蝮のすえ・「愛」のかたち (講談社文芸文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061962033

作品紹介・あらすじ

戦前から戦後にかけての激変。支配・被支配の転倒。混乱、渾沌の中で、新たな生を獲得した"女"を鮮烈に捉え、戦後の日本に大きな震憾をもたらした武田泰淳の初期作品「才子佳人」「蝮のすえ」「『愛』のかたち」の3篇を収録。時代を超えて透視する眼、したたかな精神のしなやかな鞭。

感想・レビュー・書評

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  • 昔の随筆作品をメタに読み解き、透徹な視点が光る『才子佳人』、同時代の退廃的な人間の情動が巧く描かれた『蝮のすゑ』は特に楽しく読めた。
    ただ文化の洗練が甘い1950年以前の作品は概して、現代との乖離を感じる独特の読みづらさがある。

  • 「才子佳人」「蝮のすえ」「「愛」のかたち」の三作品を収録しています。

    「才子佳人」は、清末の随筆集である『西青散記』のなかの趙闇叔と雙卿のエピソードをもとにした作品です。非常に美しい妻をめとった醜い男が乞食となる道をえらんだエピソードを挿入し、「才子」と「佳人」がいて文学が生まれるのではなく、文学的な想像力が現実の人間を「才子」と「佳人」の位置に置くことをえがいた、メタ小説的なテーマにとりくんでいます。

    「蝮のすえ」は、終戦直後の中国で、病床にある夫をもつ妻と、彼女から好意を寄せられる「私」の関係をえがいた作品です。「私」は、「彼女」を苦しめる「辛島」という男を殺すことを決意しますが、「私」のそうした決意と無関係のうちに二人の関係は動いていきます。

    「「愛」のかたち」も、「蝮のすえ」と共通するテーマにつらぬかれており、こちらは町子という不感症の女性と、彼女に惹かれる男たちの関係がえがかれています。主人公の原光雄は、町子の夫である野口とのあいだで、町子をめぐる三角関係を清算する相談をとりつけますが、野口の感情は町子との別れを拒みます。さらにかつての町子の愛人であり光雄の友人であるMは、光雄を「利口な野獣」と非難し、絶交状を突きつけます。そしてその顛末が、「私と「私」の話」という作中作でえがかれるという、構成上でも野心的な作品となっています。

  • ひたすらに問いかける様から評論の眼差しが光る。どこか真実からかけ離れた像が浮かんでくる気がする。

  • この小説を開く前に、小さなかたまりに埋もれず外へ出ていく者の話を聞いたので、そのことが頭に残った状態で読み進めた。
    その者は、形態を扱い、肉体的苦痛を治療する。
    私は小説ばかり読んでおり、小説は何か良いものだと勘違いしている。
    小説が良いものとは限らない。
    外へ出て行った男のように、技術を身につけて、人の苦を取り除くことの方が良いときもある。
    その者によって、私は、自分はかたまりに埋れた者なのだなと認識しはじめる。
    塊に埋もれていく人々と、去っていく人々。

    土砂災害の被害に遭い、それを防ぐために植林の会社を立ち上げた人をニュースで見た。
    それは、嘆き悲しむ姿勢ではなく、どうにかしようとする動きであり、珍しい被災者だと思った。
    嘆き悲しむというのは言葉や音楽や絵の表現になりやすく、どうにかしようと動くのはNPOや起業や自分にはない技術を身につけようとし、表現作品にはならず行動となるようだ。


    『才子佳人』
    久々に二度読み返したくなり、丁寧に言葉を調べながら読みなおした。
    国語の授業で朗読する有名な古文のようだ。
    言葉の選びと並べ方につらつらとした気持ち良さがある。
    なんとなく認識している言葉でも、改めて意味を調べて正しく理解しようと思った。
    私は、よく使われる言い回しや言葉に自分の感覚や心を表している。
    自分のうちから自然に出てこない言葉、小説の中に出てくるような言葉を自分の引き出しにしまうことで、今までよりも細かな感覚や心が表現できるようになるかもしれない。
    形容詞、形容動詞に注目した。
    自分の心を形容詞、形容動詞にして表すとき、心のままを適切な言葉に当てはめられていないかもしれない。
    言葉と言葉の表す様子が馴染んで自然に言い表せるようになったらいい。
    杳という言葉を古井由吉の『杳子』で気に入ったが、杳という状態は、私にはたとえばどういう時だろう?暗くてよくわからないさま、事情などがはっきりしないさま、はるかに遠いさま、奥深く暗いさまとはどういう時?普段は杳など使わずに、暗いとか、よくわからないという言葉で簡単に表している。暗くてよくわからないと書き表すのと杳と書き表すのでは、何が違うだろう。
    杳という漢字が印象に残る。 
    動詞や名詞がほとんどを占める言葉を使うのは、形容詞や形容動詞を使うのに比べたら簡単でシンプルだ。
    言葉に表していないものが、たくさんあるだろう。
    それは、街を歩いて風を体に感じる感覚や、町や住宅や街路樹や生け垣の景色から受ける視覚刺激や、ある時期によく聞いていた音楽から浮かび上がる当時のことや、音楽聴覚刺激、などは、言葉には表されていない。 


