砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

著者 :
  • 講談社
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感想 : 17
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  • Amazon.co.jp ・本 (452ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061962552

作品紹介・あらすじ

可能性を完全開花させずに永逝した文学者安部公房が、衝撃作『砂の女』『他人の顔』を続けて刊行した時点で、自身の初期思考をエッセイの形で発表したものを精選し、全エッセイとして刊行した話題の大著。初期阿部公房が孕む、“ヘテロ”的思考への新たな再評価。早く来すぎた思想者・安部公房の“可能性の中心”。

感想・レビュー・書評

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  •  
    ── 安部 公房《砂漠の思想 1970‥‥ 19931224 講談社文芸文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4061962558
     
    ~ 現代日本のエッセイ
     
    (20231128)

  • [ 内容 ]
    可能性を完全開花させずに永逝した文学者安部公房が、衝撃作『砂の女』『他人の顔』を続けて刊行した時点で、自身の初期思考をエッセイの形で発表したものを精選し、全エッセイとして刊行した話題の大著。
    初期阿部公房が孕む、“ヘテロ”的思考への新たな再評価。
    早く来すぎた思想者・安部公房の“可能性の中心”。

    [ 目次 ]


    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 安部公房のエッセイ集。安部公房の思考の傾向がわかる一冊。逆説的な論理が好きなようだ。
    演劇論や映画論については、わかりにくく難しい所が多かったが、面白く読めた。古い映画の話が多い。

  • (購入日不明)

    ブクログの更新をサボっている間にいつの間にか本棚に増えてた。

  • 初期のエッセイ集。硬質。

  • エッセイ集。
    映画の話題が多かったので、映画にあまり興味の無い自分にとっては退屈な話も多かったが、LSD、ヘテロの思想、殺人についてなど、考えさせられるようなものも多い。
    しかしそれにしても少しお高い……

  • 以下引用。

     前にも書いたことだが、たとえばわれわれはヘビやゲジゲジに不快感をもつ。なぜかというと、(通俗合理主義者がよくいうように、人間の原始時代の記憶の遺伝などではなく)ヘビには足がなく、ゲジゲジには足が沢山ありすぎるという、単純な理由のためだ。足がぜんぜんなかったり、逆にあまり多すぎたりすると、人間生活からの類推が困難である。人間にはヘビやゲジゲジの生活を、自分自身の内的事件として想像し再現することができない。つまり犬や馬に対するように、簡単な擬人化ができないわけだ。そこで慣性的な情緒の拒絶反応がおこる。(p.28)


     サキというイギリスの作家に「猫の偉業」というおもしろいエッセイがある。要約していえば、人類の発展につれて野獣たちは森の奥においこめられ、ごく少数の動物だけが家畜化して滅亡をまぬがれた。
     こうした中で、ただ猫だけが見事な才能を発揮して、人間社会の中心部に自分を位置づけることに成功した。かれらは、馬のような奴隷としてでも、またブタのような食肉用としてでも、また犬のようないやしい従者としてでもなく、ただ家庭的だというだけで、その存在をみとめられているわけだ。
     ほかの家畜たちが、いや人間自身ですらが、ほかに何かをあたえることによって、はじめてその存在をゆるされているというのに、猫だけは人間になにものもあたえず、まことにごうまんに自分の主張だけをおしとおす。猫だけが人間に屈することなく、しかもその野生を保存しえた唯一の勝利者だというわけである。
     たしかに、猫というやつは、人間の魂のスキ間にもぐりこんできた、寄生虫のような存在だということができるかもしれない。どうやらわれわれには、猫の存在を許す心理を、完全に説明しつくすことはできないようだ。ただ猫だからということで許さざるをえない(中略)人間はすでに心理的に、猫に敗北しているのかもしれない。(p.133~134)



