- Amazon.co.jp ・本 (298ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062139441
作品紹介・あらすじ
この苦が、あの苦が、すべて抜けていきますように。「群像」連載時より大反響の長篇詩遂に刊行。
感想・レビュー・書評
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とげは抜けども増すばかり。されど言葉の花が咲く。
表紙の赤はバラか、それとも血の色か。歌って頂きましょう。伊藤比呂美、とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
こんな小説、
読んだことがない。
最高です。
「苦が、苦が」
というあたりが、
もう面白くてしょうがない。
伊藤比呂美は、
今まで良い読者じゃなかったけれど、
これは面白い!!
マジで、
こんな小説、初めてだあ!!
しかし、読むのに、もの凄く時間がかかった。 -
女性生理を赤裸々に表現したインパクト、
それからの成熟。
とりあえず必読です(^^) -
日記のような詩集のような。
心にはまる。 -
フェミニズム華やかなりし頃、布で作ったたくさんの女性性器の花のようなオブジェの展覧会があったっけ。「あたしって便器」と言い放った伊藤比呂美の最新現代詩集は、やっぱりすさまじく過激で私は正直ついていけない。再々婚同士の外人夫と父親の違う娘たち、ボケはじめた両親の介護でカルフォルニアと熊本の往復・・。体力ある人だ。この詩集は他者の著作を声として拝借しているので独特のリズムが生れている。生きることにがむしゃらで全ての恐れの前に立ちはだかっていく凄み。性から生へそして死へ。石牟礼道子さんとの対話の再現が印象に残る。
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"まだ生きてはおりますが、もう存在しません。対面してるそれは、影のような人でした。でもむかしは自分の母でした。これを孤独というのはあまりにもおおげさだ。母なんか、理解してもらったことも、期待したことも、なかったような気がする。でもここで、この濡れ濡れの木や苔の中で、あい子を抱きかかえながら生きているわたしは、たしかにわたしである、と考えおよんでいきましたら、とてつもなく寂しくなりました。"(p.136)
"問題のありかはわかってるのにそれを夫と話し合うことができないんですよ? 正直な気持ちをつたえることもできないんですよ?"(p.90)
"こんなに甘いものを食べなくちゃいけないほどここの人々はせつなく生きてるのか。"(p.45) -
強く繰り返す言葉たちがある。リズムと心の痛さ。彼女はどこまでも女を生きる。
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エッセイ・散文調に書かれてはいるが、スピリットはまるで詩?のような、ちょっと形容できない伊藤比呂美の文章。
最初から最後まで伊藤比呂美全開・・・カリフォルニアから熊本県に毎月のように通って老いた母や父を看て、10歳の娘を日本の学校にいれ、アメリカの東のほうの大学にいる拒食症ノイローゼ気味の真ん中の娘をいたわり、歳の離れた老齢の夫の世話を焼く。家には犬やら植物やら、ケアの必要な生き物がほかにもいろいろ居るので、この詩人は大変忙しい。しかも、普段は異文化でユダヤ人の夫とともに生活してるわけだから、一神教の西欧文化と日本の「お地蔵様」崇拝文化との狭間でいろいろ考えたりする(ほとんど悩みに近い)
そんな人生ぜんぶ、言霊を作るかのようにことばに込める。詩人だから、そういう仕事なんだろうけど、この人は本当にことばを作るために生きてるみたいだ。
ことばが伊藤比呂美・・・っていうのは、詩人としてはすばらしいことなんだろうなと思う。
読む人は、そういう壮絶なことばを通して、人間の本質みたいな、死や生を想う。
死ぬってなんだろうって考えたら、伊藤比呂美は文学を読む。それも日本の古典(古典フェチ気味だけど、この人の訳は面白いんだよね。勉強になります)。
何のために文学を読むのか、詩を読むのか、小説を読むのか、っていったら、それは生とか死とか愛とか性を知るため。私の知らないことを知るため。そういう姿勢が、伊藤比呂美がつむぐことばの中にしっかり息づいていて、私は心底、この人すごいな~と思う。