ブラフマンの埋葬

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (154ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062123426

作品紹介・あらすじ

夏のはじめのある日、ブラフマンが僕の元にやってきた。あたたかくて、せつなくて、いとおしい。こころの奥に届く忘れられない物語。

感想・レビュー・書評

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  • あなたは、生き物が登場する小説というと、どんな生き物を思い浮かべるでしょうか?

    この世には数多の小説があり、数多の生き物がそんな小説に登場します。その中でも一番多いのは猫でしょうか?有川浩さん「旅猫レポート」で涙が止まらなくなった人も多いでしょう。また、次は犬でしょうか?2021年の本屋大賞第3位となった伊吹有喜さん「犬がいた季節」のノスタルジックな世界に魅せられた人も多いと思います。一方でレアな生き物が登場する小説というと、イグアナやパンダが駆け回る恩田陸さん「ドミノ in 上海」のドタバタエンタメ劇を抱腹絶倒な中に読み終えた人もいるかもしれません。生き物にはそのもの自体に人が抱くイメージというものがあると思います。「犬がいた季節」のあの犬がイグアナだったとしたら、「旅猫レポート」のあの猫がパンダだったとしたら、恐らく同じ物語でも、読後に受ける印象は全く別物になるように思います。しかし、その生き物が持つイメージというものは、その生き物が読者の頭の中に思い浮かぶからこそついて来るとも言えます。では、もし生き物が登場するのに、そして、その生き物に対する描写がリアルなのにも関わらず何故かその生き物が頭の中にイメージできなかったとしたらどうなるのでしょうか?

    ということで、いきなりですが、なぞなぞに答えてください。はい、ここまで読まれたのですから、逃げてはいけませんよ。次の言葉から連想される生き物はなんでしょうか?

    ・その生き物は、四本足です。
    ・その生き物には、水かきがついています。
    ・その生き物は、掌を合わせて種を食べます。

    どうでしょう?あなたには答えがわかるでしょうか?

    さて、ここに、そんな不思議な生き物の名前が書名になった物語があります。「ブラフマンの埋葬」というその物語。それは、小川洋子さんならではの世界観の中に、姿が見えそうで決して見えない『ブラフマン』という生き物のイメージを読者が追い求めることになる物語です。

    『夏のはじめのある日、ブラフマンが僕の元にやってきた』と、自分『以外に目を覚ました者は誰もいな』い早朝に『黒いボタンのような鼻をひくひくさせている』生き物を見つけたのは主人公の『僕』。『体中が小さな引っ搔き傷だらけで、所々血もにじんでい』るのを見て、『手当てが必要なのは明らか』と思い、自分の部屋へ運びます。『脚をばたつかせ』るのを見て『無理しちゃ駄目だ。君は怪我をしているんだ』と言うと『驚いたことに彼は僕を見つめ、瞬きをし、耳をそばだてた』というその生き物の『皮膚がすりむけ血がにじんでいるところを』丁寧に洗ってあげる『僕』。そんな生き物に『ブラフマンという名前をつけてくれたのは、〈創作者の家〉に工房を持つ碑文彫刻師』でした。『まだ、名前がないんだ。名前をつけてよ』と言う僕に、『どうして俺が?』と返す彫刻師。そんな彫刻師に『だってあなたは、言葉を刻む専門家じゃないか』と言うと『そのへんにあるのから、好きなのを選んだらいい』と、工房にある『さまざまな種類の記念碑、墓石』を指す彫刻師。一つ一つ作品を見て歩く『僕』は、『祈り、警句、歌、賛辞、数字、そして名前』の書かれた作品を見て『ここに来ればいくらでも言葉を見つけ出すことができる』と思います。そして、『ふと目に留まった一つ』を指差して『これは、どういう意味?』と訊くと、『「謎」さ』と答える彫刻師。『サンスクリット語』という気がするというその文字を『ブラフマン』と読むと説明する彫刻師。それに対して『うん、いいね。これにするよ』と答えた『僕』。そんな経緯で名前の決まった『ブラフマン』を飼育することにした『僕』は、『創作者の家』の管理人でした。『あらゆる種類の創作活動に励む芸術家たちに、無償で仕事場を提供する』目的で営まれる『創作者の家』。その管理人室へと戻った『僕』は『ブラフマン』に牛乳を与えます。そんな『僕』と『ブラフマン』との日常が、『創作者の家』を利用する人々とともに静謐に描かれていきます。

