アカシヤの大連 (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (388ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061960046

作品紹介・あらすじ

美しい港町、アカシヤ香る大連。そこに生れ育った彼は敗戦とともに故郷を喪失した。心に巣喰う癒し難い欠落感、平穏な日々の只中で埋めることのできない空洞。青春、憂鬱、愛、死。果てない郷愁を篭めて、青春の大連を清冽に描く芥川賞受賞の表題作及び、6編を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 前半は小説家としての処女作"朝の悲しみ"と第二作で芥川賞の"アカシヤの大連"。40代の後半に20数年遡った時点のことを書く。自分は読メに数学者になりたかった頃をよく書いていて年齢も遡る年数もほぼ同じ。しかし清岡卓行が文筆の場を詩や評論から小説へ拡げたのは妻の病死を乗り越えるためだったし、彼の20代は戦争の只中で自殺することばかり考えていた。だから自分は甘いのだ!愛の悲しみではなく自尊心が傷つけられた安い感情とか、再婚するなら若くて美しい女性じゃなくては駄目とか、この作家はかなりエロチック。

    後半は60歳の時4泊5日で大連を訪れた旅行記。大連で生まれ育って、途中旧制高校や大学へ遊学の為に東京と何度も往復したが、結局清岡卓行は26歳まで大連に居た。34年ぶりの大連探訪は不安と悲痛を伴うものだった。自分自身は戦争を嫌っていたけれど中国人特に旧満州の人にとっては侵略者であるという意識。大連に限らず旧満州の都市は押並べて、ロシアが開発・建設し日露戦争後に日本が統治した。それ故の赤煉瓦を多用した建物や路地。生まれた風土への親和は、そのまま愛であると確認された。綺麗な言葉を使うものだね。

  • 大連小景集は大学の頃に読んだ。函入りの美しい装丁の本だった。
    この文庫は「朝の悲しみ」「アカシアの大連」の二つの小説と大連小景集の4つの連作がまとまられている。
    「朝の悲しみ」妻と死別した後の生活が実感のある文章で綴られる。毎朝、思い出せない悲しみの夢で目覚める。休学中の大学生であった主人公が終戦前に里帰りした大連で、妻となる女性と出会ったことも語られる。
    「アカシアの大連」憂鬱を抱えた青年が、家族と大連に取り残され、同じ境遇の女性を知り、転機を覚える。若い頃の心情を映し出す、生硬な文章。

    「朝の悲しみ」を読んでいるとき、六文銭で小室等さんが歌っていた「思い出してはいけない」がずっと頭の中で鳴っていた。勿論、詩の作者は筆者。抽象的で生々しい詩だった。読書中は愛の始まりと別れの二つのテーマの重なりに浸っているようだった。

    大連小景集は、ロシア人によってパリを模して作られ、日本人へ主人を変え、そして中国人の手に戻った美しい都市が、初老を迎えた旅行者としての著書の目から、時として過去の記憶に戻りながら語られる。この部分は再読であるが、美しい紀行文。失われた故郷を語ることは哀しいことではあるけれど。

    大連に関連した作品であるのは確かだし、良く判るところもあるのだが、書かれた時期がかなり違い、著者の過去への距離のとり方が違うので、一冊に纏まるのが良いのかチョッと判らない。ボーナストラックの所為で、統一感が無くなったCDのようと云ったら、云い過ぎだろうか。
    このあとは、清岡さんの詩作も探して読んでみようと思う。

  • #184

  • 普通の講談社文庫版は表紙カバーが岡鹿之助さんの絵だったと思うのだが、それで読んだけど、ここでは検索できなかったのでとりあえずこちらで登録。単行本でも読んだが、そちらはあった。

    内容は正直覚えていない。単行本と文庫本で2回も読んだのに。
    ということはことに琴線に触れなかったのかなあと思う。ぼくの友人はこの作品をとても愛していたのだけど。
    いつかまた読んでみてもいいかなとも思ってる。カバー絵を残すために我が家のどっかに本も残しているはず。

