マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061589315

作品紹介・あらすじ

マルクス=ヘーゲル主義の終焉において、われわれは始めてマルクスを読みうる時代に入った。マルクスは、まさにヘーゲルのいう「歴史の終焉」のあとの思想家だったからだ。マルクスの「可能性の中心」を支配的な中心を解体する差異性・外部性に見出す本痛は、今後読まれるべきマルクスを先駆的に提示している。価値形態論において「まだ思惟されていないもの」を読み思想界に新たな地平を拓いた衝撃の書。亀井勝一郎賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  •  マルクス『資本論』で論点となる「価値形態論」を、著者の柄谷行人が一読者として、これまで思惟されていなかった思想を読み解き、それを我々読者に向けて語っていくという、一般的なマルクス関連の本とは一線を画した構成となる。読んでいくとわかるが、本書はマルクスのみならず、ヘーゲルや ソシュールなど近代以降の哲学者の思想や用語も引用されており、考察される内容も抽象的である。したがってこの本は決してマルクスの入門書とはいえず、むしろマルクスが生涯をかけて遺した思想を、柄谷が改めて編纂して独自の思想を展開する一種の思想書と 言うべきであろう。したがって、本書を読む前に、『資本論』の要点をおさえたうえで読んだ方が話の論理についてこれるかもしれない。
     ちなみに、柄谷はマルクス主義者にありがちな共産主義、革命といった左翼的な面を捨象しており、資本主義社会の「主義」という考えそのものを、ひとが任意に選択できるものでないと喝破している。この点が従来のマルクス主義者とは異なった独自性を帯びている。

  • マルクスの仕事を、古典派経済学という形而上学によって隠蔽された「起源」に向けての遡行として読み解く試み。

    人間は平等だという思想の背後に、弱者のルサンチマンを見いだしたのはニーチェだった。このようなニーチェの思想を、「自然」と「社会」の序列を転倒したと理解するのは誤りである。単なる優先順位の置き換えは、価値の序列が存するという前提に対する根源的な疑いではない。ニーチェの洞察が優れているのは、「平等である」ということの理解を私たちがどのようにして獲得したのかという「起源」への問いが隠蔽されることで、はじめて平等という価値に基づく一つの遠近法が成立したということを見抜いたからにほかならない。

    著者は、「等価交換」という経済学の前提を「起源」に向けて問うてみせたところに、マルクスの仕事の真の意義があると主張する。ひとたび「等価交換」に基づく思考が成立した後では、あらゆる生産物がその形式のもとで相互連関を形づくることになる。こうした洞察は、ソシュールが言語学にもたらした革命と同様の意義を持っている。「価値」という実体はどこにも存在しない。あるのは、シニフィアンとしての等価形態と、シニフィエとしての相対的価値形態の体系における差異の戯れだけだ。マルクスの唯物論がめざすのは、「価値」の形而上学を否定することにほかならない。

    このほか本書には、武田泰淳の『司馬遷』に歴史的秩序の「起源」への問いを読み取った論考と、漱石の文学のうちに「自然」や「文学」という制度の「起源」への問いを読み取った論考が収録されている。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/739975

