真理の探究をすると見せかけて荘厳な道徳的建築物しか建てないのは道徳の誘惑に負けたからだ。
    この批判は相手の嘘を暴く意味で本質的に健全な批判だ。哲学は本音と建前の違いがありそこを突くことが批判になるが、宗教批判で同じことはできない。
    ニーチェは「神とはひとつの憶測である」「どの宗教も不安と必要から生まれた」という。宗教的なものはすべて卑小で不健康な原料から作られてる。というのだ。
    キリスト教は本当は存在しない無を存在していると主張しているという理由でその虚偽性が非難される。あとはそうしたものを設定する際の動機の不健康さに対する非難だ。
    病的な動機から作られたから虚偽なのか?虚偽だから病的な動機からしか作られないのか?両義的だ。
    教祖や僧侶の心性とは関係なく神は存在するということはありえないのか。彼らの態度を離れて神の存在を決定することができない。
    これはロボットに対して心があるか考える場合、ロボットへの態度とロボの独立には決まらないのと同じだ。
    ニーチェは実在論的観点の拒否と反実在的観点に立ったうえでの神の存在を信じる精神のあり方の否定とを同時に行っている。

    恥と同情 p.46
    助けることが相手に恥をかかせる場合は無視すべきだというニーチェ。ここには洗練された趣味を持つ繊細なニーチェがいる。
    ニーチェの主要な敵は同情だ。個人的な苦悩は周りには窺われない。知られれば必ず浅薄な解釈をこうむる。その人の独自なものを奪い去る。
    同情という感情の本質に属することだ。敵以上にその人の価値や意志を傷つける。
    同情の基盤になるのは強者に対する敵意であり、弱者の力への意志だ。同情する者は自分の価値基準を相手に押し付ける。
    強者の弱者に対する同情もある。弱者は強者を同情に誘、自分が弱いことを訴え自虐的な快楽を得る。
    強者は純真であり、それに引っ掛かる。自分の知らない種類の崇高さを誤認する。弱者の道徳を内面化すると弱者以上に自虐的になる。
    力への意志が強いものほど嵌ると両親の呵責のとりこになる。それが強者の自滅である。

    社会性自体の拒否 p.49
    ニーチェの根底には反社会性がある。ニーチェは弱者を勇気づけない。あるがままを肯定することを教え向上心を持つよう仕向けない、
    これがニーチェに可能な弱者への唯一の愛。今の人々からは受け入れがたいことだ。
    さらに説くのは超人は多数者の犠牲を両親の呵責なしに受け入れるものというもの
    我々は他の生き物と差異が大きいと何の不正も感じず、例えば蚊を殺す。多くの人に受け入れられないのは、だれもが蚊の一面をもっているからだ。
    だから社会がニーチェ思想の根幹を否定するのは当然。超人は蚊の大群によって窒息する運命だ。ニーチェと強者の側は必ず戦いに負ける。
    蚊ででしか無いものは無価値性を説く悲劇的な哲学なのか。そうではない。誰もが単に社会の一員ではない
    世の中が根幹を否定しても個々人の心をその根幹は捕らえる。それがニーチェの意味での正義だ。
    ニーチェの中に大量殺戮を予防する倫理的原理はない。彼は人間社会の構成原理と両立しがたいまでに人間を愛した。
    それがニーチェの種類の人間愛だ。だがニーチェを健全な精神文化の中での個展に仕立て上げようとする傾向は根強い。

