群棲 (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (380ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061960053

作品紹介・あらすじ

向う三軒両隣ならぬ"向う二軒片隣"の4軒の家を舞台とし、現代の近郊の都市居住者の流れ出した日常を鋭く鮮かに描き出す。著者の最高傑作と評され、谷崎潤一郎賞も受賞した"現代文学"の秀作。

感想・レビュー・書評

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  • 通路を挟んだ4軒1画の日常を12個に切り分けた連作形式だが、来客側の話など効果的に外からの視点が入り面白い。
    “ドラマなきドラマ”と作者もあとがきで述べている通り特に構築的な展開はないが、当時の区画整理された住宅街の、干渉し合うねっとりした空気がよく描かれていて楽しめた。

  •  黒井千次の「春の道標」は、昔、センター試験の問題文として出た。あまりの内容の面白さに、試験そっちのけで読みふけり、題名を覚えてブックオフで必死に探した思い出がある。
     黒井千次は1932年、東京生まれ。野間宏に傾倒して小説を書き始める。内向の世代の一人で、新日本文学会に所属し、日本文学学校を手伝った。
     この群棲は連作短編であり、シャーウッド・アンダースンというアメリカの作家の影響のもと試みられたもの。成功しているのか失敗しているのかはわからないが、読み進めるのが本当にしんどかったのは確かだ。延々と繰り広げられる、未来のない感じ。歴史のない土地に、歴史なんて考えもしない登場人物、そういった過去のない世界ならば、未来もないだろう。ならば何に興味をもって読み進めれば良いのか。それがいまいち掴みづらい、恐ろしいまでの純文学だった。
     住宅地にある南北にのびる通りから少し路地を入ったところで家をかまえる4つの家族の物語だが、実に話が暗い。暗鬱としている。とにかく湿ってるのだ。講談社の文庫だからきれいだが、装丁によっては、最高に暗いものにできる。
     織田家、滝川家、木内家、安永家の4つの家が舞台なのだが、そこには何の歴史も伝統もない。からっからに乾いた人間関係と、何かが不在になってしまったジメッとした感覚。
     織田家。
     もとはこの路地一帯で屋敷をかまえていた。昔井戸だったところの上に台所があって、後々、織田家の妻紀代子に精神的悪影響を及ぼす。房夫はいつも帰らない紀代子に対し、どうすることもできないでいる。そのうち浮気して女と逃げたりする。娘真由と、息子耕一は結構良い子に育っている。
     滝川家は夫が東北へ単身赴任で留守になっている。空虚そのものの空間に生きていて、女の学生を住まわせたりして、孤独を安らげている感じだ。
     木内家は子どもを作らない家庭。昌樹は日々悶々として生きている。
     安永家はいつも遅く帰る夫と、プレイボーイの次男が目立つ。妻の雅代は昔痴漢に襲われたことがあり、抵抗するとき、相手の口に指を入れた感触でたまに苦しむ。
     もう一つ、田辺家というのがあるのだが、いまいち場所がつかめない。滝川家と織田家の間くらいだろうか。路地沿いにある織田家のさらに細かい路地に入り込んだ奥にあるのか。そこに老夫婦が暮していて、そこがある日火事になる。122ページの、織田家の庭に人が勝手にどんどん入り込んで、火事が祭りのようになっている場面も、火が燃えているはずなのに暗い。まず、人の庭にいっぱい他人が立つのだが、いったいどこからわいて出たのか。ああ、人なんかいたのかと思わせる。空間だけがあって、人の存在価値を持っていない。というか、存在価値を持つようなことをしなければ、誰もいないことと同じになってしまいそうな空気がこの「路地」にはある。
     なぜ暗いか。火事で、なんとなくばらばらだった住宅地が一体感を持つからだ。そこには、土地にまつわる歴史も伝統もない。かといって、何か新しいことをはじめようとするやつもいない。何も無い。あるのは噂と事故・事件だけだ。いつもは親しくない安永家の主婦雅代とも、火事の時は仲良く話し合える紀代子。そのあと、一段落して、129ページの食事の描写が素晴らしい。これはこうだから暗い、ということははっきり書かない。描写ですべてを語り尽くすそのじわじわ感がうまい。
     そして火事のあとに急にぼけてしまった田辺老人が尋ねてくるのだがそれも暗い。田辺老人を追い返したあと、織田家の紀代子と真由との会話で「いつかの夜、パパが教えてくれたもの。ここがオモチャの部屋でね、お台所の下には深い井戸があったんだって。」という過去。その昔の織田家がなんだったのか、それはわからない。そのわからない状態のまま立てられた4つの家の、崩れかけのバランス。
     伊藤夫婦の件も面白い。この伊藤夫婦の夫のほうが、雅代に襲いかかったのだが、その夫婦と街中で出会ったりする。伊藤の妻のほうが露出狂に追いかけられて、それを安永雅代が救ったことがきっかけなのだが、その夫が痴漢男だとは……ということなのだが、まるで書き方が、昔不倫関係か何かだった男を見るような描写で表現されているように思える。伊藤の旦那と安永雅代の、親指のぬめりでつながる関係。秘密の共有。その怪しさがよい。
     また木内家も暗い。子どもを作らない家庭なのだが、その美知子の挙動の怪しさ、夫の昌樹はとなりの安永家の家族が留守の時に女を連れ込んでいる次男徹の性交を覗こうとしたりするのだし、朝立ちもする、精力旺盛なのだが、なぜか妻にはかなわない。受話器でわけありげに話す妻に直接何も言えず、疑いの目だけを向けるへっぽこ昌樹。そんな自分とくらべて、子どももしっかり作った学生時代の友人増沢に圧倒されるシーンが悲しく暗い。そうして、たぬきのぬいぐるみヌータの秘部をさわる昌樹。増沢の赤ちゃんを軽蔑する妻。何もかも心が離れている家族に存在するぬいぐるみは夜、本物のたぬきとなり家から出て行く。ぬいぐるみでさえ、いるにふさわしくないような場所ということか。
     雅代が織田家を再び訪れたときは、逆になっている。主客逆転。紀代子は精神を病み、家に呪われたようになってしまう。水の音が気になるといって、井戸を探そうとする。その家を探そうとするさい、最後に「電池がなくなるといけないから。」というセリフは素晴らしい。
     最後に単身赴任で夫のいない滝川静子の家に行くのだが、そこには誰もいない。訪問客敏江は約束をしていたはずなのだが、なぜだか留守だ。不気味にいない。気の狂った紀代子に見つめられながら、からになった家を見回る敏江。そこには、夥しい少年少女文学全集や、今そこに置かれたばかりのようにうち捨てられている。
    「誰もおりません。きっと、私より大事な用が出来てどこかに出かけたのでしょう。」
    「約束を破ってでもお出になれる方は、素敵ですわ。」
    という347ページの会話が山場だろう。