  • 貨幣を言語のアナロジーで解釈し、逆照射して言語の問題に迫る著作。マルクスの『資本論』のテクストを解釈して、マルクス主義はもとより、マルクス自体の「一般的価値形態」「歴史的条件」なども乗り越えて内的体系を解釈する。それが外在的なイデオロギーなしでテクストの微小な差異を読み取ること、すなわち「読む」ということ。作者-作品-読者の関係は、三項の一方向ではなく、それぞれ二項ずつの独立関係にあり、読者が一定の思想を持った「作者」を作り出す(ヴァレリー)。マルクス主義による"真のマルクス"ではない、『資本論』の読み直し。
    『資本論』の価値形態論が、ソシュールの言葉の差異の体系を援用して説明される。商品同士の差異の体系が価格で、二つの体系の差額が剰余価値である。言葉における「音声を表した文字」と同様、商品において「価値を表した価格」と意識の上では思わされるが、実際には言葉同士の差異、商品同士の差異によってはじめて価値が定まる。そこにはコミュニケーション・交換があり、プロレタリアートは通俗的解釈と異なり、持たざる者ではなく、労働力という商品だけを持った商品所有者である。労働と成果物の時間的差異による、産業資本の相対的剰余価値から、人間の欠如と目的性、学位論文におけるエピクロスの偶然的偏差の自由と主体性の議論と接続し、差異の哲学を読み取る。革命は新しいものを作り出すことではなく、現状との差の変化に追いつくこと。フロイトの無意識の体系、ニーチェの哲学者の自己特権化批判などを引いて、マルクスの意識的体系に現れない、内的体系を見出す。ドイツ哲学批判『ドイツイデオロギー』、フランス政治的言説批判『ブリュメール18日』、イギリス古典経済学批判『資本論』それぞれ実際にその国の外に出て批判する。ヘーゲル哲学の外に出るには、その用語を放棄する必要がある。思想の変化は文体の変化。われわれが考えるのではなく、言語が考えさせる。『資本論』のテクストを超えて、言語体系そのものの問題を考える、文芸批評家ならではの読み方。思考の接続が刺激的なポストモダンブームの先駆け的作品。
    本書に収録されている文学評論も差異の体系と形而上学的暴力性の問題が継続されており、階級、歴史、そして文学へと接続する。文庫版あとがきが本論に迫る熱量で読み応えがある。
    テクスト中には全く書かれておらず、まさに非中心化されているが、差異の体系を言語貨幣に適用することは、人間にも適用できるように思える。つまりそれは実存的に読むことを意味する。自己の価値・意味は内在しておらず、そのためいくら見つめ直しても自己の価値は見つかることはなく、世界あるいは他者との差異の体系の中へ"命がけの飛躍"をしてはじめて規定されるということにほかならない。
    ・マルクス、その可能性の中心
    古典は、外在的なイデオロギーを無視して、その可能性の中心において読むしかない。『資本論』は古典経済学のテクストに対するマルクスの読解で、それ以外にマルクスの思想を求めるのは間違いだ。『エピクロスとデモクリトスにおける自然哲学の差異』において、ヘーゲルの『哲学史』のごく一部分に関する異議こそ、誰もとったことのない道への一歩だった。デモクリトスの必然的なアトムの運動に、エピクロスの偶然、逸脱、偏差を加えたことは、通念では改悪とされたが、マルクスはそこに自己意識、すなわち人間の主体性や自由の根拠を見出した。微細なディテールにおける差異を明証することで、同一性の場を解体する。概念形成は個別の差異を捨象して同一性を見出すことにある。『資本論』価値形態論は、商品の偏見を取り除き奇怪さを見出した。マルクスにとって、読むことは原形に対し差異性を見出すこと。メタフォリカルに読むこと、ふたたび恣意性においてみること。「まだ思惟されていないもの」が露わになることがその作品の豊かさである。