    小川洋子さんの代表作でもある「博士の愛した数式」の翌年に発表されたこの作品。小川さんらしく、日常の風景を淡々と描写していく様が極まった世界観で描かれていきます。特に”モノ”の表現はいつもの如く小川さんらしさに溢れています。『強すぎる風は、スケッチブックを吹き飛ばし、楽器の音をかき消し、思索のための散歩の時間を奪う』という季節風が過ぎ去った後の光景を小川さんはこんな風に描写します。『どこから飛ばされてきたのか、庭には昨晩の残骸が散らばっていた』というその光景。そこには、『スコップの柄、アイスクリームのカップ、折れた傘、つぶれたバスケットボール、理髪店の看板、ブーツの片方、インク壺、義歯…』と描写されるその光景は、私たちが嵐の後に見るある意味どこにでもある光景でもあります。しかし、他の作家さんの作品でこんな光景がいちいち描写されることはありません。それは、目に見えていても一顧だに価しないものとして、私たちが普段切り捨てている光景でもあります。そこに光を当てる小川さんのこの描写によって、意識の対象ではなかった”モノ”たちが強い存在感をもって読者に迫ってきます。また、小川さんが光を当てる”モノ”たちも個性的です。『折れた傘』のように一般的なものもあれば、『インク壺』と普通には挙げないようなもの、そして、小川さんらしさの極みである『義歯』が登場するところがたまりません。そして、そんな季節風が過ぎ去った光景を、一方で『夏はもう帰ってこないのだ』と、綺麗にまとめる文章が並列します。この辺り小川さんの作品に慣れないと意味不明?とも思えますが、慣れてしまうとたまらない世界観に感じてくるからとても不思議です。

    また、この作品で、特に興味深いのは作品中に登場する人物の名前が一切明かされないところです。この作品に登場するのは次の四人です。『創作者の家』の管理人で主人公でもある『僕』、そして彼が何かと意識する雑貨屋の『娘』、『創作者の家』に工房を持つ『碑文彫刻師』、そして『レース編み作家』という四人が全編に渡って登場しますが、そこに彼らの名前が語られることはありません。しかし、そのそれぞれの表現が彼らの存在を強く印象付けていきます。せっかくですので、『僕』以外のそれぞれの登場人物のこの呼び名がどのくらい登場するか数えてみました。
    ・雑貨屋の『娘』: 96回登場
    ・『彫刻師』: 47回登場
    ・『レース編み作家』: 23回登場
    とそれぞれ登場します。これだけ登場すれば、普通には名前がつくものです。人を名前で意識する時、私たちはその人の顔をイメージします。例えば右腕、左足を見て○○さんだ、とは思いません。逆に言えば名前がないということは顔をイメージすることができなくなるとも言えます。『娘』、『彫刻師』、そして『レース編み作家』という三人の顔なき人物たちの存在。しかし一方で顔がないからと言って個性が失われることはありません。これら三人の人物からは強い個性を感じます。しかし、顔がどうしても見えて来ない、浮かび上がって来ないという、なんとも摩訶不思議な気分に陥る名前がないが故のこの描写。そして、それは唯一名前が登場する生き物と見事に対になって絶妙な世界観を形作っていきます。これは、小川さんならではの世界観ですが、この名前のなさの面白さの先に今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」が来るのかなあ、そんな風にも思いました。

    そんな顔のない人物たちの一方で、この作品中唯一名前がつけられたもの、それが主人公である『僕』が、『夏のはじめのある日』に裏庭で見つけた生き物でした。『手当てが必要なのは明らかだった』というその生き物に、『ブラフマン』という名前を付けた主人公。サンスクリット語で『謎』を意味するとされるその名前がついた生き物こそがこの作品の中で最初から最後まで読者にモヤモヤ感を与えていきます。それは、この『ブラフマン』という生き物がなんなのかが全くわからない!からです。『裏庭のゴミバケツの脇に潜み、脚を縮め、勝手口の扉に鼻先をこすりつけていた』という最初の描写で、恐らく大半の読者はそれを”犬”だと思うのではないでしょうか。私もそのように理解し、何の引っかかりも感じずに読み進めました。そうしたところ、違和感のある表現が次々と読者を襲います。それは、『胴の一・二倍に達する』という『尻尾』、『指と指の間でビロードの切れ端のように広が』るという『水かき』、そして『合わせた掌の中で、種を器用に回転させ』ながら食べるという描写など、違和感満載に迫ってきます。あなたは上記した条件全てに合致する生き物を知っているでしょうか?少なくとも私には全く思い浮かびません。この作品では登場人物たちに名前がついていないことで顔をイメージすることができない、と書きました。一方でこの『ブラフマン』は、この作品中唯一名前がつけられています。
    ・『ブラフマン』: 194回登場
    しかし、こんなにも名前が何度も登場しても顔どころか、姿さえもイメージできないのがこの『ブラフマン』です。光が当てられ続けているのに存在が浮かび上がらない不思議感。その一方で、主人公と戯れるイメージだけが全編に渡って描かれていく不思議感。小川さんならではの不思議世界の魅力からもう抜け出せなくなる、抜け出したくなくなる、ある意味での読書の心地よさを感じました。