    【惘然】
    あっけにとられているさま。
    気抜けしてぼんやりしているさま。

    【隠然】
    表面ではわからないが、陰で強い力を持っているさま。

    【渺茫】
    遠くはるかなさま。広く果てしないさま。

    【縹渺】
    広くはてしないさま。
    かすかではっきりとしないさま。

    【朦朧】
    ぼんやりとかすんで、はっきり見えないさま。
    物事の内容・意味などがはっきりしないさま。
    意識が確かでないさま。

    【恍惚】
    物事に心を奪われてうっとりするさま。
    意識がはっきりしないさま。
    老人の、病的に頭がぼんやりしているさま。

    【惨淡】
    薄暗い
    物寂しい
    いろいろ苦心するさま

    【嫵媚】(中国語)
    美しい、艶やかな。

    【嫣然・艶然】
    にっこりほほえむさま。美人が笑うさまについていう。

    【情懐】
    心の中に思うこと。 (所懐)

    【懊悩】
    悩みもだえるさま。

    【牢騒】(中国語)
    不平不満を言う

    【滔々】
    水がとどまることなく流れるさま。
    次から次へとよどみなく話すさま。
    物事が一つの方向へよどみなく流れ向かうさま。

    【哀艶】
    美しさの中に悲しみの感じられるさま。

    【氤氳】(いんうん)
    生気・活力が盛んなさま。

    【寂寞】
    ひっそりとして寂しいさま。
    心が満たされずにもの寂しいさま。

    【杳】
    暗くてよくわからないさま。また、事情などがはっきりしないさま。
    はるかに遠いさま。奥深く暗いさま。

    【飄然】
    世事を気にせずのんきなさま。
    ふらりとやって来たり去ったりするさま。

    転華夫人と玉勾詞客の家にある無恨楼。
    それどんな建物?、どんな道?と思い浮かべたくなるような、現実離れした夫婦の庭は、よく描かれる情景描写ではない。
    (よくある情景描写は、ホテルのロビーの様子とか、2人が歩く道の周りのビルと陽の作る影や差す陽の様子の描写など)
    花弁や葉裏に詩を書く、苔に落ちる花弁、花弁をもすそに集めて花弁で道をつくってそこを歩く、樹皮の上を歩く虫とか、描写が好き!植物を好きな人の視線。

    このように熱中しようとしてみても、熱中しきれずにスマホで見たいものもないのにYouTubeを開いてしまう。 本は2日間閉じられたまま。 
    熱中したふりをしているだけなのかもしれない。

    いや、それでも3度読み返す。
    言葉の意味を調べながら読み返すと、普段言葉をなんとなく選んで、普段使う言い回しで、こう言うときはこう言うというように、考えない言葉遣いをしているんだなと思った。
    大切な好きな人の事を考えて、その人に何か伝えるとき、その人と自分の関係を考えるとき、そういうヒリヒリするような切実な身に迫る事を考えるときには、適切な言葉を遣おうとよく考える。
    それ以外では、仕事で交わす言葉も、他人と交わす言葉も、だいたい使い慣れた意味があるようで心のない考えのない気持ちのこもらない言葉ばかり。

    『蝮のすえ』
    『才子佳人』とは打って変わって、形容詞形容動詞の少ない、動詞や名詞が主だった。

  • 小説3篇。『才子佳人』は自ら作り上げた虚構への諦観と、幻への憧憬が詩的に描かれた作品で、結末も味わい深い。次の2篇は何れも、決断力のない男が出会った女を軸に快感と見栄と環境に流されながら変わっていく心理が描かれている。女性の美しさを肉体にのみ見出す「無感覚な人形」の男。凡庸にも思える(だからこそ近しい存在として読める)その像を、当人含め誰もが見誤る。愛がすれ違う。とても読み応えのある作品集だ。蛇足だけど、私は内面は外に溢れると思っている。鏡に映る凡庸でなかなか不細工な私が私であると。