    古典経済学は商品を使用価値と交換価値とした。価値は異なる使用価値との関係においてある。シニフィエ(意味されるもの)である相対的価値形態とシニフィアン(意味するもの)である等価形態のシーニュ(記号)である結合。マルクスは「一般的価値形態または貨幣形態」の不可避性を説くが、むしろこの「総体的または拡大せる価値形態」こそ、「一般的価値形態または貨幣形態」を非中心化した関係の体系。ソシュール、レヴィストロース的。しかし、問題はなぜ中心化が起こるのかであり、構造主義者のように「中心のない関係の体系」で満足することではない。ゼロ記号。シニフィアンシニフィエ、文化と自然の二項対立では、いまだ形而上学である。マルクスもまた使用価値と価値の貨幣の形而上学。異なる人間的労働を「無意識に」相互に等置する。意識できるのは貨幣であり、そこから経済学は出発する。弁証法は後からの合理化にすぎない。
    ニーチェ『道徳の系譜』、罪の意識と憎悪の罰、損害と苦痛を債務と債権の関係において捉えた。根底には等価であるという思想がある。等価とは何か、経済学を問うこと、マルクス『資本論』冒頭。ニーチェ、概念は等しからざるものを等置することにより発生する。メタフォアにより、メタフォアがメタフォアでなくなったときに発生する。
    世界宗教は、古代資本主義の貨幣経済を背景とし、人間の平等という概念が生じた。貨幣を問うことは唯一者を問うこと。古典経済学は、商品に人間的労働が内在すると考えたが、これは貨幣、共通の実体があると想定すること。キリスト教の神が一人一人と関係するのと同様。商品が労働によるというのが一般的である社会においてはじめて「人間は等しい」という考えが生まれる。
    ひとが書くのは、話すことによっては言い足りぬ内面があるからだ。音声を表記しただけの文字、価値を表記しただけの貨幣、そのように単一なものに同一化させる、すなわち形而上学的に想定してしまうが、それらによって初めて可能になったはずの意識に、差異の体系が覆い隠される。直接的交換こそ意識の産物。貨幣が単に価値の表示なら、剰余価値はあり得ない。ヴァレリー「芸術についての考察」作者と作品、作品と観察者は完全に独立した関係だからこそ芸術に価値・力があり、それは経済学における生産と消費の間の関係と同じ。ヘーゲル美学批判。ヴァレリーのいう価値は剰余価値。理想的な透明なコミュニケーション(交換)こそ、音声的文字=貨幣が生み出した形而上学的な抽象。利潤を得ることを不等価交換とすることは、商品の内在的価値の等価交換を想定する形而上学であって、文字を蔑視すること。二つのシステムが媒介されるときにのみ不等価交換あるいは剰余価値が必然性をもつ。種族、国家、共同主観性、体系、制度。ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』論理学は同一のものがあるという前提、数学は絶対的な量や図形がある前提に基づくが、現実にはない。同様に、貨幣形態の数量的表現は、価値形態を隠蔽して可能になる。G貨幣-W商品-G'(G+ΔG剰余価値)は、二つのシステムにおける価値関係の体系の差異によって可能であり、W-G、G-W'が等価交換でも剰余価値が発生する。
    世界市場が発達すると、自足していた地域は貧困化し商品生産に転化せざるを得なくなるが、差異の解消により剰余価値を得る商人資本の必然。投資ごとの剰余価値より、年利潤率が高ければ、資本は剰余価値に無関心になる。均等化される一般利潤率に基づき利子率が形成され、資本は自己増殖するかのような幻想となる。産業資本においても二つの価値体系の差から剰余価値が生じる。産業資本の剰余価値は、労働力と生産物の差。労働の延長による絶対的剰余価値、労働の生産性を上げる相対的剰余価値。マルクスは、貨幣形態から与えられる社会的な労働を必要労働としたが、剰余労働とは不可分である。労働契約は、意識的には等価交換に見えるというところに神秘性がある。労働力も商品形態の分析からくるもの。貨幣所有者が必要とする自由な労働者とは、自分の労働力を売ることができ、それ以外に商品がない者。商品所有者も交換ができ、それ以外に商品がない。プロレタリアートは、労働力という商品所有者で、資本制社会は、その商品を包摂したとき成立する。ブルジョワ法思想あるいはプロテスタンティズムと、囲い込み、すなわち商人資本によって生まれた。マルクスはこれを軽視し歴史的条件とした。労働力は社会的、貨幣形態によって定まるので、他の商品との関係体系にある。