    生い立ち
    ニーチェは1884年にライプツィヒ近くのリュッツェルンという町に近いレッケンという村に生まれた。
    1858年14歳のとき、プフォルタ大学に入学して寄宿生となった。1864年に友人のドイセン(インド哲学研究者となる)と共に
    1864年ボン大学に入学する。最初は神学部だったが、リッチェルとヤーンという二人の古典文献学者のいる文学部に移籍して1年後には
    リッチェルを追ってライプツィヒ大学に移る。『イエスの生涯』を読んだきっかけでキリスト教と決裂するようになったようだ。
    65年の秋にショーペンハウアーの『意志と表像としての世界』を読み哲学への興味を抱き始めてもいる。
    67年秋、兵役について落馬による療養で文献学を一生の仕事にするつもりはなくなっていた。
    68年冬、ライプツィヒを訪れたヴァーグナーと知り合い彼の虜となる。
    24歳、スイスのバーゼル大学の古典文献学の教授に推挙される。だが、すでに信仰に基づいた古典文献学に疑問を持ち、
    ひそかにそうした前提を疑う哲学に専攻を変えたいと思っていた。
    運命の悪戯か移り住んだバーゼルの近くのトリプシェンにはヴァーグナーの別荘があった。ニーチェのトリプシェン通いが始める。

    ●『悲劇の誕生』の誕生 p.59
    ひとことで要約するならば、ソクラテス以前のギリシア的生のあり方を明らかにしようとしたもの。
    その道具としてアイスキュロスからソフォクレスを経てエウリピデスにいたるアッティカ悲劇の誕生と消滅をアポロン的なものとディオニュソス的なものとの
    関連の観点から解明することによってだ。
    アポロンは光あふれる造形芸術の精神。ディオニュソスはほの暗い非造形的な音楽の精神だ。前者は昼で後者は夜。
    ニーチェによればギリシア的な生は元来ディオニュソス的だった。
    ディオニュソスは豊穣で勝ち誇った生活が支配していた。のちにホメロス的なものがアポロン的な中間世界を作ってアポロン的幻想の完全勝利を実現する。
    だがこれは根底のディオニュソス的な力が要求したのである。
    ディオニュソス的なものがアポロンやソクラテスと対比されるときイメージの中心にあるのは、生の根底から湧き上がるような無意識でマグマ的な力である。
    ディオニュソス的なものがキリスト教と比較されるとき、中心にあるのは、現に存在するすべてに対する充足した完結した留保なき肯定である。

    『道徳外の意味における本島と嘘』p.64
    言語は平均的なもの、中位のもののために考案されたにすぎない。言語によって語り手はおのれを通俗化する。
    お互いが理解するためには結局言語委よりも共通の体験を持たなければならない。(言語の機能の限界を説明か)
    すべてが言語による嘘から生まれるのならその嘘について言語で語ることはどうしてできるのか?
    哲学的な問いかけはここから始まる。「語りえないことについては沈黙しなければならない」ウィトゲンシュタイン。

    『反時代的考察』p.67
    1873年から76年にかけて出版されたシュトラウス論からヴァーグナー論に至る四編の論文をまとめたのが、この書物。
    シュトラウスを教養俗物として批判する第1論文も興味深いが、もっとも重要な論文は第2論文「生にとっての歴史の利害」だろう。
    動物の幸福は忘却にあり、人間の不幸の根源は過度の記憶にあるのだ。
    「最小の幸福でも幸福を幸福たらしめるのは忘れることができるということだけ」
    幸福が続く限り、非歴史的に感じる能力のこと。
    1876年に第4論文「バイロットにおけるリヒャルト・ヴァーグナー」刊行されて「反時代的考察』は完結する。
    ヴァーグナーとの考え方が違うことでの幻滅。

