テレーズ・デスケルウ (講談社文芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061975699

作品紹介・あらすじ

自分の夫の毒殺を計ったテレーズは、家の体面を重んじる夫の偽証により免訴になったが、家族によって幽閉生活を強いられる。絶対的な孤独のなかで内なる深淵を凝視するテレーズは、全ての読者に内在する真の人間の姿そのものなのだろうか-遠藤周作がノーベル賞作家フランソワ・モーリアックと一心同体となって、〓@50FC@揚した日本語に移しかえたフランス文学の不朽の名作。

感想・レビュー・書評

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  • 情景描写や、訳はとても魅力的だったが、訳者である遠藤周作さんがなぜこの小説をそこまで気に入り、執着したのか、はっきり言うとよくわからなかった。当時は、テレーズのような女性の生き方や考え方がとても特殊で、斬新で魅了されたのだろうか?時代もあるのかもしれない。

    今はテレーズのような考え方の女性は蔓延しているように思える。ただ、離婚がしやすくなったり、自分で稼いで独立できるようになったため、夫や夫の家族から逃げることが可能になって、殺人を犯す必要がないというだけだ。

    テレーズは、結婚式の時に既に、夫と人生を共にすることに違和感を感じる。実は私も似たような体験をした。私は結婚式以前の問題で、手の打ちようがあったのにそれをせず、どんどん悪い方向へ行ってしまった。私の場合は、夫となる人の実家へ挨拶に行った時が、テレーズの結婚式と同じだった。

    私は早々に結婚生活からフェードアウトしたが、結婚相手やその家族との間に払えない壁や嫌悪感、相互理解ができない虚しさを抱えている人は、多いのではないかと思う。それに気づくほど物事を考えないか、気づいても平穏のために目をつぶるか、こんなものだと諦めるかしている人がどのくらいいるのだろうか?
    自分の夫に早く死んでくれないだろうか、と思っている妻も実際にいる。
    人間はとてつもなく利己的だとも言えるだろうが、他人同士が一緒に生き続けていくということは、奇跡的なことに近いとも思う。

    テレーズは、幽閉生活を送らされている時、自分の身内を自分で選ぶという想像をして気を紛らわしたことがある。家族からの薦めや、世間の目、金銭的な事情などから解放され、自分の感性だけで愛した人を選び直すことができたら、、と夢想する。それはイメージではとても魅力的に感じられるだろうが、現実はきっとそんなにうまくはいかないだろう。それをもしテレーズがうまくやってのけたら、女性の憧れを象徴する一人になるだろう。

  • 空虚だ。何もかも虚しいと思えてくる。結婚することが、家族が、人とのつながりが。本書からは何を感じればよかったのだろう?何かを感じたかも知れないが、何であったのだろう。
    テレーズが夫に毒を与えたと、それは、どのような動機があったのか?自分のことしか考えない夫への反抗か?免罪され、帰路での回想は、どれも、苦しみの原因とは思われない内容である。家に幽閉された後の日々、苦しみが喜びとなる、とはどのようなことか。人間、人生には謝しが必要である。

  • フランソワ・モーリアックが1人の女性テレーズ・デスケルウの孤独な内面を創作し描いた作品で、ひたすら彼女の心の陰鬱な世界が展開する。和訳は遠藤周作で、モーリアックと一心同体の如く昂揚とした日本語であらわしたという。
    夫・ベルナールの毒殺を計ったテレーズは、家の体面を重視する夫や父らに助けられて免訴を勝ち取り、辺鄙な家への帰り路の汽車の中で、夫へかける言葉を見つけるべく自らの過去を振り返る。家同士の利害を重視した空疎な結婚と、耐えがたく感じる夫の独りよがり、わが娘への情の無さ、そして義妹が付きあっていた上辺だけの男とのなぜか気のあった交流が思いだされるが、また、求めるものが見いだせない自身と自らの冷たく他と交わりえない性格を再確認する。そして、夫が見出した妻への復讐は体面を重んじるための夫婦の芝居と妻をこの辺鄙な家へ半ば幽閉することだった・・・。
    僻地の暗い情景が、テレーズの孤独で倦怠、そして諦観と狂気へと進む物語の進行とよくマッチしていて、尋常ならざる彼女の彷徨と葛藤をより繊細に訴えかけていたといえる。次第に沈んでいく精神と状況が、一転、開放と別れとしての決着で、しがらみから解放されたテレーズはこの後どうなっていくのか。このテレーズはシリーズになっているようで、1人の女性としての葛藤の今後が気になるところだ。

