小説太平洋戦争(7) (山岡荘八歴史文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (348ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061950986

感想・レビュー・書評

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  • この巻は、硫黄島の戦いから。ここが占領されると、いよいよ本土まで爆撃機が来れてしまうということで、必死の防戦。しかし、ここでも2万人以上の人が死ぬことに。沖縄での決戦に向けて、徐々に民間人にまで被害が出始め、特に沖縄では、小学生までが戦闘員にさせられることに。現場では負けると思っていながら、突撃して死ぬことを主張するのが正しいのか、冷静に退いて生きることを取るのが正しいのかさえ、誰も分からなくなるような極限の戦争状態の悲劇を、改めて痛感させられる巻でした。

  • 第7巻は、硫黄島の戦いと、沖縄戦の開始。

    2万3千人が勝利の見込みない中で、しかし統率された中で闘い玉砕した硫黄島。本書で初めて詳しい状況を知った。本土に敵を近づるのを少しでも遅らせるためという目的の中で、勝つ見込みのない戦いに挑んだ人々。先日読んだ本の中で、硫黄島の滑走路は、この戦いのあと、米軍が兵士の遺体の上にコンクリートを敷いて作ったものだそうで、今でも遺骨がその下に眠っていると紹介されていた。想像を絶する戦争の状況。

    沖縄戦では、兵士の他に一般市民の犠牲が出る。著者も書くのがつらかったというように、この小説もいよいよ平常心では読めない場面が増えてきました。

  • 硫黄島。沖縄戦前夜。今日は建国記念日です。

  • そして舞台は硫黄島へと移る。この硫黄島には耕された田畑もなく,何よりも水がなかった。そんな島になぜ2万人以上もの兵を進め,司令部まで移したのか。また,アメリカ側も7万の大軍をひっさげてやってきて,一歩も退かずに戦っているのか。アメリカ側がさきに占領したサイパンから東京を爆撃するためには2千7百マイルの長距離を飛行しなければならない。それだけの航続力をB29はもっているが,これを実行するためには,護衛の戦闘機を同伴する必要があるし,燃料を多く積む必要があるので,爆弾の積載量に大きな制限を加える必要がある。それを克服するために,東京とサイパンの中間地点である小笠原諸島がターゲットになったのだ。小笠原諸島の一角である硫黄島を手に入れ,ここに飛行場を造ることで東京攻めの根拠地を一挙に1千3百マイルも縮めることが出来るのだ。従って,硫黄島が敵の手に渡るということは,日ならずして東京がB29の絨毯爆撃にさらされるということだった。

    アメリカ軍は,サイパンで行ったのと同様な攻撃手法で硫黄島を手に入れようとたくらんだ。上陸前の徹底的な爆撃である。上陸すれば5日で掌握可能との目論見だったが,日本側の栗林中将が守る硫黄島の抵抗は激しく,結局,2月19日にアメリカ軍が上陸を開始し,日本軍が玉砕したのが3月25日であった。1ヶ月以上に渡って死守したのだ。『ここは東京の表玄関である。死屍を積んで一歩も通すな』という合い言葉のもと,抵抗を続けたのであった。

    ”玉砕”の真意は決して全滅ではない。降伏によって生き残る以上の人生の意義をそこに認め,進んで死につくのが玉砕と言うものであろう。それが全員の胸にどのような形で浸透してゆくかによって,全兵団の結束ともなれば,収拾できない大反乱にもなりかねない。ところが,硫黄島の日本兵2万3千の将兵の結束は,まことに一糸乱れぬものがあり,その結束の中心は最後の最後まで栗林中将に対する尊敬と信頼であった。

    硫黄島で日本軍のとった防御戦略とはどうだったのか。それはサイパンとは違い,アメリカ軍を水際で叩くのではなく,上陸させ,安心させたところを一挙に叩くというものであった。アメリカ軍は上陸前に必ず艦砲射撃と空からの絨毯爆撃を行い,防御側の戦力を著しく低下させたうえで上陸を開始する。この際に,日本軍が徹底抗戦すれば,防御陣地も丸見えとなり,敵の物量攻撃に必ずといっていい程,打ちのめされる。その後,いかに抗戦しようとも,砲弾薬,兵,食料ともに足りなくなるのである。この愚を冒さず,敵に対して日本軍の防御陣地を上陸前にはひたすらに隠し,上陸・油断させておいて,一挙に殲滅するのだ。