    『人間的あまりに人間的』 p.73
    ヴァーグナーとの離反によってロマン主義が否定されて、文献学が再度顧みられるときがきた。この書物から前期実証主義というべき時代が始まった。
    歴史的遡行の重要性、一種の深層心理学的方法。背後で突き動かしているのは「力への意志」と総称されるもの。のちのルサンチマン論の萌芽も読み取れる。
    強くなりたい相撲取りが取りうる方法は二つある。
    ①稽古に励んで自分をつよくする。または相手を何らかの手段で弱くすること
    ②自分や相手を変えるのではなく自分に有利ななにかに変えることで、ほうとうの勝者になることだ。解釈の変更がなされることに注目すべき
    ぶどうに手が届かない狐がぶどうをすっぱいと言う内は相手を下げているに過ぎない。だが狐がぶどうを生き方は正しくないと言ったら、
    彼はひとつの解釈を作り出したことになる。狐の力への意志は解釈への意志に返還される。
    ニーチェのルサンチマン理論の本質はそこにある。
    弱さの卑小さの本質は解釈への意志にある。
    弱者は力への意志がむしろ強い。だが力は弱い。弱者の力への意志を解釈への意志へと変換するのが僧侶である。
    彼らは密かに現実の甘いぶどうを食べる。
    『人間的あまりに人間的』はあまり評価されなかった。次第に理解者を失い病気の状態も良くない。
    1879年にバーゼル大学を辞職して年金生活者となり各地を放浪する。
    ペーターガスとという若い音楽家だけが彼を献身的に支えた。
    だがわれわれのニーチェ空間が始まるのはここからなのである。
    1881年の『曙光』から「道徳に対する私の征戦が始まる」
    1881年から82年にかけて『悦ばしき知識』が書かれる。ここで初めて永遠回帰思想と「神は死んだ」が告げられる。

    二種類の神の死 p.78
    神の死を告げたのは狂人であり、それを聞くのは神の存在を信じていない人々である。
    すでに神を信じている者はいない。そのことに騒ぐのはニーチェにとって悦ばしいことではないからだ。
    神聖一般の死の危機が叫ばれてたと著者は考える。
    みずから神を作って信仰して殺したキリスト教徒。
    神の死は悲しむことではない。真実を受け入れる用意のある強者にとっては正常な状態の回復なのである。
    認識者の冒険がふたたび許されるのだから。
    神はなぜ死んだかといえば、キリスト教道徳が育てた誠実さの徳が神を殺した。
    キリスト教によって育てられた敬虔な無神論が生まれる。嘘であることを宣言して人々をニヒリズムに陥らせる。
    誠実に無であることを認めることは喜ぶこと。新しい福音の始まりである。
    無を無として認めるとはなにか。著者は考える。作りものであってもそれを「自明の前提」としてその中で生きていく。
    ペシミズムとは恐らくそういうことだ。

    貴族的価値評価と僧侶的価値評価 p.92
    人生の良さに基準はない。直接的な自己評価こそを究極的なものと考えるという視点をニーチェは打ち出した。
    何を評価基準にしようとそれは自由だが、とにかく自分で自分をじかに肯定できること、これこそが人間の良さを最終的に決めるというのだ。
    貴族的価値評価:自分で自分をよいと思える強者の自己肯定感の感覚。
    僧侶的価値評価:その源泉は強者への妬み羨みひがみにある。本質は他者を否定することによる間接的な自己評価である。
    「ぶどうを食べない人生こそが良い人生であると、自分の中で実感したとき、価値の転倒が起きる。
    ルサンチマンは日常茶飯事だ。ルサンチマンが創造的に世界解釈の体系そのものを作り替えることは滅多にない。
    マイナス思考が胸中で反芻されたうえで、才知に富んだ空間変造の達人、僧侶が介入しなくてはならない。
    ルサンチマン的弱者は僧侶の示す価値空間・世界解釈に救いを見出しそれに縋り付くのだ。
    歴史上僧侶的な民族の代表はユダヤ人。
    ユダヤ人は恐ろしいほどの的確さで貴族的な価値方程式に対する転倒を行い底知れない憎悪の歯ぎしりとともにそれに固執した。
    弱者こそが良い者であり。浄福が約束されるのである。
    ものごとを捉える概念体系自体が作り替えられるのである。
    福音書では右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。ぶたれたらなにもするなとは言われていない。
    左の頬も向けよとは自分たちが勝てる新しい空間をを捏造し、その中で手向かえという教えではないか。
    価値観の転倒による復讐の精神がある。
    この僧侶の示す見たことのない価値空間とそれに基づく世界解釈に多くの人が救いを見出しすがったのも当然だ。