  • 人間の描写が非常に緻密で印象深い。いままで読んだ本の中で一番緻密と感じたかもしれない。そういえば人間って(自分って)こうだよなって感じさせられる。ありふれた素材だけで、人が罪を積み重ねる様子が描かれる。

    醜悪な人間が、醜悪なまま救われない。どうすれば救われるのだろう。遠藤周作は、作者がほんの救いの可能性を書いた文があると言っているが(『人生の踏絵』より)、見つけられなかった。そもそも救いって何だろう。登場人物たちが自分の思う救いによって全然救われていない姿を見ると、そういう疑念が湧き起こった。

    "「むだだったわたしの人生、空虚だったわたしの人生、果てしなく孤独だったし、運命には出口がなかった」ああ!たった一つだけ自分を救ってくれる行為があるが、ベルナールはそれをしないだろう。もし彼が腕をひらいて何もたずねなかったら!もし彼女がその胸に顔を押しつけることができたら。"p94
    →これが救いとは何かの正解だろうか?

    "畑の斜面が見えた。暑かった日に、ジャン・アゼヴェドが坐っていたところだ。この世界のどこかに自分を理解してくれ、ひょっとすると自分を讃美し愛してくれる人がいて、そのなかで自分を育てていくことができるそんなことを信じていたときもあったのだ。 "p94
    →こちらが救いとは何かの誤回答だろうか?

  • ​​​<テレーズ、あなたのような女がいるはずはないと多くの人がいう。>

    という文章で始まるこのフランスの小説、ひさびさにわたくしどぎもをぬかれましたよ。もしかして今年一番のヒットかもしれません!この衝撃的なおもしろい小説を知らなかったなんて・・・。

    <「免訴です」と弁護士はテレーズをふりかえり、・・・>

    夫毒殺の疑いで裁判にかけられたテレーズは、夫の証言で免訴になりました。ほんとうは実行犯だったのに・・・。裁判所を出て夫のいる家庭に戻るため、汽車や馬車の長い道中に「なぜこんなことになったのか?」と思いわずらいながら帰っていくテレーズの描写がなんともリアル。いや、遠藤周作氏のものすごい迫力の日本語訳に圧倒されます。(遠藤氏はこの作者モーリアックに、このヒロインに心酔された由)

    テレーズは家と家のつり合いもほどよく資産があり、平凡だけど性格よくやさしい夫ベルナールと何不足ない条件の結婚をしました。けれどもテレーズは結婚後すぐに夫がうっとうしくなりました。なぜ?テレーズはさんざん考えるのです。自由だった少女時代が終わってしまった悲しみ?夫の凡庸さに辟易?「アルジュルーズ」という仏南西地の果てのようなランド地に住む寂しさ?もっと知的で会話のできる男に会いたい?

    娘も生まれますがテレーズは悩み続けます。あるきっかけで毒殺のヒントを得て実行します。夫のかかりつけ医に発見され裁判にかけられますが、夫や父が体面を重んじたいため、免訴に持ち込まれまてしまいます。それでテレーズは助かったのでしょうか?幸せになったのでしょうか?

    いえいえ、そこからまた苦しみが始まり結末を迎えます。

    <・・・ベルナールは道幅に合わせて作られた人間だった。>

    このパリで別れる最後の場面も鬼気迫ります。

    夫との性格不一致、昔、それこそお見合い結婚がほとんどだったわたくしたちのまわりでは当たり前によく聞く話です。恋愛結婚でもそうです。結婚して一緒に暮らすということはそういうことです。でも、それだからといって夫を殺してしまおうとは、ほとんどの人が思いませんでしょう。テレーズは思ってしまうのです。

    けれどもこんなことはありそうです。思いは心奥深くに隠し、静かに夫が先に死ぬのを待っているかもしれません。そのほうがもっと怖いかもしれません。人の心はかりしれないのです。

  • 遠藤周作訳。去年長崎の遠藤周作記念館に妻と行った際に、目に留まって購入。遠藤文学の原点とも言えるような、モーリアックの代表作。

    究極的に個人主義を離れることのできない、その面でどこまも無邪気なテレーズが、結婚をしその生活に個性の埋没を知り、悪意とは離れた衝動によって、夫に毒を盛る。
     物語の始まりは、その咎により裁判にかけられるが、家庭の体面を気にした夫とその一族が、テレーズに責めを負わせず免訴になるところから始まる。しかしその許しは愛からではなく、あくまでも体面であるから、テレーズの自由は極度に縛られる。今まで以上に行いも制限され、鬱屈した精神のしみついた、フランスの片田舎、地の果ての印象を与えるアルジュルーズに縛りつけられ、テレーズの行いを知る人々の蔑みの目から逃れることも出来ず、さらされ精神が蝕まれていく。