    アメリカ軍の硫黄島への上陸開始は,2月19日だが,玉砕までの74日間にアメリカ側から投下された爆弾量は6,800tで,21,926発であった。まさに鉄と火薬の新断層作りあげたと言ってよい。しかし,史上空前の猛攻撃にもかかわらず,日本軍にはほとんど損傷らしい損傷を与えなかったというのだ。栗林中将の采配によって築き上げられた地下要塞の頑強さには,恐れ入ると共に,地中を掘るたびに硫黄の吹きだす劣悪な環境下で地下帝国を作りあげた兵隊達の苦労を思うと,防人となって東京を守らんとする意気込みのすごさを感じるのである。名将のもと,強兵たちが屍を積んで果てた硫黄島は,戦後23年,ついに祖国日本の手に還った。

    硫黄島の本土戦に続き,沖縄本土戦が始まった。ここでも硫黄島と同様に,サイパン戦の教訓が色々な角度から熱心に検討された。硫黄島では,どんなことをしても勝算は弾き出せず,全部隊が地下にもぐり,徹底抗戦を行い,玉砕までの時間を稼ぐ以外に道はなかった。しかし,沖縄戦では全く事情が違ってくる。ここは九州の一角ともいえ,従ってただの防衛線でもなければ抵抗線でもなく,文字通り,この大戦の勝敗をかけた決戦場でなければならない。このことは大本営もようやく理解し,沖縄に向け,かつてないまでもの質と量の砲弾・将兵を投入していった。

    しかしながら,その後,レイテ上陸作戦がこの沖縄への戦力投入に待ったをかけた。最も頼りにしている砲兵隊の中から最精鋭師団を抽出し,フィリピン島方面へ転用するということだった。このため,これまで沖縄決戦として作戦を貫いていたものが,沖縄本土についても硫黄島と同様に戦略持久という作戦に変わっていったのだ。これは沖縄県民にとっては看過できない問題だ。決戦主義であれば,戦ってみて勝つか負けるかは別として,これならば同胞として当然協力しなければならない。しかし戦略持久となると,問題は一変する。硫黄島の戦いのように,勝てる戦ではないのだ。ここでは1日でも1時間でも時を稼いで,敵の本州への進入を遅らせるという戦になる。当然,最後には玉砕だ。そうなると,老幼婦女子の疎開ぐらいではすまない。硫黄島では全住民を全て避難させたのだが,沖縄は人口において硫黄島と同様に論じられない。沖縄県民を九州に移すだけの輸送力は既になかった。そこで,軍は主戦場を南部に限定し,住民はできるだけ北部に疎開させることにしたのだ。

    アメリカ側で沖縄攻略戦をどうして決定したのかだが,それは,日本本州と350マイルしか離れていない沖縄本島を攻略して,航空基地を建設し,そこから日本の工業地帯をしらみつぶしに叩き潰そうという構想からだった。その沖縄戦にアメリカが勝算を抱いたのは,レイテ海戦での日本側艦隊の壊滅的打撃にあるのだろう。事実,フィリピン島に続く我方の航空機の消耗は,その生産力との均衡を完全に失ってしまっていた。アメリカは沖縄上陸にあたり,まず,日本本州の飛行場という飛行場を大打撃を与えた。これは,沖縄上陸支援のための航空機動力を削ぐためだ。事実,その後,3週間に亘って,日本側は大挙反撃できなくなったのだ。