労働生産性は、分業協業機械に関わらず労働力の価値を相対的に下げるが、生産物の価格はそのまま送り込むことによって剰余価値を得る。現存と潜在の体系の中間。商業資本が空間的差異だとすれば、産業資本は時間的差異。差額は解消されることから、技術革新を動機づけ、条件づける。技術革新は、無益でも存続には不可欠。労働力の価値は下がり、生産物の価値も下がり、労働者の生活は改善するが、そのことと資本が剰余価値を得ることは矛盾しない。資本制生産の革新は、労働生産性上昇による、潜在的価値体系の創出にある。つまり貨幣と密接に関わる。資本制社会の発展には目的も理由もない。価値形態論は、歴史哲学そのものを批判する。古典経済学が例外とした恐慌を、マルクスは資本制経済に固有のものとした。フロイトの狂気同様。マルクスは、労働力と労働を区別したが、これは使用価値と価値の二重性で、貨幣形態の産物。区別は古典経済学の中にとどまり、労働力が商品になるという疎外論にとどまる。疎外されるという類的本質が明らかにされないまま前提される形而上学にすぎない。マルクスの「恐慌の可能性」とは剰余価値の条件でもある。恐慌のない理性による支配の社会主義は、経済学的にしか理解しないマルクス主義。恐慌は、価値体系が一瞬解体され、価値形態が露呈する。無意識の貨幣形態がいかに成立したかを照射する。
    初期後期マルクス論争は、いずれにせよ『資本論』を歴史主義的に読むことであって、透明な意味を期待している。しかし、『資本論』が重要なのは、テクストそのもの「商品」が問題にされたから、意識的体系と内的体系の差異があるからで、『資本論』を読むこと、すなわち解剖が他のテクストの鍵である。「人間の解剖は猿の解剖の鍵である」(経済学批判序説)。作者-作品-読者は一方向ではなく、読むことが一定の思想を持った「作者」を作り出す。テクストが不透明さをもって自立する。貴族の名誉忠誠、ブルジョアジーの自由平等など、誰もが自明とする概念は、階級的差異性を隠し、すなわち歴史が覆い隠す。これを見落とすと史的唯物論、エンゲルスの哲学になる。『経哲草稿』の当初の上部構造的な考えは、『独仏年誌』が黙殺された失敗により、「自分がこの世界の何者でもない」と露骨に味わうに至った。そして『ドイツイデオロギー』により哲学のイデオロギーを問うが、晩年においてもマルクスは『資本論』の著者という一存在にとどまる。言語体系によって、外界から隔離されるとどんなに現実的だろうと、精神錯乱的な自己解釈の夢の中に留まる。ドイツ哲学を外から見たとき、マルクスにとって哲学的言説が病理学的徴候となった。あらゆる立場を常に不安にし、宙吊りにする立場。移動であり、解読する立場。実践や街頭に出ることではなく、解釈を解釈する立場。イデオロギーは妄想ではなく、真の意識あるいは真理で客観性としてある「物」である。任意のデータを真理とする認識論的パラダイムが逆にデータを見出させる。イデオロギーとは真理の意識。哲学者の「真理への意志」そのものを解釈する。哲学者というシニフィアンは、真理という価値の中に隠蔽する。階級闘争は自明の思想を疑うことにある。『ブリュメール18日』人間の歴史は、与えられた環境でしか作ることができないため、過去の亡霊からそのイデオロギーを借り演じる。ヘーゲルの世界史的個人ナポレオンのその甥が何の理念もなく、叔父の幻影にのっかり権力を獲得したが、そこでは歴史の狡知はファルスにすぎない。分割地農民は交通面で孤立しているため、階級としての意識的言説が政治に現れることはない。ボナパルトは無意識の無制限な統治権力として代表される。差異を解消する王として君臨する構図は、一商品が貨幣となるのと同様だ。
