哲学の教科書 (講談社学術文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061594814

作品紹介・あらすじ

哲学は何の役にたつのか。哲学の問いとはどんなものか。哲学者とはどのような人々か。そもそも、哲学とは何か。物事を徹底的に疑うことが出発点だという著者は、「哲学とは何でないか」を厳密に規定することで哲学を覆うベールをはぎとり、その本質を明らかにする。平易なことばで哲学そのものを根源的に問いなおす、究極の「哲学・非‐入門書」。

感想・レビュー・書評

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  •  僕はこの本の著者、中島氏が好きである。氏は世間一般からみれば「社会人不適合者」なのだが、こういう人でないと哲学者にはなれないのかもしれない(氏の著作の一覧をAmazon等で参照されたい。とんでもないタイトルがずらりと並んでいます)。僕は小さいころから「死ぬ」ということがズッと気になって、25~28歳頃にこの「死」に対する恐怖心が異様に増して、それ以来不眠症気味で、睡眠薬なしでは眠れなくなってしまいました。

     その当時、「死」を分析している『存在と時間』という本の存在を知り、同書に関する解説本等やらをたくさん読んで、その当時は「本来的な生を自覚している俺って、人とは違うんだな」なんて、若気の至りで思いあがっていたのですが、それでも「死」に対する恐怖心は拭えない。ハイデガーの「死の現存在分析」も「確かになぁそうだよな」と感心するんだけど、でも「死」に対する恐怖を上手く説明してくれなかった。そういう時に、中島氏の書いた「死」に対する恐怖心に関する記述を読み、僕が持っていた「死」に抱いていた漠然たる恐怖心をとても的確に表現してくれていたことに、とても感動した。「僕だけが怖いんじゃないんだ。死をこんなにも恐れている人が他にもいるんだ」と思うとそれだけでも安心できた。

     「死」に対する恐怖に対する記述は、この本にも至るところに書いてあるし、氏の著作のほとんどにも書いてあるので参照してもらいたい。とにもかくにも「死」を契機にいわゆる哲学に興味を持ち、哲学関連本をいろいろと読んできたけど、哲学が究極の文系学問である以上、言葉遣いが難解であるのは必然的帰着だとは思う。それは解るんだけど、それでも一般の人が興味をもてる程度に解りやすく説明してもらいたい、という一定の読者層が向けの本の少なさたるや…。
     そういう「哲学とは何か」「哲学書の読み方」「哲学者の生活」が、哲学者でない我々一般読者にも解るように説明してくれるのは、この中島氏の他に、竹田青嗣氏、西研氏、(ちょっと敷居は高いが)木田元氏が挙げられる。僕はこうした、解りやすく説明してくれる哲学者が好きで、著作が出版されれば無条件で購入する数少ない著者である。

     哲学に興味がある、普通の生活に飽きた等の方々が、哲学入門書として読むには最適かもしれない。惜しむらくは、中島氏の著作を多く読んでいる(僕のような)人にとっては既知な部分が多いので、敢えて読むまでもないということです。もしこの本を読んで、「哲学って面白いな」と思えば、そこから先は多くの哲学者が書いた本を読む楽しみが増えるし、「よくわかんねぇな」と思えば、哲学に興味がなかったことがわかったという意味で有用だと思います。

  • ――哲学の教科書、なんてものはない、ということを透徹した著者によってつづられた哲学の教科書は自己矛盾と自己批判を経てつづられていく。そのあたりにツァラトゥストラの匂いを嗅ぎとった。哲学者は総じて胡散臭いが(学者であろうとも)、俺が認める哲学者は、「自ら苦悩しその実感を基に哲学している人間」である。「実感」のない哲学などは所詮、教養でしかない。そこに知の好奇心はあっても圧倒的な生々しさは見出せない。だが、そこにはある種病的なところがある。著者は、哲学をして、「病気に近しくて、凶暴性・危険性・反社会性的な思考に絡めとられた悪趣味」と評している。だが、個人的にはそこに一票を投じたい。哲学も、思想も、文学もなければなくていい。しかし、思考に絡めとられぬけ出せなくなった人間にとっては、絶対的に必要な分野なのである。そして、その人間は絶えず一定数存在しているのだ。それゆえに、ソクラテスやプラトンから始まり、ニーチェやハイデガーなどの著書は未だに読まれ続けるのである。

    ちなみに、ヴィトゲンシュタインは論理的哲学考において、哲学的な命題に解を出し切ったと考えたらしい。そこで一度哲学そのものに終止を打ち、だが、その後、別の尺度から哲学を再考した。ここに哲学の抱える一つの矛盾があるのかもしれない。哲学の目的とは答えを導き出すことなのか?しかし、違う。なぜならば、答えを出したところで思考はやまないからである。思考は巡り続ける。ヴィトゲンシュタインがもし、本当にそこで哲学を終わらせたかったならば、論理的哲学考を仕上げた時点で自殺しなければならなかった。しかし、彼は自殺しなかった。結果として、思考は巡り続ける。思考はとある一つの地点にとどまってはいられない。少なくとも、哲学という迷路に迷いこんだ時点でそいつは思考から不可分の存在となりうる。これは才能であると同時に、荷物なのであろう。では、哲学とはなんなのかと言うと、それはつまり考え続けるということに他ならない。考え続けるために考え続けているのではないか?無論、答えが出ることもある。しかし、だからといってほかの分野がある。その答えへの反証もある。思考はやまない。思考することこそが哲学の意義であるとするならば、哲学に終焉はない。いや、終焉を迎えさせてはいけないのである。だが、仮に答えが出尽くしたところで思考はやみはしないだろうから、そういう意味において哲学には終わりはない。それを知らしめてくれる一冊であったと言えるかもしれない。