    淡々とした”モノ”の描写の上に、顔が見えない人間たちが淡々と過ごす日常が描かれるこの作品。そこに登場する謎が謎を呼ぶ『ブラフマン』というイメージのつかない生き物が当たり前のように描かれることで、そこに不思議な世界が広がっていくこの作品。

    滑らかに、美しく、そして静かに語られるその物語世界の中に、小川さんらしい静謐さをじっくりと味わうことのできる、なんとも魅惑的な作品でした。

  • ブラフマンと名づけられた動物は何なのか、最後まで明らかにはされない。
    体型の描写から言うとビーバーかカワウソかとも思うが定かではない。
    主人公が飼っていたのは、ペットでも動物でもなく「ブラフマン」なのだ。
    およそ生き物を飼ったことのある人なら、ここはおおいに共感できる部分だろう。
    碑文彫刻師の存在が、それを明快に語っている。
    世界にただひとりの、時間と心をわけあった友。それがブラフマン。
    主人公が自分のことを語る場面は過去形で語られ、ブラフマンのことを語る場面は現在形で語られる。
    そこが実に生き生きとしている。
    皮肉なことに、人間の「娘」にわずかに心を奪われた隙に、ブラフマンはあっけなく命を落とす。
    淡々と書かれた終盤の埋葬場面が、それだけに切ない。
    「淋しがらなくてもいい、僕はちゃんとここにいるから」
    そういえば私も、愛猫の死にそういって聞かせた。泣けるなぁ。
    無国籍風の舞台と、無駄を省いた文章が美しい。
    装画は山本容子さん。

  • 小川洋子さんの本ばかり選んで読んでしまうのは
    このひとの、こんな色彩感覚にも似たこの文才にあるとおもう。

    ブラフマンという ネコなのか、犬なのか、はたまたイタチなのかも
    わからない「謎」の動物の存在が「僕」の家に傷を負ってあらわれる。

    小川洋子さんの文章によく使われるのだけれど
    このかたの文章には「いち個人」の具体的な名前をつけない。
    わたしは「私」であって、ぼくは「ぼく」
    少女は「娘」であって、ほかを「彫刻師」など職業で表現する。

    またその職業もうつくしいし、外国か日本か
    そんなことはどうでもよくて、そこの世界観に生きる「ひとびと」という
    存在がある。

    もっとも好きなのが今回のような「僕」の存在や語りかけかただ。

    「無理しちゃダメだ」
    僕は頭を撫でた。
    「君は怪我をしているんだ」

    喧騒の中で生きているのをわすれるこの時間の静けさと対話のなんとやさしいことだろう。「僕」の存在というのは決してしかりつけたりなどしない。
    けれど謎の動物のいたずらにも「これは机といって、本を読んだり、食事をしたり、手紙を書いたりするものなんだ・・」と説明をする。
    人はこの説明という作業にどれだけ心が救われるかわからない。
    ここに「愛情」というものをとても感じるのだ。

    どうしてこんな風にすてきな言葉をえらぶんだろう。
    小川洋子さんの世界というのは色彩のように生まれて、水彩のように水を多く含んでいる。鮮やかな色をぼんやりと描き、ときには油絵のようにねっとりとけれど、全体はやさしく物語る。

    ブラフマンの最後ですら、彼女は「僕」としての注釈をつけた。
    けれど最後の一文に、電車の中で涙してしまうのだった。

  • 物語の進み方は好きなのに、最後がわからんすぎて残念やった。
    何が言いたいのかわかんない話だった。
    あんなに大事に想ってくれてたブラフマンほっぽって…わたし的には後味悪かった。

  • 元資本家の別荘を管理する管理人。芸術家のお世話をする彼が見つけた不思議な生き物。その生き物とは、一体なんだろう?