    ドイツ哲学に物質的な経済的下部構造が抑圧されていた。イデオロギーとは、自然的で自明な事実のこと、自己充足的透明概念(意味)のこと。ドイツ哲学、フランス政治的言説、イギリス古典経済学。レヴィストロースの思考に活気を与えた『ブリュメール18日』『経済学批判』。一見実在しないものの実在を直観する眼と文体。しかし、内的構造のような本質と、形而上学的なありふれた思惟の現象の二元論ではなく、自明とされている概念に隠蔽された、根源的な差異を見出すこと。現実的感覚の対象を持つ感性的な受苦性と、苦悩を感受し対象に努力を向ける情熱性を持つ二重的な人間(『経哲草稿』)。対象や関係は、遅延化(差異化)の中ではじめて存在する。対象物は欠如-表象(意味作用)のなかで形成される。意味は語と語の間に生まれる。デリダ差延化。エピクロスの偏差による自由や主体性。相対的剰余価値は労働と成果物の時間的なズレ、欠如-目的-対象により生じるが、社会を一工場と捉える社会主義的マルクス主義は一資本家と変わらない。スターリニズムは主体性の絶対化であり、超越論的意識、意味、形而上学、宗教に由来する権力主義。マルクスは、人間の目的性や主体性の倒錯を解体しようとした。共産主義とは状態や理想ではなく、現状を止揚する現実の運動。
    →デリダ脱構築
    交換において価値を等置することにより、人間的労働を等置するに至る。人間は解決可能な問題だけ提起するため、目的意識性それ自体が遅延化に基づく受苦性に発している。革命は変化に追いつくこと。苦は取り除くべきものではなく、偏差、戯れである。
    マルクスは、『ドイツイデオロギー』で文体が変わり、いまだヘーゲルの問題体系内にあるドイツ哲学の外に、つまり哲学用語が通用しない言語体系に出る。思想家が変わるとは、文体が変わるということ。ヘーゲル哲学からの離脱がヘーゲル用語の放棄にあった。われわれが考えるのではなく、言語が考えさせる。ヴァレリー、哲学者は永遠の異国人として普通の事柄にびっくりしなければならない。マルクスは商品という普通の事柄に驚いた。ニーチェ『善悪の彼岸』文法的機能による無意識の支配と指導、すなわち生理的価値判断と人種条件の呪縛により、哲学者はどんなに異なっているように見えても一つの体型に属し、発見ではなく再認識、回想、共有財への復帰、帰郷。西洋のbe動詞は繋辞として存在論と論理学を不可避のものとする。マルクスは、価値の存在を関係に言い換えた。価値は使用価値によって意味される。ハイデガー『ニーチェ』ニーチェはプラトン主義を脱するために、超感性的な真なる世界を転倒して、感性的な見せかけの世界を本来的存在者に位置づけたが、プラトン主義の上下構造を想定する時点で脱することはできない。二項対立をどちらも放棄することでプラトン主義から転回脱出することができるが、そのことによってニーチェは狂気に襲われた。そして、ハイデガーもまたニーチェの「存在」を存在論的に再解釈しただけで、その文法から抜け出ることはなかった。それが困難ということ。『資本論』では、逆にヘーゲルに忠実であることでヘーゲルを否定する。
    ・歴史について-武田泰淳
    死は、死者を葬式で追放し、忘却し不在に慣れることで可能になる。『史記』始皇帝の死が遅延される。中心の不在により、その真空に怯える宦官。諸個人は「面」として、関係の体系においてのみ意味をもつ。泰淳の科学的物理的仏教的認識の『史記』的世界は、記号論的世界だった。歴史は、出来事が神話的構造から分裂してしまう時に、書くことによって、統合するために作り出されるもの。
    ・階級について-漱石試論1
    『坑夫』外界喪失、人格的統一性を失って地底を彷徨う。シンボリックな地底と以後の小説の内的構造を示唆。しかしかつての著者の思考に違和感がある。
    →村上春樹の井戸、『カフカ 』『ねじまき鳥』、地底『世界の終わり』
    三池闘争、石炭から石油へという生産様式の変化、存在が意識を規定する。しかし、石油への移行よりも石炭、蒸気機関の原体験には敵わない。レヴィストロースの熱い社会における蒸気機関の比喩も、18世紀古典力学の時計的社会から、蒸気機関に変わったエントロピーの概念に基づき生まれたものだ。マルクス『資本論』の機械の考察、蒸気機関が個人や自然条件から解放し、資本制生産が可能となり貨幣経済を通して全ての生産を包摂する。労働者は機械の一部にすぎない。フロイト、意識は心の一部にすぎない。ニーチェ『力への意志』、永劫回帰をエントロピー的に説明。これらの飛躍的転回、構造主義は余波や注釈にすぎない。古典的な知の転倒。漱石『坑夫』の主人公は、地底で1日彷徨っだけで参り、翌日からは事務員として優位に立つ。漱石は古典的知に属している。