  • 詩人としての作者の2作目の小説らしいけど、文章が深くて寝転がって読むには難しかった。大連がアカシヤに埋もれた美しい租借地で国際都市港町、美しい海岸が行く所もある街であることはわかった。
     私の両親が青春と新婚時代を送った町で作者が芥川賞をとったときに母からこの作品を聞いていたので読んでみた。満州での戦後の生活はよかったが、引き揚げてから大変な苦労をしたと書いてあったが、そのことは父からよく聞いていた。私の父もエンジニアで中国ソ連から優遇されていたと聞いている・
    もう一度裃を占めなおして読もうかと思う。

  • 清岡卓行『アカシヤの大連』(講談社文芸文庫、1988年1月)読了。

    面白かった。
    扱っている時代は小生が知らない時代だったが、そこで描写される大連は小生が知っている大連そのものだった。別の見方をすれば、大連を知らない方にとっては魅力がないかもしれない。

    本書には、表題作以外に、「朝の悲しみ」「初冬の大連」「中山広場」「サハロフ幻想」「大連の海辺で」の6編が収められている。
    本書は、まさに私小説で、病没した奥様への思いを綴った「朝の悲しみ」から、敗戦で帰国するまで過ごした大連への想い出を綴った「アカシヤの大連」、そしてしばらくして再訪した大連を描いた「初冬の大連」「中山広場」など、清岡氏自身の体験やノスタルジーを描いた作品ばかりである。

    というのも、「初冬の大連」で触れているが、「大連で生まれ育った私は、敗戦のとき23歳の学生で、たまたま東京から大連に帰省していた。そのまましばらく残留し、戦後3年目の夏に引き揚げ船で祖国に戻った。」[p.317]というように、青春時代を大連で過ごしていたので、大連に対する思い入れが強い。

    とはいえ、単なる大連紹介ではない。文章が美しい。
    『うまいなあ』と思い調べてみると、詩人にして法政大学の教授だった。大学教授の文章はすべてうまいとはいえないが、詩人であれば一定のリズム感を持って文章を書く技術に長けていると思う。

    「5月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの、清純のうちに疼(うず)く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのであった。」[p.112]

    小生には到底このような表現はできない。それでも、清岡氏の表現したいことは十分に理解できる。
    ちなみに、南山麓というのは、大連外国語学院があったあたり一帯の、かつては日本人街があった地区。
    小生が半年滞在していた頃も、そこここにアカシアの木があり、香りを大いに楽しんだ記憶が残っている。また、5月下旬頃、大連ではアカシア祭り(槐花節)というお祭りが開催される。

    大連はきれいな街である。
    日露戦争時には旅順港を巡って日本とロシアの激戦地となったが、その後、満州となった地域の中心地である大連はそれ以前の英国支配、ロシア支配の影を色濃く残しながら日本によってまちづくりが進められた。
    清岡氏は、終戦間近の頃の大連の雰囲気を次のように描写している。

    「大連という都会の運命が、歴史的に見て、ふしぎに平和に恵まれたものであることを、彼がずっと後になってから知るのであるが、そのときは、そんなことを思ってもみなかった。そしてただ、戦争中におけるその不思議な余裕を有難いことに感じていた。
     大連には、飢えの雰囲気がなかった。日本の内地にいて、文字通り喉から手が出るほど欲しかった米、肉、卵、砂糖、酒、煙草なども、まだいろいろと入手の方法があるようであったし、魚類と野菜類は、現地で沢山取れるので、親しい中国人に頼めば、ほとんどいくらでも買うことができた。衣料品も、乏しいという程ではなかった。配給を受けるための、長い行列による屈辱感もあまりなかった。」[p.124]

    もちろん、占領していた側の目で見た大連なので、現地の中国人にとってもこのような雰囲気が感じられたかどうかは分からない。しかし、「不思議に平和に恵まれた」という感覚は今に引き継がれているように思われる。

  • [ 内容 ]
    美しい港町、アカシヤ香る大連。
    そこに生れ育った彼は敗戦とともに故郷を喪失した。
    心に巣喰う癒し難い欠落感、平穏な日々の只中で埋めることのできない空洞。
    青春、憂鬱、愛、死。
    果てない郷愁を籠めて、青春の大連を清冽に描く芥川賞受賞の表題作及び、6編を収録。

    [ 目次 ]