    約束と責任 p.98
    ニーチェの根底には人間同士が言語で通じ合う事実に対するある否定的な直感があるだろう。
    持続的な意思を持つことができる人間が責任能力と理性を持った人間だ。これに対立するのは次々と忘れる人間。人生を短期的に生きる現在のみに生きる
    無垢で陽気で無責任な人間である。
    ラクダ・獅子と対比する子供のイメージに近い
    道徳は人間の内心の問題にすぎないのなら解釈も枠組みに集約されてしまう。

    禁欲主義的僧侶と禁欲主義的理想 p.104
    僧侶はこの世での苦悩の原因を取り除いてはくれないが、それに意味を与えることで、生に希望を与えるのだ。
    そうなれば僧侶のたくらみを見抜いて、その誘惑を拒否する者は、最も罪深い者とされるほかなくなる。
    また意味のある生をうらやましく感じ、しかも僧侶の誘惑に乗り切れない者は、また別のニヒリストー自分の生の空しさを嘆く種類のーにならざるをえなくなる。
    この僧侶自身は何者なのか?ニーチェは言う。禁欲主義的僧侶は、別の者でありたい、願望の化身である。彼の願望の力こそが彼をこの世に縛り付ける。
    創造的な力が、この世の現実を否定する意志と結びついて超越的な背後世界を捏造して、その観点からこの世に意味を与えたとき、禁欲主義的思想が生まれる。
    禁欲主義的僧侶は自分の本能の力だけでこのような観点を打ち立てて、みずからそれを生きることができる力を持つ者のことだ。その生き方が可能なのは不安に怯えるルサンチマン的弱者の存在が不可欠。完璧な相互依存関係が成立する。
    ニーチェは転倒したパースペクティブ内であるが力への意志に活路を与えることに成功した。
    キリスト教自身が育んだ真理への意志がついにはキリスト教の虚偽を暴きそれらを打倒したことを我々は知っている。
    無への意志が暴露され神は死ぬ。
    禁欲主義的理想の無への意志が真理への意志を育てることによって己自身を凌駕するプロセスのうちに、ニーチェは力への意志の自己貫徹を見た。
    力への意志の自己貫徹。
    誠実に対する誠実さ。最後は真理への意志への誠実さであることができず、力への意志への誠実さになる。こうして心理への意志も無への意志が暴露されて
    真理として現れた神は死ぬ。

    形而上学の超克 および芸術について p.113
    第1空間。武器は系譜学という独自の歴史記述。その敵はキリスト教徒その道徳。
    第2空間。武器は力への意志という独自の哲学説。敵は形而上学あるいはイデアリズム。
    形而上学とはメタフィジックス。自然世界に欲求を投影した世界を真の世界だとして捏造するニーチェ的な形而上学。
    「心理は醜い。心理によって亡びないために、われわれは芸術を持つ」
    芸術のうちには「心理への意志」を偽装などしない「力への意志」そのものが形象化されている。
    力という概念は観点と解釈という二つの概念と関連している。

    パースペクティブ主義 p.123
    力への意志説はパースペクティブ主義と呼ばれる考えと結びついている。パースペクティブは観点・視点の意味だと著者は考える。
    各人がパースペクティブという世界解釈を持ち両者で価値観の位置づけ合いが起きる。本質的に共通の土俵ははない。
    すべては解釈というパースペクティブ主義の真理は言う
    「存在の最も内的な本質は力への意志である」

    弱さとしての力への意志 p.135
    すべては力への意志であるとニーチェは言う。
    服従し使える者の中にも支配者になろうとする意志をニーチェは見た。生とは内的条件が外的条件に適応することでなく、
    常に内から発して多くの外部を服従させ自分に同化吸収していく力への意志なのである。
    力への意志は力の欠如の指標であるこにはならないか?著者の疑問だ。
    ニーチェの意図はキリスト教がじつは力への意志のゆがんだ現れであることを示すことでその神秘のヴェールをはがすことだった。
    強者は自分に合わせて世界を解釈しようとしない。ただ真理をしろうとするはずだ。それだけの精神の余裕を持つ。真の強者は誠実でなく率直であるはずだ。
    誠実はどこか力への意志のにおいがする。率直さは自己に対する自信から生まれる高貴な徳なのである。
    ニーチェ主義は森羅万象を裁断する力を手に入れた。だがその力は僧侶的な力だ。それは本物の力ではなく贋金なのである。
    ニーチェ主義は力という超越的な解釈空間を捏造してその内部で強者になりたいと願う牧畜のうえに君臨することになった。