地底は市民社会から排除された者の苦痛の場所であるが、快楽原則の世界でもある。漱石『道草』のヒステリーを中間階級の男女の関係における緩和剤として描くなど、抑圧された欲望の象徴化機構を逆説的に捉えた。有島武郎『或る女』無意識の欲望を舟底の水夫たちとして描き、中間階級の自己抑圧的な意識を破壊するものとして欲望がある。階級は現実的なものではなく、解読さるべきもの。有島武郎は儒教的ピューリタニズムとの内的階級闘争があり、キリスト教の霊と肉の葛藤を転倒しなければならなかった。マルクス主義においてプロレタリアート、全人類の解放の疎外論はキリスト教ヘーゲル的である。しかし、日本ではマルクス主義自体が転向棄教の倫理的問題を生み出した。漱石は、文明は自らを抑え、礼儀作法人倫王常を重んずれば負け、勝つとはpower,willであるとしている。漱石のwillを殺すという苦悩は、1950年代以降、人間の普遍的な姿とされ、非歴史的思考が実証主義に補完される。漱石論再考は、知的基盤の解体。
    ・文学について-漱石試論2
    漱石『文学論』自然で親和的な漢文学・俳句と、居心地の悪い英文学。漱石は家族を自然として受け取れなかった。父と養父に物品として交換された。ソシュールの言語体系における恣意性は、一旦成立したあとではアイデンティティが自明となるので、取り替えは禁じられる。超越論的イデアがあるかのような形而上学が制度化する。親子の自然さは、始原的なものではなく、派生的なイデオロギー。制度の派生物を自然なものと受け取ること、すなわちアイデンティティが漱石にはない。それが不安。制度の結果としての自然を、漱石はそもそも存在しないという疑いをかける。正常な家庭こそ交換可能な起源を隠蔽しているのではないか。始原のシニフィアンにおける取り替えを禁止することで意識は成立し、禁止は隠蔽される。漱石にとって関係は、男二人女一人の三角関係で、場所における女の恣意性に従属される。入れ替わることがあり得た、敗北した男にもう一人の自分を見る。男の愛はもう一人の男がいるから燃える。フロイトの欲望のように、三角関係において関係が形成される。言語体系と同様、関係たらしめるのは結合の恣意性と、排他性。制度そのものが三角関係を形成する。
    漢字が表意文字であるのは、日本語においてだ。漱石の漢文学は排他的体系の外、漢詩や山水画のような風景。風景への注目は内的な転倒、無意味なものが意味化することによる。内部、自己。明治の言語における中央集権的な言文一致は、地方の人間の音声的な意味での標準語への暴力性がある。柳田國男の民俗学における方言が排除抑圧された精神的活動を復権する企て。自分自身に最も近い声としての「言」が、「文」に変わることで意識=内面が表出される。文学の近代的自我は言=文において生じた。風景とは言葉。漱石にとって山水画は漢文学同様に存在しないもの。漱石は英文学を志向したが、欺かれた感じは自らの選択であり、自らを欺いた。漢文学は明治国家の知「以前」のもの。漱石は自らの選択に疑いと悔いを持ち続けた。友人を裏切るモチーフもここにある。フーコー、文学は19世紀西欧における支配的観念であり制度。漱石は西欧文学をたんに地方性として見ることができるような視点を確立することであったが、それは歴史主義そのものの歴史性を問題にすること。
    漱石『創作家の態度』自国文学が幼稚だと自白することは、西洋文学が標準だというのでもなければ、同様の性質に発展しなければならないということでもなく、科学同様に一本道ということでもない。西洋の文学史は唯一ではなく、実際には無数無制限にあり、幾通りも頭の中で組み立てられて、条件さえ具足すれば実現可能なはずである。歴史や主義ではなく、作家も時代も離れて、作品の特性、すなわち形式と題目によって分類することが必要だ。
    組み替え可能なものから恣意的な一つの構造が普通なものとみなされる時、歴史は必然的で線的リニアなものになる。
    ・あとがき