    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  •      -2007.02.21記

    所収作品は、「朝の悲しみ」(1969-S44)、「アカシアの大連」(1970-S45芥川賞)と、「大連小景集」(1983-S58)として出版された4つの短編「初冬の大連」、「中山広場」、「サハロフ幻想」、「大連の海辺で」を含む。

    大正11(1922)年に大連で生まれ、昭和16(1941)年の一高入学までの幼少期を彼の地で暮らし、さらには東大仏文へ進むも、東京大空襲の直後、昭和20(1945)年の3月末に、「暗澹たる戦局の中を、原口統三、江川卓と日本から満州へ。戦争で死ぬ前にもう一度見よう」と大連への遁走を企て、1ヶ月余の長旅でたどりつき、昭和23(1948)年の夏、引揚船で舞鶴へ降り立つまでの3年余を大連で過ごした、という清岡卓行。

    彼は、終戦の詔勅をなお健在であった父母とともに生まれ育った大連の家で聞く。
    「八月十五日の夜、彼は自分の家の小さな屋上庭園、幼い頃、夕焼けの空に女の顔が浮かんでいるのを眺めたあの場所で、かつての日本の植民地の綺麗な星空を、今さらのように珍しく眺めながら、なぜか、しきりに天文学的な考えに耽った。その巨視的な思いの中に、罌粟粒ほどの小さな地球を編入することが、まことに寂しくも爽やかであった。」
    また、「彼は、全く意外にも、自分もやはり<戦争の子>ではなかったのかと感じた。――おお、戦争を嫌いぬき、戦争からできるかぎり逃げようとしていた、<戦争の子>。」-いずれも「アカシアの大連」より-と書く。

    「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」
    あまりに人口に膾炙した、安西冬衛の「春」と題された有名な一行詩。
    彼が先達の詩人として敬した安西冬衛もまた大連の人であった。安西は1919(T8)年から15年間、大連に在住した。1924(T13)年、同じく大連に居た北川冬彦や滝口武士らと詩誌「亜」を創刊、一行詩や数行詩という時代の尖端を行く短詩運動を展開、4年余の間に「亜」の発行は通巻35号を数えている。
    彼は、この先達者たちの詩を、その短詩運動にもっとも影響を受け、偏愛したという。「亜」に拠った詩人たちの詩業は、彼の言によれば「口語自由詩の一つの極限的な凝縮であり」、「形式における求心性と、内容における遠心性。それらの緊迫した対応のうちに湛えられた新しさは、時間の経過によって錆びつかないアマルガムの状態」になっており、「凝縮された国際性」を体現しえたものであった。

    大連の港から出航する引揚船でどんどん内地へ引き揚げてゆく日本人たちをどれほど見送ったことか。
    1947(S22)年6月、すでに大連には僅かな日本人しか残っていなかったが、残留日本人の子どもらが通う大連日僑学園で英語や数学を教えていた彼は、クリスチャンで「いくらか円顔で、甘い感じ」のする日本人娘と知り合い、結婚する。
    そして翌年の夏、身重の妻とともに引揚船で大連から舞鶴へ。東京世田谷の長姉宅に寄宿した彼は、4年ぶりに東大へ復学するも、11月には男児誕生と、生活費を稼ぐに追われ授業にはなかなか出られぬ暮しがつづいた。

    詩人として、戦後二十数年もずっと、詩と詩論しか書いてこなかった彼が、1969(S44)年、すでに47歳にもなって、なぜ小説を書くようになったか、あるいは書かねばならなかったかについては、処女作「朝の悲しみ」を読めばおよそあきらかとなるが、その前年の妻の病死という衝撃が契機として大きい。
    自殺を志向するがごとき憂鬱の哲学と純潔への夢を中断して「妻の若く美しい魅力」によって生へと連れ戻された自分であってみれば、ここであらためて生の根拠を問い、「生きる論理を構築し」直さなければならない。「妻がいなくなったら、このいやらしい世界と妥協する理由は失われたはずであり、彼は二十数年も遡って、自殺の中断の箇所まで、とにかく一応は舞い戻らなくてはならなくなったのである。」-「朝の悲しみ」より-
    だが、短編「朝の悲しみ」における主調音は、むしろ妻への喪失の想いであり、「測り知れない深さの悲しみに支配され」、目覚めの虚脱感に耐えながら、生と死が親密に戯れる「愛の眠りの園」に身を沈めようとする-彼の内面が淡々と語られてゆく。
    彼は、「人間の愛が夢みさせる死への憧れ」と、「動物的な本能が歌う生の意志」とが絡み合うところにこそ、「人間の全体性と呼べるもの」が浮かびあがってくると自らに言い聞かせつつ、残酷な現実の中に芽生えた淡い希望をもって、この短編を締めくくっている。