    ここで,書き落としてはならないことがある。それはこの時期の陸軍と海軍の考えの差だ。陸軍側では,沖縄戦を半ば諦め,別に本土決戦を『決号作戦』として構想し,海軍側では沖縄戦を重視してここに残存勢力の全てを投入しようとする『天号作戦』を考えていた。この両者の考え方の相違を陸海軍の感情的な反目と考えている人が多いみたいだが,そうではない。海軍側には,もはや勝敗は決したのだという考えがどこかにあった。敗れたのだから,我々は責任をとって潔く死ぬべきだとする痛烈な責任感に繋がっていた。海軍の戦には艦艇や航空機のない個人的なゲリラ戦などありえない。したがって,敵が本土に上陸して来たときには彼らの戦は既に終わっているのだ。陸軍側には,戦士としては海軍と異質の環境にあり,異質の訓練を受けている。一隻の艦艇に乗員全ての運命が託されているわけではない。意志さえ強ければ一人になってもゲリラとして戦い得る。したがって彼らは最後まで戦い抜いてみなければ納得できない爆発的なエネルギーを残していた。この両者の意見が,沖縄戦で2つに分かれるのはむしろ当然のことだった。陸軍は本土決戦,海軍は沖縄決戦。したがって,陸軍は沖縄戦よりも,本土における決戦戦力の温存に努めなければならないことになり,海軍は沖縄戦で戦艦大和まで吐き出す結果になってゆくのである。

    海軍は沖縄上陸が始まる前に,神雷部隊を投入していく。これは必死兵器である”桜花”を懐に抱いた一式陸攻を母機とする特攻部隊である。これによる突撃を敢行するということは,日本がどういう状況になっているかというのが言わずと知れるわけだが,この特攻も敵船隊にたどり着くことなく,敵の圧倒的な航空戦力により撃墜されてしまった。沖縄は見捨てられたのではなく,沖縄上陸戦に先立ち,このような悲惨な特攻という事実も当然にしてあったのだ。

    アメリカ軍の沖縄上陸は4月1日から始まった。前日の31日いっぱいはアメリカ軍は例のごとく,爆撃と艦砲射撃で沖縄本島を叩きまくった。上陸寸前の敵の攻撃の激しさはどの戦闘でも同じだが,この日も例外ではなく,総計10万発の砲弾が一度に撃ち込まれた。それに対する我方の砲撃は,8千発だ。12倍もの砲弾で攻め立てられたのだ。硫黄島の上陸時の砲弾の差は5倍であったので,いかに今回の規模が大きかったか想像に難くない。そして,島の周辺に迫っている敵の艦艇は1300隻。これが夜明けの5時半から上陸に向けた活動を開始した。

    当時の日本人はもはや冷静にものを考える余裕などそのほとんどが無くしていた。それが敗戦という事実の前に立たされた時の本当の人間の姿だと思う。硫黄島では,2万3千の将兵は,始めから敵が上陸してくれば死なねばならない事をよく知って団結した。ところが沖縄はそうではない。始めは勝つ気であった。それが兵力を他の戦場に持って行かれ,憤慨し,気持ちと戦略を立て直そうとしている間にぐんぐんと戦局は進んでしまった。つまり,納得する暇もない間に危急存亡の時を迎え,冷静な合理主義による戦略の再構築が非常識なのか,大死一番という玉砕主義が非常識なのか,その識別もできないまま,それこそ紛戦状態に陥ってしまったのだ。

    東条内閣とは『勝つことばかりを知って,負ける事を知らない内閣』であり,小磯内閣は『勝って終戦の端緒を掴もうとする内閣』であった。その小磯内閣が,沖縄上陸という事実により倒れた。次に大命を拝したのが,長い間侍従武官長をつとめた鈴木貫太郎大将だ。鈴木内閣は『どうやって最も早い機会に終戦の機を掴むかという任務を負わされた内閣』だった。その鈴木内閣の発足と同時に,戦艦大和もその運命に従って突き進むことになっていく。

著者プロフィール

明治四十年(1907年)新潟県に生まれる。十四歳で上京し、博文館印刷所に文選工として働く。長谷川伸に師事、山岡荘八の筆名を用いる。昭和二十五年(1950年)より、北海道新聞に『徳川家康』を連載開始。昭和二十八年(1953年)単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなる、『徳川家康』により、第二回吉川英治文学賞を受賞。以後、歴史小説を中心に創作する。昭和五十三年(1978年)七十一歳で亡くなる。

「2023年 『水戸黄門 下巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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