    『反キリスト』におけるイエス像 p.153
    ニーチェは言う。根本においてキリスト教には一人のキリスト教徒がいただけだ。
    この本はイエスの弟子たちがイエスを誤解していると主張する1冊だ。出発点はユダヤ教だ。ユダヤ民族は世界初の弱さを武器として闘うすべを心得た僧侶的民族である。
    イエスを表現した「白痴」という言葉は1954年になるまで削除されてた。これこそがニーチェのイエスへの私的共感の念だと思うと著者。
    イエスはむしろ仏教徒。仏教は長く続いた哲学的運動の遺産を受け継いでいる。事実をありのままに受け入れる客観性を持つ。罪と戦うと虚構を作らず、苦しみと闘うと素直に言う。
    ニーチェいわくイエスはきわめてインド的でない土地に現れた仏陀。

    永遠回帰の襲来 p.168
    永遠回帰は体験としてニーチェに降りかかった試練だった。彼はこの思想を公刊著作のなかで自分自身の言葉として主張したことはなかった。
    個人の生き方に外部からの評価をくわえることはできない。ホロコーストだろうと歓喜と共に受け入れる驚くべき考えかた。選べる思想であるうちは
    どこまでもニヒリスティックな響きを発し続けるだろう。ニーチェさえ突きつけられた試練だった。
    ツァラトゥストゥラにおいて、ニヒリズムの極限の克服方法は、意志の力によってなされるのだ。その力を持つのが超人。
    悪い意味での開き直りか、良い意味での開き直りが対立する。両方の解釈が両国として対立する空間が第3空間である。
    永遠回帰のポイントは現実肯定。意志の力で肯定するのではなく、漠然と人生を肯定に感じるのが正しいイメージ。
    肯定に固執することは否定を否定することに固執することだ。何かを否定する意志への固執は、憎悪をその出所とするだろう。
    今日の社会ではニーチェを深く理解できる感度をもつ者こそが最も卑小な弱者だろう。
    それでもニーチェが偉大であり高貴なのは、憎悪の感情ではなく、疑問への真正の哲学的探究によって支えられているからだ。
    ニーチェはニーチェを読んで慰めることができる種類の人間ではなかったからである。

    獅子から子供へ? P.189
    子供は率直であろうか。率直というのも子供らしくはない。だが率直さは誠実さというキリスト教的な美徳に比べればはるかに高貴な強者の美徳である。
    無意識の自然な率直さは、おそらくは子供の単純さ、屈託のなさに近い。というよりむしろ人間性に対する思考をニーチェは子供という比喩に表している。

  •  ニーチェはニヒリズムの人だ。ニヒリズムというのは一般的には全てのものごとには意味や価値なんてないという考えだろう。
     以前,哲学史の本でニーチェの考えに触れたとき,私の心はすごく動揺した記憶がある。もちろん,ニーチェの考えの表面的なことしかそこにかかれていなかったが,自分の心をひどく動揺させた。

     道徳的に正しいとか言われることは,ただ偶然に社会に好都合であるから,誰かが考えたその論理が「正しい」とされ残されてきたにすぎないのかもしれない。世の中で正しいと言われていることは偽りなのかもしれない。
     強者は優良であることを,弱者は善良であることを「よい」とする。しかし,どちらも自分の立場から見た視点から自分を正当化する論理でしかないのだ。

     これを見て,キリスト教において,キリストの言った言葉を思い出した。

     ”この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
     イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」”