    翌年(1970)3月に発表された「アカシアの大連」において、彼は小説への転回と同時に自らの再生を果たしたようにみえる。
    それは深い喪失の悲しみから一歩踏み出して、自らの生の根拠を問うために、遠く失われた故郷である大連を記憶の回路を通して蘇らせようとした試みであり、「間欠泉のように、生き生きと浮かびあがってくる」ようになった大連における記憶の切れ切れを、けっして完成された物語としてではなく、語りの生成過程そのものを追跡するようなかたちで織り込んでいっている。
    彼のこの転回と再生が、敗戦後の混乱期から高度経済成長期へと移行し、70年前後といういわばひとつの頂点を劃した頃であったという社会状況の背景もまた、これを成立せしめうる時機として深層において働いたのではなかったかという感が、どうしても私にはついて離れないのだが。

    彼自身、「4つの楽章で構成された一つの音楽作品であってほしい」と構想された「大連小景集」は、転に配される「サハロフ幻想」が、抑制された静かな語り口で描かれる情景の一節ごとに挿入されるたった4文字の「サハロフ」という名辞が、快いリズムを生み出すとともに内的な昂揚感を強く感じさせてくれる。
    かつて日本にとって租借地大連は近代化の実験の場であったが、とりわけこの作品には、彼のいう「おたがいに異なる主旋律を持つ4つの短編の、旅行の時間の流れに沿った組合せによって」、その大連という街の、国家が託した血なまぐさい幻想も含めて、全体像が暗示的にうかびあがってくるような一面がある。

  • 第62回芥川賞受賞作。大連には行ったこともないし、ましてやそこで一定期間を過ごしたことはない。にもかかわらず、そのタイトルと小説は私に激しいまでの郷愁を喚起する。きっと神戸のような坂の街なのだろう。港から続く街の中心部には異国(ロシア)風の堅牢な石造りの建物が並んでいる。そして、高台へと続く並木にはアカシヤの花の濃密な香りが。小説は、主人公の思索的なモノローグに終始する。したがって、語りには斬新なところはない。小説的な仮構にも乏しいと言っていいだろう。しかし、その一方でこの作品がそこに独特の世界を構成していることもまた確かだ。

  • 「朝の悲しみ」「アカシヤの大連」「大連小景集」から成っている。

    「アカシヤの大連」が代表作なのだろうと思うけれど、処女作である「朝の悲しみ」がとても印象に残った。「朝の悲しみ」はわりとナルシスティックなところもあるような気がするが、他のものと比べた時に、作者の奥底にあるものがかなり素直に出たんではないかと思った。

    昔、本を読んでいて、日本の小説なのに「翻訳調」と評されたものがあった時、もう一つぴんとこなかったのだけれど、『アカシヤの大連』を読んでいて「これが翻訳調かな?」と思われるものがぽつぽつあった。

    「アカシヤの大連」は学生の頃、現代文の問題で出会ったと記憶している。しかしどうも読んだ記憶がありそうなのは「大連小景集」の中の「中山広場」のような気もする。どれだったんだろうか…

  • 中国、大連などを舞台とした作品です。

  • 大連、行ったことないので、本書を読んだら行ってみたくなりました。少し前に読んだ林京子さんの作品とは、やはり男女の違いや大連と上海の違いなど、やはりかなり異なる読後感ですが、読み比べるのも面白いと思いました。

  • 購入

  • 静かで、丁寧で、清潔で、けれども湿度があって、とても私が好きなタイプの文章でした。高校の先生が、好きだっていってたっけ…。

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