存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (478ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061593831

作品紹介・あらすじ

フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化したユダヤ人哲学者レヴィナス。戦争の世紀の証人として生き、「平和とは何か」の問いを極限まで考察したレヴィナスは、本書において他者への責任とは他者の身代りになることだと説く。『存在と時間』(ハイデガー)以降最も重大な著作とされ、独自の「他者の思想」の到達点を示す大著の文庫化成る。

感想・レビュー・書評

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  • 存在(~である)から当為(~すべき)を導けるか否かについては山ほど議論があるが、導けないというのがどうやら定説のようだ。レヴィナスもそう考える。それでも人々は倫理について語る。なぜ人を殺してはいけないか?。レヴィナスは答える。なぜだかはわからない。だが殺すなという命令が聞こえる、その命令に否応もなしに(強迫されるがごとく)従がってしまうのが人間というものだ。以上。これだけのことを言うためにこんな分厚い本を書かないといけないのかと言いたくもなるが、レヴィナスの主張はほぼこれに尽きる。

    もちろん立ちどころに疑問が湧くだろう。命令?誰が?何のために?俺にはそんな命令聞こえないけど・・・それに対する明確な答は本書にはない。じっと胸に手を当てれば聞こえる筈だと言わんばかりだ。だがレヴィナスはヒントを与える。想像してみよ、今、まさに殺されようとする人の顔をお前は凝視できるか?その眼差しを正視して平気で銃を撃てるか?何やら預言者のようだが異様な説得力がある。殺してはいけない理由などない、ただ私には殺せない。

    レヴィナスは倫理の基礎づけをあくまで拒否する。基礎づけとは概念による整除であり、人間とは斯々然々であるところのものである(存在論)ということを起点に倫理を導こうとする。だが人間を概念で覆い尽くすことはできない。概念による同一化から絶えずズレていく差異を孕む無限なるもの、それが人間であり「他者」である。自己と隔絶した知解不能の「他」なるものだ(※)。しかし概念、つまり言葉とは元々「他者」に向けて発せられたものだ。ならばそこに立ち戻って「他者」に身を晒すこと、そして究極的には「他者」の「身代わり」となる責任を負うことが倫理であり、人間が言葉(意味)を持つことの意味、つまり「意味の意味」なのだ。

    と断定的に書いてしまったが、これは拒否した筈の「人間とは斯々然々である」という存在論の語り口そのものではないか。レヴィナスの前著『全体性と無限』に対してデリダはまさにこの点を突いた。本書は明らかにデリダの批判を意識している。レヴィナスが本書でとった方法は、概念への批判も概念でやる他ないという矛盾は避けられないが、同じことを繰り返し「語りなおす」(「前言撤回」という訳語もあるようだ)ことで、その極限に言いたいこと「X」を指し示すというものだ。実にシンプルなメッセージながら分厚いのはそのためだ。であればこそ紙面を灼き切るのような言葉の炎が執拗なまでに叩きつけられる。その文体は尋常な哲学書にはない力がある。哲学というより文学だ。本書の最大の魅力もそこにある。

    (※)ちなみに他者との相互理解どころか知解不能性をコミュニケーションの成立条件とするレヴィナスの考え方は特異だが、一面の真理を鋭く突いている。ミードの「シンボリック相互行為」やそれに着目したハーバーマスの「討議倫理」、また和辻哲郎の「間人主義」やブーバーの「我と汝」などが想定する予定調和的な世界を断念している。レヴィナスの発想は盟友ブランショの「明かし得ぬ共同体」に通じるが、土地に根差した共同体から排除された異邦人としてのユダヤ性なのかもしれない(ブーバーもユダヤ人ではあるが....)。さらには倫理と理論理性を切り離したカントに共感しつつも、内なる格率に従う自律性に自由を見出したカントとは違い、レヴィナスが倫理の徹底した他律性に拘わるのもユダヤの神と不可分だろう。

  • 面白かったですね。
    『全体性と無限』は既読でしたが、それと同様に困惑しましたし、その文学的な言葉づかいは本書でも目立っていました。
    もちろん(開き直るわけではないですが)、理解できない箇所のほうが多かったのです。そもそも理解などしたくて読書をしているわけではない、という側面もあります。少なくとも私の中には。
    よく分からないことを言っている人の声に耳を傾ける。分かろうとする。分からないなりに考える。思いを巡らす。ある程度生きてきて知ったような顔をすることもあるけれど、自分には歯が立たないこともあるんだ、と自覚する。そういう営みがしたいのだと思います。

    哲学が展開されている文章の多くがそうだと思いますが、その論理の在り方、土台、あるいはその土台の土台の部分から書き記されています。それはもう一つの「常識」なので、今手にしている「道具」が通用しなくなることもままあります。

    「自分の持ち物」が機能しないという非常事態を楽しむには充分な一冊です。

  • 感銘を受けたのは「可傷性」についての議論である。
    「可傷性」が「感受性」にほかならず、「母性」によって他なるものを懐胎し、他者の身代わりに痛みを感じることだとレヴィナスは述べる。
    「私」が他者の痛みを傷ついてしまう存在であることが示されていると言えるだろう。
    「私」という「同なるもの」は、「同なるもの」で閉じることなく常に「他なるもの」に開かれているのではないだろうか。
    レヴィナスの言う「母性」は必ずしも女性身体に結びつくものではない。
    しかし、「母性」や「子宮」という言葉を召還しつつ「可傷性」を語ることの意味はやはり問われるべきだと感じた。

  • 「存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ」 (朝日出版社1990年刊) の改訂
    原書名:Autrement qu'être ou au-delà de l'essence. (2e éd.)

    第1章 存在することと内存在性からの超脱
    第2章 志向性から感受することへ
    第3章 感受性と近さ
    第4章 身代わり
    第5章 主体性と無限
    第6章 外へ

    著者:エマニュエル・レヴィナス(Lévinas, Emmanuel, 1906-1995、リトアニア、哲学)
    訳者:合田正人(1957-、香川県多度津町、哲学)

  • 他の哲学入門書で面白そうな説だったから読んでみましたが、とりあえず字を追うことで終わりました。周りを固めてみようと思います。

  • 必再読 超名著

  • [ 内容 ]
    フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化したユダヤ人哲学者レヴィナス。
    戦争の世紀の証人として生き、「平和とは何か」の問いを極限まで考察したレヴィナスは、本書において他者への責任とは他者の身代りになることだと説く。
    『存在と時間』(ハイデガー)以降最も重大な著作とされ、独自の「他者の思想」の到達点を示す大著の文庫化成る。

    [ 目次 ]
    第1章 存在することと内存在性からの超脱
    第2章 志向性から感受することへ
    第3章 感受性と近さ
    第4章 身代わり
    第5章 主体性と無限
    第6章 外へ

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 人間性の新しい境位へと導く力がある。

  • さっぱりであった!

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著者プロフィール

1906-95年。フランスのユダヤ系哲学者。フッサール、ハイデガーの現象学に影響を受け、独自の哲学を展開した。東方イスラエル師範学校長、パリ第八大学、パリ第四大学教授などを歴任。主な著書として,本書(1961年)のほか、『存在の彼方に』(1974年。講談社学術文庫)など。

「2020年 『全体性と無限』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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