     異化……というか、日常と非日常のあいだ、だろう。日常には、由来がある。非日常にはきっかけがある。だが、そのあいだというものには、不気味なゆがみがある。そのゆがみをただひたすら贅沢に紙面を使って書き出したもの。それが本作品だ。文章も「子どもの脇毛だ」と、光にたかる虫を表現したり、描写が実に奇妙だ。

     「あいだ」の空気を漂わせながらの機械的配置。というか、舞台や劇のように配置された住居。そして人々。火事の場面なんか、まるでガヤの音響が聞こえてきそうだった。公衆電話で無言の相手に文句を言うという「対話のない世界」。本音でオープンに話しているのは、若者や子ども達、ボケ老人、そして気が狂ってしまった、もしくは狂いかけの妻たちだけ。その皮肉もじわじわ効いてくる。
     人がいて空間が出来てきた感じではなく、縦軸のない空間があって、そこに陰鬱な家庭を住まわせた。そうして空間に飲み込まれ、人間の本来を失っていくような……暗い暮らしの話だった。

  • 一軒くらい平穏な家族があったっていいじゃないかと思う。
    連作集であるがひとつひとつの短編として読んだときには家族の中に潜む不穏というところで終われる。しかしこれが連作集であることで各家族のその後が否おうにも見えてしまい、都市居住者というのはこんなに家庭が崩壊しているのにもかかわらずそこで暮らさなくてはならないというあてどない闇を見てしまった気がする。明るい不穏で終わらせてくれないところにこの話のメッセージ性や作者の意図がつまってるのだろうなと思った。
    これが現実か.....うう。

  • 谷崎潤一郎賞、解説:高橋英夫、作家案内:曾根博義

  • まだ途中ですが・・・

    おもちゃの部屋で出てくる隣のおじいちゃんも、カップルに道を聞いたおじいちゃんも、結構怖いんだが。薄気味悪いとはこのことや。

  • いつかどこかで闇がぱっかり口を開け、襲いかかってくるんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。
    しかし、じっと何かに見られているようで居心地が悪い。つい行ったり来たりを繰り返し、たどり着いたところにもまだ道は長く続いていて、歩かなければならない。

  • [ 内容 ]
    向う三軒両隣ならぬ“向う二軒片隣”の4軒の家を舞台とし、現代の近郊の都市居住者の流れ出した日常を鋭く鮮かに描き出す。
    著者の最高傑作と評され、谷崎潤一郎賞も受賞した“現代文学”の秀作。

    [ 目次 ]
    オモチャの部屋
    通行人
    道の向うの扉
    夜の客
    二階家の隣人
    窓の中
    買物する女達
    水泥棒
    手紙の来た家
    芝の庭
    壁下の夕暮れ
    訪問者

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 玄関から庭門までの距離。生ぬるく、安心と不安の入り混じる場所を行き来する浮遊感がここちよい。物(物体)の描かれ方が印象的。蛇口・ヌータ・紙おむつ。解説の高橋英夫が黒井のエッセイについていうには「薄気味悪いもの、謎めいたものと、晴れやかなもの、心安らかなものはわずかに皮膜一枚の差にすぎず、その一枚の薄さの中にドラマが秘められている」。どこにでもいるわたし。

  • 少し奇妙な家庭を描かせると黒井千次はすごくうまい。多少退屈な点を除いても。

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著者プロフィール

作家

「2023年 『ベスト・エッセイ2023』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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