         良識派

     昔は、ニワトリたちもまだ、自由だった。自由ではあったが、しかし原始的でもあった。たえずネコやイタチの危険におびえ、しばしばエサをさがしに遠くまで遠征したりしなければならなかった。ある日そこに人間がやってきて、しっかりした金網つきの家をたててやろうと申し出た。むろんニワトリたちは本能的に警戒した。すると人間は笑って言った。見なさい、私にはネコのようなツメもなければ、イタチのようなキバもない。こんなに平和的な私を恐れるなど、まったく理屈にあわないことだ。そう言われてみると、たしかにそのとおりである。決心しかねて、迷っているあいだに、人間はどんどんニワトリ小屋をたててしまった。
     ドアにはカギがかかっていた。いちいち人間の手をかりなくては、出入りも自由にはできないのだ。こんなところにはとても住めないとニワトリたちがいうのを聞いて、人間は笑って答えた。諸君が自由にあけられるようなドアなら、ネコにだって自由にあけられることだろう。なにも危険な外に、わざわざ出ていく必要もあるまい。エサのことなら私が毎日はこんできて、エサ箱をいつもいっぱいにしておいてあげることにしよう。
     一羽のニワトリが首をかしげ、どうも話がうますぎる、人間はわれわれの卵を盗み、殺して肉屋に売るつもりではないのだろうか? とんでもない、と人間は強い調子で答えた。私の誠意を信じてほしい。それよりも、そういう君こそ、ネコから金をもらったスパイではないのかね。
     これはニワトリたちの頭には少々むずかしすぎる問題だった。スパイの疑いをうけたニワトリは、そうであることが立証できないように、そうでないこともまた立証できなかったので、とうとう仲間はずれにされてしまった。けっきょく、人間があれほどいうのだから、一応は受け入れてみよう、もし工合がわるければ話し合いで改めていけばよいという、「良識派」が勝ちをしめ、ニワトリたちは自らオリの中にはいっていったのである。
     その後のことは、もうだれもが知っているとおりのことだ。(p.134~136)(全文)


     トーマス・マンのなにかの小説に、人間の精神活動とは、未知なものに「名前」をあたえることだと言うようなことが書いてあり、たいそう感心させられた記憶がある。
     つまり、たとえば、ライオンにまだ名前が与えられていなかったとき、それはまったく得体の知れない怪物であり、人間はそれに対して闘うすべもなく、ただおびえる以外になかったのだが、一度それにライオンという名前がつけられてしまうと、ライオンもけっきょくはライオンにしかすぎず、いくら手強い相手だとは言え、いずれは撃ち弊すことの可能な獲物になってしまうと言うわけだ。(略)
     もし他人がつくり上げた概念の城の片隅に、欲得もなく安住していようと言うのならともかく、わずかでもその外に目をむけたことのある者になら、まだ登録されていない新大陸、名づけられていないライオン、枯尾花の正体をあらわしていない幽霊どもが、うようよしていることに、気付かずにはいられないはずである。だからこそ、芸術などという、概念でおきかえてしまうことの出来ない怪しげなものが、この理性の時代にあっっても、なお死刑の宣告をまぬがれていられるというものだ。芸術とは、その未登録の大陸に踏み入れ、無名のライオンにおびえ、幽鬼の群におののき、そしてそられすべてを、名づけないままに、受けとめる作業にほかならないのである。(p.180~182)


     真の映像の意義は、こうした言語の壁の厚さを、とことんまで見極めたところから、あらためて考えなおされるべきものだ。いかなる既成の言語をも受付ない、非歴史的で偶発的で狂暴な純粋客体……そうした破壊的な映像に接した際、犬や猿なら悲鳴をあげて尻尾をまくだけだろうが、人間はそれに対応するだけの強い言語衝動をもって、応戦を開始することだろう。その未知の映像を吸収し処理すべく彼は新たな体系を発明し、つくりあげようと努力することだろう。
     映像の価値は、映像自体にあるのではない。既成の言語体系に挑戦し、言語に強い刺戟をあたえて、それを活性化するところにあるのだ。
     こう考えてくると、文学と視聴覚芸術とは、もはや単なる対立物などではありえない。ジャンルの如何をとわず、もともと芸術的創造とは、言語と現実との癒着状態――言語という壁にとりかこまれた、ステロタイプの安全地帯――にメスをいれ、異質な言語体系をつくり出す(それはむろん同時に新しい現実の発見でもある)ものであるはずだ。(略)
     映像で方法は語れない。そして、言語の壁は、想像以上に堅固なものである。小説家もまた、言語破壊のダイナマイト造りに参加する義務があるだろう。(p.235~237)

  • 2011.02.19 読了

  • 面白かったけれど、頭にいまいち内容が入り混んでこないところもあった。映画評論や創作術について深く勉強になりますわぁ。

  • 2010.11.7

    ・遊びの精神とは、方法をとおして現実を枠づける精神である。
    ・野生児に変化を与えたのは、入浴である。(『アヴェロンの野生児』)
    ・『アンダルシアの犬』『糧なき土地』『忘れられた人々』『眼には眼を』
    ・辺境、砂漠。

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著者プロフィール

安部公房
大正十三(一九二四)年、東京に生まれる。少年期を旧満州の奉天(現在の藩陽)で過ごす。昭和二十三(一九四八)年、東京大学医学部卒業。同二十六年『壁』で芥川賞受賞。『砂の女』で読売文学賞、戯曲『友達』で谷崎賞受賞。その他の主著に『燃えつきた地図』『内なる辺境』『箱男』『方舟さくら丸』など。平成五(一九九三)年没。

「2019年 『内なる辺境/都市への回路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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