    暗すぎずない内容で読後、何だかちょっとほっとした。

    • まろんさん
      はじめまして。フォローしていただいて、ありがとうございます!まろんです。

      この本、タイトルから、ブラフマンに訪れる悲劇が予想できていても
      ...
      はじめまして。フォローしていただいて、ありがとうございます!まろんです。

      この本、タイトルから、ブラフマンに訪れる悲劇が予想できていても
      終盤、ブラフマンが息絶えるところでは、やっぱり泣いてしまいました。
      それほどブラフマンにハートを掴まれた私ですが
      ゆきのすけさんと同じく、「この愛らしいブラフマンって、いったい何の動物なんだろう?」
      と最後までわからず仕舞いで。。。
      水かきがあって、しっぽも特徴的なので
      カワウソの仲間なのかなぁ?と想像したりしていました。

      ゆきのすけさんとは、読んだ本のレビューは書かずにいられないところや
      ブックオフの105円の棚で宝探し(?)することが大好きなところなど
      共通点がたくさんあるようで、本棚やレビューを見せていただいていて、
      どんどんうれしさがこみ上げてきてしまいました(笑)

      これからもレビュー率100%の素敵なレビューを楽しみにしていますので
      どうぞよろしくお願いします(*^_^*)
      2012/07/28
  • (2004.08.02読了)(2004.06.24購入)
    主人公は、<創作者の家>の住み込み管理人です。<創作者の家>は、ある出版社の社長が別荘として使っていた家を、遺言により、あらゆる種類の創作活動に励む芸術家たちに、無償で仕事場を提供するためのものです。<創作者の家>は、古い木造の農家を改装して作られたもので、村の中心から車で南へ十分ほど走った、田園の中にあります。村は北を山に、南を海に、東を川に、西を沼地に遮られています。
    主人公の仕事は、シーツの洗濯、床のワックスがけ、オリーブ林の剪定、芸術家たちの駅への送迎、郵便局へのお使い、病院の紹介、雑談の相手。宿泊予定者のリストは出版社からファックスで送られてくる。
    夏の明け方主人公の下に傷ついた一匹の動物の子供がやってくる。主人公は、その動物を自分の部屋で飼い始める。その動物に、ブラフマンという名をつける。
    動物は何なのか、最後まで書かれていないがかわうそではないだろうか?
    かわうそを辞書(「広辞林」)で引いてみると次のようです。
    イタチ科の哺乳類。頭胴長70センチメートル、尾長50センチメートル内外。体の背面は光沢のある褐色、腹面は淡褐色。四肢は短く、指の間に水かきがある。泳ぎはきわめて巧みで、魚・貝・カニなどを食べる。ユーラシアに広く分布するが、数が減っている。
    ブラフマンに食事を与え、しつけをし、大きくなってくると外に連れ出し、運動させたり、池で泳がせたりします。部屋に一人で置いておくとあらゆる引き出しを開け、中のものを引きずり出し、齧ってしまう。ペットを飼う人というのはそんなことにはあまりこだわらないものらしい。
    <創作者の家>に出入りの雑貨屋がおり、必要なものは頼んで配達してもらっている。主人公は、その雑貨屋の娘がお気に入りのようだ。でもその娘には、時々町からやってくる恋人がいるようだ。駅で芸術家たちを出迎えする時に時々見かける。
    その娘の気を引くために、雑貨屋へ買い物に行ったときに、レジが混んでいれば手伝ってあげたり、車の運転を教えてあげたりする。
    ある日、ブラフマンを池で泳がせていた時、雑貨屋の娘がやってきて、車の運転を教えてくれという。ブラフマンを遊ばせたまま、車の運転を教えていたら、ブラフマンが車の前に飛び出し、轢かれて死んでしまう。
    <創作者の家>で長いこと仕事をしている、碑文彫刻師がいるので、彫刻師が石棺を作ってくれ、その石棺に入れて埋葬する。
    それだけの話です。作者は、何が言いたかったのでしょうか。ブラフマンをほっといて、雑貨屋の娘の相手をしたのがいけなかったのでしょうか?

  • 言葉を話すことのできないはずの動物の声があたかも聞こえてくるかのような主人公。
    ブラフマンとの深い交流が描かれている。

    至る所に「死」を暗示するキーワードがあり、
    それはまた「生」を知る上でのキーワードになっているかのよう・・・

  • 何冊か読んだ小川洋子の作品の中で、この本は少し趣が異なる作品だ。小川洋子と言えば「記憶」ということに強いこだわりを見せる作家であると認識していたのだが、この「ブラフマンの埋葬」の回りで巡っている自分の思考の中にそのキーワードに該当するものは無いように思う。

    もうしばらく前にこの本は読み終えているのだが、なかなか感想が書き出せないでいる。どうも読み終えた後に良くも悪くも普通ならコップに水を満たすように溜まってくる筈の感情や思考の端くれみたいなものが、一向に満ちてこない。何か見落としているのだろうか、あるいは何かとてつもない勘違いをしているのだろうか、と少し不安ですらある。