     もし,これを金持ちが実践し,資産を投げ出し,貧しくなったときに前記の考えに至った場合,どうすればよいのか。正しいと思っていたことが,ただの虚偽でしかなかった場合,絶望するだろう。正しいとして行ったはずなのだが,宗教の教えや道徳は弱者が自分を正当化するための一つのツールであり偽りに過ぎないんだったら,どうすればいいのだろう。
     ニーチェの考えを知るためにこの本を手にとった。入門書というわりには,そのことについて説明される前に,その後の概念がちらほら出てくるため,思っていた以上に難しく感じられた。
     しかし,最後まで読んでみて,なんとなく少しわかったような気がする。もちろん哲学者が人生をかけて考えたことを一瞬で理解することはできないのだろうから,これからよく考えてみないといけないだろう。
     結びにニーチェの引用でこのようなものがあった。
    『私に「道」を尋ねた者に私はこう答えた。「これが――私の道だ,――きみたちの道はどこか?」と。万人向きの道など,存在しないからだ。』
     私の生きていく道についてこれからも考えていきたいと思う。

  • とても興味深く読めた。
    おそらく難解であろうニーチェをわかりやすく解説してくれている。とはいえそれでもじっくり読まないと途中で分からなくなってしまうけど。
    ニーチェの思想の変遷を、筋道に沿って追って行っている感があり、納得しやすい。
    いろいろと参考になることが書いてあるので、また読みたい。
    以下、印象に残った考え方。
    動物の最大の幸福は過去を忘れること。
    物には固有の価値基準があるが、人間にはそれがない。

  • ニーチェの分かりやすい入門を期待してたのに開けてみたら著者のニーチェの批判だった……メルカリ行き
    著者の感想文が欲しいのではなく、ニーチェの思想がどんなものなのか説明するだけで良かったのに残念

  • 相互性の原理 力への意思 パースペクティブ主義 称揚
    類比 相即的 糾合

    ニーチェという人について
    勝敗に対する態度は他者、自己をどうにかするのではなく、勝負、あるいは環境を変えていく。この態度が弱者である。(道徳を信じる信じないではなく、新しい価値観を据えるのもまた弱者。だが、弱者の救いはここにしかないと。)ガンジーもそうなのかな。非暴力非服従。
    「真実への意思」コレ最重要
    道徳の否定、あらゆる人間に対する愛を持つ。
    道徳に代わるものとしての「力への意思」?

    p27 道徳の真実

    人間心理の構造を分析!ぶち壊していこう!

    p30 道徳に抑圧されていた快楽を解き放つよろこび

    道徳的な行為(利他的)を人々の喜びとして信じ込ませれば、人間は皆利己的な行為そのものを利他的な行為として行える為、世の中はより良くなっていく。

    道徳、良心 虚構を信じる「サピエンス全史」

    真理への意思。嘘を暴くという存在としてのニーチェ。哲学者してるなあ

    「すべての哲学者が道徳に負けた」p42 まじ?

    系譜学……議論を相手の領域で為すのではなく、本来の領域で議論をしていく試み。
    だが、領域設定によっていくらでも違う解釈ができてしまうために泥沼の議論にならざるを得ない。
    「力への意思」という設定に対しての疑問p42
    空間内での内部対立しかしていない。信じる、信じない、という。
    神はいないと信じた方が良い、とニーチェは言っているに過ぎない。これは真実ではなく、ただの思想だな。p45

    同情は苦悩を取り除こうとする。p48 自助論?

    p51 道徳心の欠如したものは世界から必ず排除される。

    本来あった神がキリスト教とその道徳によって殺されたp81

    道徳、人権、進歩はある意味では神であり、今も生き続けていると言える。人々が道徳(なんらかの価値観)をあるものと信じて行動している限り神は生き続けるp86

    p87 三種のニヒリズム(新興宗教を破壊する新興宗教)
    神がいる。(道徳)神が死ぬ。(道徳の消滅)神が生まれる(無知という神の台頭)
    「無」という神p88 新しい道徳か

    価値評価。料理、小説は本質が先にあって、存在はあとから肉付いてくる。だが、人間評価は違う。
    ニーチェの人間の価値評価は「何を基準にしようと、それは自由だが、とにかく自分で自分を直に肯定できるということ、これこそが人間の「よさ」を最終的に決める。」92