  • 「いやおうなしの慾望や、むりにでも行為したい情熱がない場合、かえって人は道徳倫理の壁さえ意識しないで暮らせるから、いつか非倫理、非道徳の人間となりおわるのではないか。」光雄の場合は確かに当てはまりそうですが、「むりにでも行為したい情熱」をもつ今の為政者に倫理や道徳があるようには思えないのです。それにしても『蝮のすえ』の彼女も『「愛」のかたち』の町子も私にとっては得体の知れない女性でありますが、でも実際にこのような女性が目の前に現れたら惹かれるのでしょうね。

  • [ 内容 ]
    戦前から戦後にかけての激変。
    支配・被支配の転倒。
    混乱、渾沌の中で、新たな生を獲得した“女”を鮮烈に捉え、戦後の日本に大きな震憾をもたらした武田泰淳の初期作品「才子佳人」「蝮のすえ」「『愛』のかたち」の3篇を収録。
    時代を超えて透視する眼、したたかな精神のしなやかな鞭。

    [ 目次 ]


    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 『才子佳人』は古代中国ということに物語性の強い世界観が舞台の小説である。現実に存在している人物も、虚構の限りなく近傍におり簡単に区別はできない。まるでロールプレイングゲームの中に閉じこめられて理不尽な役割を永遠に担わされているかのような女も登場する。なぜ彼女はそんな目に遭うのか。それは運命なのである。不幸に耐えて暮らす佳人に、才子は思いを寄せる。彼女が苦しめば苦しむほど才子の思いは燃え上がる。やがて才子は佳人のもとを訪れる。こういうあらかじめ決められた物語を、物語の作者である主人公は記録し続けている。そんな主人公の目を盗んで佳人のもとを訪れた才子に、彼女がこの世の全ての無意味さについて語る言葉の中からは、「色情」についての新しい認識が出てくる。色情(つまり才子佳人)がなければ、人間は生まれない。物語の作者も登場人物もである。彼女の中にも色情はある。けれども自分が全ての佳人に代わって苦しみを引き受けるという決意を示すことでより悲劇性を増し読者を喜ばせ、才子佳人の物語は続いて行く。
    人間という種を存続させていくさだめを課されている女たちはこのことに自覚的である。
    『蝮のすえ』は書類の代書という、他人の事件に直接は関わらずあくまで外部から関係を持つ仕事をしている主人公が、依頼人の抱える事件に直接関わってしまったために、ニヒリズムの中に閉じこもっていた自己を破壊することを余儀無くされ、人生というものを痛みや苦しみとともに実感し始める話である。
    『「愛」のかたち』は非道な男と、男の肉体を受け入れられない女との間に絶望的に捻れた愛のかたちが生まれてゆく様を描いている。女が愛する男に肉体を捧げることは、果たして義務であろうか? 男ははなからそんなことを考える必要はないが、女にとってそれがどれほど大きな負担であることか。非対称性などという言葉を持ち出すまでもなく、男と女それぞれにとっての愛の意味を考えさせられる。
    いずれの作品も女が重要なテーマになっている。彼女たちは皆、息が詰まるような言葉と言葉の重なりの中から気高さをのぞかせている。

  • 戦争が終わった後のぬめっとした感じが。

  • 出てくる人皆愛憎の自家中毒になっています。
    理性と衝動の間で訳がわからなくなっている今の自分を重ねて読んでしまい、余計にぐるぐるしました。

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著者プロフィール

武田泰淳
一九一二(明治四十五)年、東京・本郷の潮泉寺住職大島泰信の息子として生まれる。旧制浦和高校を経て東大支那文学科を中退。僧侶としての体験、左翼運動、戦時下における中国体験が、思想的重量感を持つ作品群の起動点となった。四三(昭和十八)年『司馬遷』を刊行、四六年以後、戦後文学の代表的旗手としてかずかずの創作を発表し、不滅の足跡を残した。七六(昭和五十一)年十月没。七三年『快楽』により日本文学大賞、七六年『目まいのする散歩』により野間文芸賞を受賞。『武田泰淳全集』全十八巻、別巻三巻の他、絶筆『上海の蛍』がある。

「2022年 『貴族の階段』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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