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この作品に関連する談話室の質問
この作品からのみんなの引用
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周りの白い部分(そこを英語だとmarginといい、その余白への書き込みのことをmarginaliaともいうと、なにかの雑談で話すと、それは文化人類学者や建築家の友人たちと、たまたま周縁性ということを共通の話題にしていた頃だが、周りの者のいうことを聞き流して自分の黙想のなかに入るようだった篁さんが、しばらくして「マージナリア」という深い美しさの新作を発表した。(中略))と本の斜めに支えている自分の、指と腕頸その向こうの書棚まで、60度に割っている円盤がサーッと崩れた。
― 162ページ -
アサの憤激の言葉が、自分をいくらなかりと平常な心の働きに戻しているのを感じもした。
― 414ページ -
続き)そうなれば、エリオットの原詩と、あいまいなところのある深瀬訳とが、この上なくしっくり合体する・・・ その上でぼくが納得したのはね、自分がこのような老年になって日々の崩壊にさらされているから、つまりこれが実感されることになっている、ということです。 気が付いてみると、ウナイコがしっかりしたその鼻梁の両脇に、盛大なほどの量の涙を流していた。(中略)私は、このまま君が連れて帰れ、と身ぶりを示した。ウナイコがなお涙を流しながら、おとなしく立ち上がり階下へ導かれて行くのを、私はシュンとして見送った。
― 355ページ
みんなの感想・レビュー・書評
大江を読むのは二冊目。敬遠していたわけではないけれど、なんとなく読む機会がなかった。
でも、今回読んでみて思ったのは、大江の文章はうまい、ということだ。一冊目を読んだ時の感想は忘れてしまったけれど、ああ、こんなにいい文章を書く人だったか、と改めて思った。
内容は多分私小説的なのだろうと思うけれど、そして私小説自体には興味がないけれど、彼はまさに純文学作家として、内容よりも言葉で勝負をしている。内容が無いというのではなく、日本語はこんなにも美しい、ということだ。
作品が発表されてすぐ入手したが、読むのをずっと中断していた。このたび一挙に読み終えた。 思いっきり大江健三郎ワールドなので、大江健三郎の著作をこれまで読んでいない人が読むとちょっときついかもしれないが、丹念に読めば、大江健三郎の入門として最適かもしれない。2010年3月に放送されたNHKの100年インタビューを見てから読むと背景など良く理解できるのではないか。 主人公は、長江(ちょうこ... 続きを読む »
大江さんはテレビのインタビュー番組などで、最初に書いたものからどんどん書き直していって小説に仕上げる云々、とおっしゃっていましたが、作りこまずに最初に出てきた"Raw"なものに、一読み手としては非常に興味があります…。正直、中盤飽きてしまった…。私小説的断片のみ、面白かったです。
ウナイコの扱いが謎すぎる。最後、あんなに簡単に強姦されるかな?何かの象徴なの?だとしても納得いかない。
それ以外はよかった。やっぱり好きだ。
最近、香川照之さんが好きです。草野正宗さんとか、大杉漣さんとかが好きだったんですけど、一年ほど前、『坂の上の雲』で正岡子規氏(卒論のテーマにもした)を演じられた姿が、私の思っていた子規どおりの姿で、それでとても気にしていたら、その次の『龍馬伝』では、全く違う役柄で演じられている姿が、面白くてすっかり好きになってしまいました。 清潔感のある、香川さんの姿が勿論よいと思いますけど。(笑) ... 続きを読む »
長江古義人が出てくる大江健三郎の私小説的小説。さくさくと読み流せる本を読みつけている頭にはこれを読み終わるには多少の努力が必要。でも大江小説は死ぬまでには読んでおくべきものだろうな。
大江さんのことを何も知らずに読んだので,びっくりしました。とても奥の深い人生が書かれていたような気がします。読んでよかった・・・
村上春樹があれほど売れるのであれば、大江健三郎も同じくらい売れてもいいのにな、と心底思う。ある意味で、村上春樹の物語性も大江健三郎のそれも、共通している部分が多くある。と僕は捉えている。テーマとして、何を書きたいのか、という部分においても。非常に似通ってやしないか、と。そして、今、僕が読みたいのはこっちだな、と。アンチクライマックスであり、アンチカタルシス。しかし、そこには確実にクライマックスが存在するし、カタルシスも存在する。矛盾。レートワークから僕は大江健三郎に入っている、潜っているわけだけど、作中にあったような、読み手を限定してしまっているような、感触はない。わからなくても、大体わかるし、そこには確実に面白みがある。この感じで、僕は上流に上流へと遡上していこうと思っている。(10/4/25)
2010/04/21
時間のあるときに詳しく書いてみたい。
メモ
・「晩年の仕事」としての「水死小説」の挫折と昭和の精神、「こころ」の先生の明治の精神
・「長江先生」の船出と、映画「メイスケ母出陣」、ウナイコの強姦、妊娠、堕胎からの国家への一揆としての「死んだ犬を投げる」芝居
ここの2つがまだ頭の中でつなげられていない。この2つをつなぐのが、老いた自身と、老いを迎えはじめたアカリを「森へ帰す」手続きそれ自体なのだろうか?
父親の死をライフワークに、四国の森の民話と現実をない交ぜて、男のあるいは国家の横暴、強姦に反旗を翻す。
「死んだ犬を投げる」芝居を見てみたい。
学生時代に数冊読んだきりだった大江氏作品を久しぶりに読みました。平易ですが、やはり私には難解です。突き詰めて考えた経験と突き詰めて考える力がない所以であると思います。私にくみ取れたのは「父の死に対する責任」と「アカリさんの行く末への心配」。情けな。
後期大江健三郎の小説を読むのは初めてなのだけど、これが「レイト・ワーク」だとしたら、予想していたのとずいぶん違う。70年代の大江のように、ユニークな秩序の世界に想像力で引っ張っていくような内容ではない。むしろ一人の人間が生きてく中で降りかかってくるさまざまな重大事を、練達の筆致でもって全体に書いていく、素晴らしい「仕事」だと思った。一つの小説でここまでできるのか、と。
大江さんらしい作品
明治の精神、昭和の精神(戦前の精神、戦後の精神)があるとして、平成の精神とはどんなものなのだろうか?

装丁が、本編の中でキーとなる「赤革のトランク」を模したものであることに気付いたとき、わたしは駅を出て小脇にそれを抱えていたので、
トランクを携えている気分になり感慨深かった。
古義人にやっと父...