    また、本著の特徴としては、哲学史概説となっていないところがあげられる。著者独特の哲学観みたいなのが所々提示され、しかし、深く追及する前にぱっと手を離され、後は自由にやってみてくれとだけ冷たく(温かく?)述べて次へと進んでいく。著者自身としては自らこう思うと断じているものの、批判はどんとこい、という鷹揚な姿勢をとっているあたりに哲学者としての評価が高まるように思う。権威に背を向けているのである。また、所々上げられている例などを見ている限り、地味に文学性を持っている方だと思われる。

  • なぜ読んだ?:
    同じ高校の友人がこの著者の本を好んでおり、高校時代に読むよう勧められもしたが、読むには至らなかった。
    時は過ぎ、小坂井敏晶『社会心理学講義』にてこの本が引用されており、哲学や哲学者に対する態度に感銘を受けたため、この本を読むことにした。

    感想総論:
    まえがきから、「哲学に教科書などないことをこれでもかと語った」と断言するあたりが痛快である。
    こういうやつは哲学者ではないとか、西洋哲学コンプレックスの話とか、大学時代の哲学病の話とか、実に熱の入った記述が印象に残った。
    いわゆる普通の"哲学の教科書"というのは、大抵が哲学史を概説したものであろう。対してこの本では、哲学とは何ではないのか、哲学固有の問いとはなんなのか、哲学者とはどんな種族かといった内容が語られている。誰がどう考えていたかを翻訳して横流しするのではなく、自分の頭で考えた思索を表現しているのが良いと思った。

  • 今まで多くの哲学書を読んでさっぱり理解できなかったが、この本を読んで理解できなかったのも仕方がないということが理解できた。所詮、哲学は言葉遊びであり、しかしながらその言葉遊びをしなくては人間は生きていけないということだろう。途中の哲学的考察はそれでもやっぱり難解。

  • 「高い倫理観」にこだわることが「低い倫理観」に対する倫理観の低さを生んでいる。
    学部のとき中島義道の本が好きだったけど、今はちょっと趣味が変わってきたような気がする。
    泥沼の倫理争いの一部に結局のところ絡みとられてしまうようなかんじがある。

    さらに日本においては哲学者ではなく哲学研究がメインであるという指摘があるが、大方のことは先人に言い尽くされてしまった感があるため何か新しいことを発見することが既存研究を解釈するよりも純粋に有用かとも言いがたい。さらに情報が簡単に入るようになったため、他の人が何を言っていないかを完全にチェックしようとすればそれだけで学者生活40年が終わってしまうのも当然のように思える。

    結局中島が批判しているはずの「人間性」の議論になってしまっている。科学の規範性の再来を求める声も多いが、その必要とされている規範性ともまたすこし違う気もするし。。。
    いずれにせよ、哲学卒業の兆しを感じさせてくれる本だった。「人への興味」の方向性がちょっと違った。

  • 第三章がおもしろく、ためになった。

    ・「今があるのみ」であり、自責の念は不要。
    ・「思うこと」と「意志」の違い。

    形や行動となって表れるものでしか、他人からみて、その人の「意志」は推察できない。

    腑に落ちる本でした。

  • 死刑囚から母への手紙は一見の価値あり。感動しました。

  • 書き手の中島義道のクセの強さに惑わされて、過去の読書でこの本の真価を見定められていなかったかなと反省する。改めて読んでみると本書の議論は私好みの話題である時間や自己の「知覚」についてで成り立っており、つまりごく素朴な/根源的事象を根底からあぶり出す試みから成り立っていると思った。それは下手をすると読者を「この世界は何でもありなのだ」と危険な思想(つまり「狂気」)に誘うかもしれないが、さすがに中島義道はそうした危険な発想を諌めて私たちを現在の哲学のムーブメントへと誘導してくれる。読み返し、また学びたく思った

  • 今読むとよいかもしれない

  • 哲学と思想の違いを学べたのが大きい。

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著者プロフィール

1946年生まれ. 東京大学法学部卒. 同大学院人文科学研究科修士課程修了. ウィーン大学基礎総合学部修了(哲学博士). 電気通信大学教授を経て, 現在は哲学塾主宰. 著書に, 『時間を哲学する──過去はどこへ行ったのか』(講談社現代新書),『哲学の教科書』(講談社学術文庫), 『時間論』(ちくま学芸文庫), 『死を哲学する』(岩波書店), 『過酷なるニーチェ』(河出文庫), 『生き生きした過去──大森荘蔵の時間論, その批判的解説』(河出書房新社), 『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)『時間と死──不在と無のあいだで』(ぷねうま舎), 『明るく死ぬための哲学』(文藝春秋), 『晩年のカント』(講談社), 『てってい的にキルケゴール その一 絶望ってなんだ』, 『てってい的にキルケゴール その二 私が私であることの深淵に絶望』(ぷねうま舎)など.

「2023年 『その3 本気で、つまずくということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

中島義道の作品

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