    しかし、そんな環境でもテレーズはどこまでも理性的である。反省も後悔もなく(あるとすれば結婚自体)、自らのありのままを肯定しながら、しかし宗教的規範、そこからくる家庭の結びつき、因習的な血の呪縛から、必死に逃れようと思いを巡らす。己が生んだ子にも関心を持てず、必死に自分を愛することしかできないテレーズ。最後には、体面ゆえに夫との婚姻関係は保ちながらも、パリに一人生きることを許され、放逐される。

     フランソワ・モーリアックは世界的にも著名なカトリック作家であるが、護教作家ではない。この作品も決してそんな色はない。神を離れ、宗教的なものからの自由を勝ち得た現代の人間であるが、個人主義と、そこからもたらされる解放が、我々に何を与えてくれるのか。こういうと結局、逆説的な護教だといわれるかもしれないが、既存の宗教の正当性がどうとかいう以上に、宗教を含めた人間をもう一度考えていかなければいけない、そんな時代に立たされていることを感じざるをえない。

    ジッドの「狭き門」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」、漱石の「心」、そんなところと並べて考えていきたい一冊であった。遠藤が執心し、テレーズの影を追いその地まで赴いたという。遠藤の人生を見て見た時にもその重要性は見逃すことができないし、何よりもこの小説に触れたときにそれだけ人を突き動かす何かがあることは確かである。当時の遠藤ほど若くないので、私はそこまで冒険はできないが、もう10年若ければ、そして今の感性と経験があれば、なんてことも重ねて考えたりしてしまう。

    13/9/23

  • 人妻の倦怠。古典的な仏文学のテーマのようにみえる。
    だが、趣は少々異なる。自身の生きる意味/目的を求めても得られず、人生を彷徨するテレーズの造形が秀逸。
    遠藤周作の翻訳も熱意があってよい。

    テレーズは結婚と結びつく性の歓びも、子供への情愛も抱けず、不倫の恋の可能性にさえ、そこにあるのは観念的な自己充足への欲求だけである。信仰が彼女に何かを与えているふしもない。テレーズ自身は何が自分を自分たらしめ、その生の意義となるのか把握できない倦怠に取り巻かれているのだ。

    とりわけ性への拒絶は、妹分のアンナへの愛情に転嫁される点が目を引く。しかしアンナが定型的な「恋する女」や「夫と子をもつ妻」になるや彼女にもテレーズは幻滅してしまう。

    平易な文体で書かれ、古典的な人妻の痴情事件にすらみえる小説『テレーズ・デスケルウ』。その実は、自分を、そして自分を満たしてくれるものが何であるかわからぬままに彷徨せざるをえない、希有な人物造形に成功した作品に思われた。

  • 無茶するヒロインですな〜。彼女の生き方は、女性の自由が認められなかった時代に、消去法でどうしようもなく選んだ自由の発露だったのだろうか。
    自由になるために犯罪に手を染めたのに、結果として幽閉され、ますます自由を失ってしまう。
    でも、どうしてもそうせずにいられなかったんだろう。
    自分の身体を痛めつけて家族を動かそうとする行動からも、ぎりぎりの切迫感が伝わってきた。

  • 相当面食らった。
    フローベールのような主観と客観が混淆した自由な文体で、人物の心理的動きを追いながら、外界との埋め難い乖離を言葉の自由さでもって書き連ねる。決して難しいことは書いてない、ただただテレーズの孤独がこぼれ落ちる。
    色々勉強になった。
    主人公のテレーズは文学史上特に好きな女性キャラに選出します。
    場面の空気作りがうますぎる。

  • 3.74/310
    内容(「BOOK」データベースより)
    『自分の夫の毒殺を計ったテレーズは、家の体面を重んじる夫の偽証により免訴になったが、家族によって幽閉生活を強いられる。絶対的な孤独のなかで内なる深淵を凝視するテレーズは、全ての読者に内在する真の人間の姿そのものなのだろうか―遠藤周作がノーベル賞作家フランソワ・モーリアックと一心同体となって、昂揚した日本語に移しかえたフランス文学の不朽の名作。』

    原書名:『Thérèse Desqueyroux』
    著者:フランソワ・モーリアック (François Mauriac)
    訳者:遠藤 周作
    出版社 ‏: ‎講談社
    文庫 ‏: ‎206ページ


    メモ:
    ・松岡正剛の千夜千冊 373夜
    ・20世紀の100冊(Le Monde)「Le Monde's 100 Books of the Century」

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