- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061982468
感想・レビュー・書評
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本のレビューということに凝っていたことがある。でも、ある時期、ある種の不毛さにはたと思い悩んでしまった。
多くの本をレビューするために読み、それを要約する行為が空しくなったのである。
それは、そういったレビューをする自分の背景となる教養の薄さへの絶望というものとは少々、違っていた。むしろ、そこで書かれている何かを、何か別の経験や比喩に置き換えていく行為というか、もっと正確に言うと、そこで表現されているものを、自分の既に知っている何かに置き換えていくことについての徒労感のようなものだ。
多くの本を、自分の既存の棚の中に整理していく行為に何の意味があるのだろうか。自分にとって、意味がないとすれば、他人に対して伝えようとすることは尚更である。
対象を既知のものへと対応させていくことの不毛さに嫌気がさしたのだ。
小島信夫の小説というのがふたたび気になりはじめたのはそんな頃だったような気がする。
最初に小島信夫を知ったのは、大学受験時代の、現代国語の評論問題で出題された江藤淳の「成熟と喪失―母の崩壊」を読んだ時だった。この中で、江藤は、安岡章太郎や小島信夫など第三の新人の作品を取り上げて、米国占領後の、母子密着型の日本社会の変質を、目覚しい書きっぷりで批評していた。
高校生のぼくの理解力が、それを、どの程度とらえていたのかは定かではない。ただ、その程度の理解力のものすら、つかみこんでしまう力を、江藤淳の文体と、論理は有していた。
父親の書斎を整理していたら、高校生の頃に、ぼくが読んだ「成熟と喪失」の文庫本が見つかった。しばらく、父の読書用の長椅子に横になって、読み返してみた。赤鉛筆で引かれた傍線の無造作さが懐かしかった。
大学の頃に、柄谷行人や蓮實重彦などを経由しながら、構造主義的な思考方式に慣れ、特に、蓮實の固定化を回避しようとする揺れる文体の影響をもろに受けたこともあって、再読した江藤の論理は、固定化が強すぎるように感じた。
18歳の頃には、めざましかった論理が、対象物よりは、批評家である江藤淳の相貌だけを浮き彫りにするようで、かなりの違和感があった。
江藤の物語の中に、行儀良く整理されている小島や安岡ではなく、その対象自体を読みたいと感じた。
父親を亡くし、母親が急速に衰えていくという過程で、家族というものを凝視する、小島の作品が、ぼくのリアリティに訴える部分が大きかったこともある。
「うるわしき日々」(講談社学芸文庫)という作品を読んだ。江藤淳にも取り上げられた、昭和40年に書かれた「抱擁家族」の30年後の世界である。
80を過ぎた小島の生活というリアリティを軸にすえながら、この不思議な小説は、現実とフィクションの間を、ゆらゆら揺れながら進んでいく。
起承転結のすっきりとした書き方ではなく、唐突にはじまり、あいまいに停止する。決して、従来型のわかりやすい小説のように自己完結的な終りが用意されているわけではなく、唐突に終わる。
より正確に言えば、小島信夫という作家の生理は、ピリオドをうつことを回避しようとしているようにも思える。生命あるかぎり、だらだらと書き続けようとする、あくなき意志のようなものが、その最終部分には感じられる。
一番、嫌な作業である要約をしてみると、
80をすぎた作家は、抱擁家族の時に、米人との不倫を疑った最初の妻を病気で失い、再婚をしている。50代の障害者の息子は、重度アルコール中毒による痴呆症患者であり、自分の家族にも見捨てられ、80代の父親と重度の健忘症に陥いりはじめた義理の母親によって、介護されている。
老人医療の対象ではない、痴呆症の患者を収容してくれる病院探しに奔走し、疲れ果てていく姿が、壮絶かつ、独特のユーモアをもって描かれていく。
こうやって要約される物語は、救いようのないほどに暗い。病院探しの部分や、妻の健忘症のあたりには身につまされる現実感があった。家族が介護するという行為の中に含まれている愛憎の描写はリアルだ。