    確かに、小川洋子は自分にとって読み易い作家ではない。作品が、そして、作者が、余りにピュアであるように感じるので、少し本に熱中してしまっている自分を発見すると気恥ずかしくなるのだ。ぶるぶると身震いをし、こっそり当たりを見回して誰にも見られていないのを確認したくなるような気にさせられることが多い作家なのだ。それでも、これまで読んだ本はどれも何か心の器に静かに溜まってくるものがあったし、特に「博士の愛した数式」はとてもよかった。その純粋さゆえ、登場人物が全て能面をつけているかのような印象になりがちな作品が多いように思う小川洋子だが、この本ではどの登場人物の表情も柔らかく、熱があり、寂しさが滲んでいた。ところが、この「ブラフマンの埋葬」は、どの人物にも表情が、ない。

    隔絶された小さな村。かりそめに住まう人々。誰一人として、存在感を持つことのない登場人物たち。最もこれは、小川洋子の好んで描く設定でもあるので、それ自体が格別悪いわけではない。しかし、そこに沸き起こっている筈の感情の波が感じられない。その村にいる唯一の本当の住民。外の世界との接点である雑貨屋。その主人と娘。更にその外側の世界との接点である鉄道の駅。二重三重に守られたその村と同じように、本に登場する人物の感情はあくまでも伏せられている。もちろん、多少の浮き沈みは描かれるのだが、弾力性に富んだゴムの塊をつぶした時のように、それは直に元の形に戻ってしまい、全体を通してあたかも沈黙が保たれているかのような印象が残るのだ。住人たちは互いに慎重に相手との距離を測り、相手の感情を揺さぶらないように気を付けている。まるで、うっかり踏み込んでしまうと、切れ味の鋭いナイフですっと自分の体を傷つけてしまうのではないかと怖れているように。

    そんな中で、唯一他人の感情に気を取られることもなく、自らの感情を思いのままに表出させているのが、ブラフマン、という不思議な生物である。それは犬のようでもあり、あるいはまた、地球上の生物ではない未知の生き物のようでもある。しかし不思議なことに主人公である青年はブラフマンの気持ちの波を敏感に感じ取れる。そしてその感情の波に軽く翻弄されていることすら喜んで受け入れている。ブラフマンもまた青年の行為に対して素直な反応を返してくる。青年とブラフマンは密かに心を通いあわせているようだが、実は、それは確かなことではない。単なる幻想に過ぎない可能性もある。

    ああ、そういうことなのかも知れない。小川洋子が描いているのは、他人との関係ということなのかも知れない、と今気づいた。

    相手と解り合えているかどうかなんて、しょせん自分自身の中での堂々巡りの考えの果てに行き着く2つ選択肢の1つに過ぎないし、それを確かめる手立ては存在しない。そのことを極端に描いてみせたのが「ブラフマンの埋葬」であるのかも知れない。本の中に登場する青年と人とは相手のことを考え過ぎるが故に返って解り合える距離まで接近することなく、相手に感情というものがあるのかどうかすらはっきりしない生き物であるブラフマンとは、何も気にすることなく束の間の「解り合えている」という幻想を楽しむことができる。そして、訪れるブラフマンの死。皮肉なことに、その死は、青年が密かな恋心を抱く雑貨屋の娘と最も接近した時に起きてしまう。

    しかし、何か消化しきれない感情の澱が残る。もちろん、そういう澱が残ってもいいのだけれど、何かしら居心地の悪さから逃れられない。いつまでも体をぶるぶると振るわせないではいられない気分がまとわりつく。きっと自分は何かを見逃しているのだろうと、また、思う。

  • 静かすぎる。まるで長い詩みたいだ。たいてい小川洋子作品には彼岸と此岸を繋ぐ異形のものがメインキャラに添えられるが今回は人ではない。あれかもしれない、いやこっちの方が近いと想像は膨らむが、生物分類学上の設定などは何も意味がない。だからその生き物がなにかは最後まで明確に提示されない。正解だ。
    孤独と清謐にわずかにしかし明確にある暴力と裏切り。涙こそ流れないが、胸を突き刺してくる。

  • 文学

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著者プロフィール

1962年、岡山市生まれ。88年、「揚羽蝶が壊れる時」により海燕新人文学賞、91年、「妊娠カレンダー」により芥川賞を受賞。『博士の愛した数式』で読売文学賞及び本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。その他の小説作品に『猫を抱いて象と泳ぐ』『琥珀のまたたき』『約束された移動』などがある。

「2023年 『川端康成の話をしようじゃないか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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