    「能動的ニヒリズム」価値評価の土俵を自分自身で設定する

    価値の転倒 「目には目を」という相手の価値観があるが、「左の頬をも差し出せ」ということで自分の土俵に相手を持ち込む。
    ユダヤ人はその代表例。神の憐憫がもらえるのは不幸なものであるとの。

    記憶は善 忘却は悪 という一般的な価値観の否定

    内在的な「道徳」心の中に「神」を飼う人類(パノプティコン)

    人は人には償うことができない罪を背負って生まれてきた、という前提に立つことによって神のみが人を救済することができるという論理を成立させることができる。

    意味のない人生を、「罪」を与えることによって意味付ける。その「罪」からは神に従うことによってのみ逃れることができる。

    自分の心の中の苦悩に自虐的な快楽を覚える101

    自分では決して償うことのできない負債を負う(生まれた時、既に罪を背負っている)

    「罪人」という烙印を押されることによって自己を救う

    神の前にひれ伏し、許しを請うしかない「人」のでっちあげ

    「われわれは自分の存在の意味の問題に苦しんでいるので、苦悩という最も強い潜在的な力をもっていたものに意味が与えられて、そのマイナスのパワーがプラスに転化することは、大変喜びなのである。」

    第二空間

    「現に生きている自然的世界の彼方に、そうあっ て欲しい欲求を投影した別の世界を、それこそが真の世界だとして捏造すること、それが ニーチェ的な意味での形而上学である。」
    芸術至上主義、超現実主義

    「単に理想や理念に過ぎないものこそを真に実在すると見なす倒錯的な精神のあり方」

    「真実は醜い。真実によって亡びないために、われわれは芸術を持つ。」

    内部における外部の捏造 真実の援護射撃

    「真理とは、それなしには特定の種類の生き物が生存できなくなるような、ある種の誤謬である。結局は生にとっての価値が問題なのだ」
    これが正しいとすると、この主張もその「真理」に相当してしまう。(嘘つきパラドックス)
    もう一つの解釈は、この文章は例外的に「誤謬」には含まれないとする解釈。

    第1空間……神(共同主観)の不在、その論理的証明
    第2空間……神不在の世界での、神に代わる存在、または新たな神についての考察

    宗教の考えが「生きる知恵」としてではなく、「真理」そのものとして扱われることに対する批判

    腐敗した退廃的な生がその真理を必要しているだけ、という問題

    パースペクティブ主義 環世界と同じかな




  • あるところで薦められていたので読んでみました。
    この本を読むに足るだけの知識が自分にはなく、読み進めるのになかなか苦労しましたが、ニーチェの「神は死んだ」について、何となくは理解できた気がします。
    が、著者も書いているように、本書は著者が思うところのニーチェであって、ニーチェには、もっと多面的な見方があると思うので、時間を見つけて、他のニーチェ本も読んでみたいと思います。

    哲学もそうですが、人文科学や社会科学は、数学でいうところの公理ほどは、確実な土台がないので、根本的なところを考えだすと、なかなか厄介ですね。
    まあ、それはそれで面白いところはあるのですが。

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著者プロフィール

1951年生まれ. 専攻, 哲学・倫理学. 慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位所得. 現在, 日本大学文理学部教授.
著作に, 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房, のち講談社学術文庫),『転校生とブラックジャック──独在性をめぐるセミナー』(岩波書店, のち岩波現代文庫), 『倫理とは何か──猫のインサイトの挑戦』(産業図書, のちちくま学芸文庫), 『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書), 『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版), 『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店), 『ウィトゲンシュタインの誤診──『青色本』を掘り崩す』(ナカニシヤ出版), 『哲学の密かな闘い』『哲学の賑やかな呟き』(ぷねうま舎), 『存在と時間──哲学探究1』(文藝春秋), 『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』(春秋社)ほかがある.

「2022年 『独自成類的人間』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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