    日本に閉じこもっていたら、他の思想家同様に受けとるばかりで出すものがない、思想の生理学的な自家中毒に陥る。本質的な思想家は多義的だが、特にマルクスの多義性は、盲点が増幅されて、深刻な問題をもたらしている。ポールドマン、明察は盲点のなかでのみ可能。プラトンのテクストが反プラトン主義の宝庫であるのと同様にマルクスを読む、そして読むということ自体を問題にする。文学も哲学も言葉に変わりがない。小林秀雄、唯物史観の物は観念でも物質でもなく言葉。言葉の魔力をとれば影でしかない。言語学者は言葉、経済学者は商品に驚きがない。
    "それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。"
    漱石については書かないと公言していたが、戻ってしまう。思考の確認だけでなく、読まずに私の思想は存在しない。
    "私がそれを選んだのではなく、それを選んでいることが「私」なのだろうから。"
    ・文庫版あとがき
    本書は序説で、本論は『近代日本文学の起源』。マルクス論は視点にとどまるが、言語=貨幣のアナロジーに固執した。売ることで事後的に価値がはじめて与えられる"命がけの飛躍"(マルクス)。規則は常に事後的で、その都度変更される。これが本書で強調されていないのは、ソシュールの交換規制の暗黙の体系(差異体系)を想定したため、剰余価値における資本の差異化=同一化運動の解明に終始することになった。そして、ソシュールの「言語は形式であり差異しかない」ということから、形式体系一般、規則を問い、規則はどこにあって、どう従うのかを問うにいたる。ゲーデル、それ自身で自立する不可能性。実践を離れて存立しえない。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』、話すことは自然史。クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』、社会に受け入れられないならば、その人は規則に従っていない。語の適用は暗黙の跳躍、適合するように解釈されうる。
    商品に私的な価値づけがあろうと実際に売れるかどうかは"命がけの飛躍"である。言葉も意味を他者が認めなければ成立しない。
    →実存もその人の価値が認められて事後的遡行的にあるいはネガティヴにしか成立しない。私的に自らを肯定しようと否定しようと全く意味をなさない。内省的な問いは、社会の中でしか解決されない。だが、問いそのものは私的にしか醸成されえないのではないか。
    商品における使用価値と価値がどちらも先行しなければならないパラドックスは、合理的に交換を説明しようとするところから生じる。このダブルバインドを乗り越え、盲目的に無根拠に相異なる商品を等置することで、事後的に共通の意味・規則を与える。内的な意味・規則から出発してしまうことがイデオロギー。考えることとやることのギャップは、語が別の意味を持たざるをえない不可避性で、マルクス-ウィトゲンシュタインの自然史的悲劇的な認識。売る-教える立場から考えた。
    →思考は視点で決まる。違う見方がしたいのであれば、視点を変えること、人に伝える時も立っている場を置き換えれば論理的に理解できるはず。
    意味(価値)がある以上、意味(価値)はどこかにあるはずだ、それはどこにあるのか?という問いこそ「買う-聞く」立場によって不可避な罠。ソシュール、古典経済学モデルだと、交換手段にすぎない言語、貨幣は排除されている。
    内的言語(形式+意味)-言語(音声・文字その他)-内的言語(形式+意味)
    商品W1(対象物+価値)-貨幣G-商品W2(対象物+価値)
    →むしろ言語-内的言語-言語、貨幣-商品-貨幣で、言語の差異、貨幣の差異によって規定されている。
    一般的等価物=貨幣のマルクスの比喩、「動物」という動物界全体の個体的化身が存在しているようなもの。貨幣という外部性=超越性を体系に再導入した。経済学、言語学は自動調節機能あるいは見えざる手のような、結果としての法則性から出発する。土地や人間のように、純粋資本主義が生産できない背理としての外部性が起こす景気循環によって、資本制経済は存続しえている。マルクスは、貨幣の外部性を体系内に見出すことで、資本制経済の自己完結システム的な幻影を内側から破ろうとした。