息子が一定の水準にまで回復し、病院を出され、自分たちで、在宅介護を行わねばならなくなることへの不安が赤裸々に書かれている。
とにかく、病院に入れたいという切実な思い。当然、自分が産み出した息子への責任感と、義理の息子の世話をするという義務感の中で、精神を狂わせていく妻のはざまで茫然とする老作家の心理は、ぼくの内心を抉った。
介護というものの中には、そういった義務とヒロイズムと、憎悪や、絶望感がまじりあっているということは、日々、実感していることだからである。
息子の病院へ向かう車の中のこんな場面は、晩年の父と母の日常を想起させて、どきりとした。
「あなた、何をいったの」
と、車の中で運転中の妻がいった。
「忘れたがっているのを喰いとめるだけだ」
といったような気がしたが、口の中でいったに過ぎないかもしれない。夫婦二人とも、今までなら互いに通じていたはずのことが、互いの耳のところまで届かずに消えてしまっていることばかりである。
何かいうときには、相手に向かって、
「これからしゃべるから、こっちもちゃんと発声するから、そっちもちゃんときく準備をしてくれ」
とでもいわなければ、ほとんど聞こえてはいなかった。
気がついてみると、たいてい、今さっきいったことを、あらためてもう一度いいなおし、時によっては、さらにもう一度いいなおし、そのときにはもう投げやりになり、どうでもいいことだと思うこともある。(以上)
二人とも耳が遠くなるにつれて、二人の対話がどんどん細っていき、苛立つ表情だけが、身体的メッセージという形で、相手方に伝わり、さらに対話の糸を細くしていくという悪循環に、両親が陥っていくことを、夏や冬に帰省するぼくは明確に感じていた。
そして、一緒に住むこと以外に、そのコミュニケーション不全を止める手段がないことにも気づいてた。しかし、故郷に戻るという選択肢に、まったくのリアリティも感じていなかったぼくは、その状態に、両親を放置することを選択した。
それが、今の状態で可能な、最善であるという勝手な納得の中で、現実に、ぼくは彼らを放置した。
そういうざらざらとした思いを、小島の作品の細部は刺激する。
あるいは、過干渉症。
「妻というものは家にいることが多いので、ある年齢になると、急に心細くなるものです。そこで夫が手をさしのべて家事のことであっても協力して下さらないと困ります。
といって、あまりしつこく世話をやくと、妻の方はあせり、いったんあせりはじめると、いよいよ自分の頭で筋を立てて順序よく進めるという、以前は何でもない自然のことができなくなるのです。そうなると、夫と妻のどちらが混乱のもとなのかわからなくなるものです。」
母親が金銭計算に疎くなっていったり、ものをなくしたとか、盗られたとか言い出した時期があった。それを、父親は一番嫌がった。そのあたりから、父親は母親の外部との接触をコントロールしたいと思う気持ちが生まれた。そういった、父親の献身が逆に、母親の精神を悪化させる。
小島信夫のこの小説は、ある意味とりとめがない。そのとりとめのなさの中に、読者のさまざまな読みに対して、開かれたオープンさがある。その不思議さは、一読ではおそらく汲みつくすことはできない。
そういったわかりにくさのなかに、突如、読み手に対するリアルがあらわれるというその不安定性が、この作家の魅力だ。
坪内祐三が、『別れる理由』が気になって(講談社 2005年)という本の中で、藤枝静男の発言を引用した部分がある。
けれども、同じく人生を眺め辿るとき、また別のやり方もあるという考えも私にはある。つまり独りで広い野の小道や丘の裾なんかをめぐり、またゴチャゴチャと入り組んだ街中を歩いたりして脚下の雑草やすれちがう人間などの個々の姿を、その個々の細部を自分の眼による同じ強さの視線で等価に捕らえ、無選択に並列して記録して行く。そして歩みの停まるところでプツリとこの長大煩瑣な文を終えてしまうというー集約を拒否した方法だってあり得る
彼もまた傑出した私小説家である藤枝の方法論は、まさしく、小島のとりとめのなさという方法論をとらえていて、ふらふらと揺れながら、書き続けるという小島の運動性という魅力を説明しているような気がした詳細をみるコメント0件をすべて表示