  • [出典]
    「世界史の実験」 柄谷行人

  • 絶対的な作者が個々の作品を規定するのではない。逆に作品が“作者”を作り出すのである。だからマルクスを可能性の中心において読むということは、むしろテクストの外部に超在するような「透明な意味」に回収し得ない断片こそを拾い上げることなのだ。たとえばそれは何か?柄谷は言う、価値形態論であると。つぎつぎと顛倒やイロニーを見出し(作り出し?)、所与のものとなってしまった固定的関係を恣意性のもとに引き摺り戻す、良くも悪くも文芸評論家らしい視点と手法。

  • マルクスを知らずに読んでしまったのが間違いだった。
    面白かったんだけど、多分面白いのはマルクスの資本論で語られていることがほとんどで、この人がいう「マルクスがまだ語っていない部分」の面白みは分からなかった。
    比較から生まれる価値の創造の話、価値の依存関係の話、それにどっぷりつかってしまっているわたしたちの価値観の話、は、やっぱりマルクスの発見だよね。
    だからマルクスの資本論を読んでからまた読もうと思う。

    あと、気になったのは、「○○はこう語っている」+引用とその解説で頻繁に文脈がちょん切れること。程度問題だけど解説が長く本題に戻るのが遅いのでだれる。

    漱石の話は、意識していない部分で階級制が見えるんだよってのはわかった。

  • [ 内容 ]
    マルクス=ヘーゲル主義の終焉において、われわれは始めてマルクスを読みうる時代に入った。
    マルクスは、まさにヘーゲルのいう「歴史の終焉」のあとの思想家だったからだ。
    マルクスの「可能性の中心」を支配的な中心を解体する差異性・外部性に見出す本痛は、今後読まれるべきマルクスを先駆的に提示している。
    価値形態論において「まだ思惟されていないもの」を読み思想界に新たな地平を拓いた衝撃の書。
    亀井勝一郎賞受賞。

    [ 目次 ]
    1 マルクスその可能性の中心
    2 歴史について―武田泰淳
    3 階級について―漱石試論1
    4 文学について―漱石試論2

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • マルクスの著作をなにひとつ読んだことがないので、正直、マルクスについて柄谷が述べていることは十分に理解できていないと思う。

    しかし解説で小森陽一も触れていたように、柄谷がマルクスを通して、差異のなかにある同一性を見出し、それからむしろこちらの方が重要なのだが同一性のなかにおいて微細な差異を比較し、そこから再び同一性を発見する、という過程を論じ、さらには同時にこの『マルクスその可能性の中心』というテクスト全体において体現していることは、おぼろげながらも感じられた。

    決して簡単に読めたわけではないが、それでも(引用に登録してあるが)、「革命」がなにかを「創出」することではなくすでにおこっている「変化」に追いつくことである、というくだりや、死と不在を葬式と関連づけながら「葬礼も死の一部なのである」と述べたくだりには、思わず居住まいを正さずにはいられなかった。

    こうした一節/一説に出会えただけでも、読んで良かったと強く感じ入る。

  • 今の時代にあえて『資本論』を読もうと思ったとき、読者は「価値」や価値形態、剰余価値、労働と労働力、といったマルクス主義の用語を発見し、読書の苦労に対する満足感を一時は得られるかもしれないが、しかし直ちに、それだからどうだというのだという疑問にかられるのではなかろうか。私はそうであった。資本論一巻は、普通に呼んだのでは、古典派と同じ労働価値説の立場から搾取の存在を示して見せただけの著作である。そんなこと今となっては改めて証明されるまでもなく誰でも知っていることであり、問題はその先にあるのだとうことは、社会生活を営んでいればおのずと明らかである。

    柄谷のマルクスの読み方は、「転倒の転倒」という平凡極まりない読み方しかできない読者にとって、非常に心強いものである。ヘーゲルにとらわれているマルクスを、柄谷と一緒に開放し自由に羽ばたかせているような気分に浸れる。そんな節操ない迂闊な読者であるからマルクスもまともに読めないのだといわれればそうかもしれないが、今の私には柄谷の著作が楽しいのだ。

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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