ヘヴン

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著者 : 川上未映子
  • 講談社 (2009年9月2日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (258ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062157728

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ヘヴンの感想・レビュー・書評

  • 苦しくて、痛ましくて、二度と頁を開きたくないけれど、胸に突き刺さる物語。

    「ロンパリ」と、斜視で生まれてきたことが罪であるかのように罵られ、
    筆舌に尽くしがたい暴力に晒される日々を送る中二の「僕」。

    別れた父を忘れないための「しるし」として、敢えて汚れを身に纏い、
    「わたしたちは仲間です」と僕の筆箱に手紙を忍ばせ、
    自分と同じように苛めに静かに耐える「君の目がとてもすき」と言うコジマ。

    ふたりは手紙で心を通わせ、時にはふたりきりで会って励まし合いながら
    教室では目も合わせず、まるで弾圧下のキリシタンのように苛めに耐え続けるけれど

    「したいからするんだよ」「良心の呵責みたいなものなんてこれっぽちもない。」
    「僕にとっては苛めですらないんだよ」としれっとして言い放つ、
    苛めの影の首謀者 百瀬の態度に端的に表れているように

    人間サッカーボールとして蹴られて血みどろにされても
    暴力で報復しようなどとは露ほども思わない僕の倫理も、
    人を苛めるしかない人間のためにも、美しい弱さで苦難に耐え
    乗り越えることこそが自分の使命だと信じるコジマの自己犠牲も、
    酷薄な苛めを積極的に続ける人間には届かない。悲しいけれど。

    「理論武装」という言葉をそのまま3D化したかのような百瀬の
    自分が思うことと世界の間には関係がない、という主張はある意味正しいけれど
    だからといって、自分の価値観の中に相手を引きずり込めた方が勝ちと嘯き
    そのためには手段を選ばない、彼のような人間が病巣となって
    悪意が蔓延していくような世の中になったら・・・と思うと、ぞっとしてしまう。
    斜視で全てのものが二重に見えてしまう僕よりも、
    自己犠牲に酔って壊れていくコジマよりも、百瀬がいちばん病んでいる。

    雨に打たれ、痩せた身体を晒し、自己犠牲の恍惚の中で苛める側に微笑むコジマにも
    コジマが好きだといった斜視を手術で治してしまったことを懺悔するかのように
    はじめて像を結んだ世界の美しさを誰とも分け合えないと思う僕にも、伝えたい。

    身体の不自由さや、不幸な環境を敢えて維持して繋がって
    痛々しいほどの自己犠牲に耐えてまで、理不尽な苛めに対抗することなんてないんだよ。
    「目なんて、ただの目だよ。」と言ってくれたお母さんや
    たった1万5千円で済む手術の可能性を知らせてくれたお医者さんのように
    今、手に入れられるものを素直に健やかに受け入れて自分を救うことで
    大切な誰かに手を差し伸べられる人にだってなれるんだよ、と。

  • もし自分の子供がいじめられてたら、学校なんか行かなくていい、と言おうと思っている。
    では、自分が教師だったらどう言うだろう。いじめられてる子どもを守れるだろうか。ニュースや新聞で見るような無責任な教師には絶対なりたくないと思いつつ、どうすれば子どもたちを守ってあげられるかが分からずにいる。
    無闇に助けても、裏でいじめが悪化してしまうこともあるし、その場しのぎの仲直りなんて無意味だ。
    わたしが教師だったら、学校だけが全てじゃないと言うことしか出来ないかもしれない。
    学校という場所は、不安定な気持ちが子どもの数だけあるから、難しい現場だと大学で勉強をしながら、常日頃感じている。
    とても身近なものになってしまったいじめについて、もっとしっかり考えていかなくてはいけないと、強く考えさせられた。

  • *********************************************
    「ヘヴン」(川上未映子著/講談社)
    *********************************************

    川上未映子は神を殺した。

    「ヘヴン」は恐ろしい作品だ。それは単なるいじめに関する物語ではない。今回の評はその恐ろしさについて記したい。だからいわゆる「ネタバレ」などは気にせずどんどん書く。内容を知りたくない人はこの評を読む必要はないが、「ヘヴン」自体は是非手に取ることを勧めたい。

    簡単にあらすじから。

    +++++

    十四歳の主人公の「僕」は斜視で、中学で日常的にいじめを受けている男子。「僕」はあるきっかけで女子の中で「汚い、臭い」といじめを受けている「コジマ」と文通をするようになり、ときどき会っては心を通わすようになる。凄惨ないじめはとどまるところを知らぬが、「コジマ」はそれを「すべて意味のあること」と引き受けようとし「僕」に同志としての連帯と同調を求める。ある日、いじめによる怪我をみせに病院にいった「僕」は斜視が簡単な手術で治ることを知る。それを「コジマ」に告げると二人の関係にはひびが入る。「僕」がなんとか二人の関係を修復させたいと思っていた矢先に、「僕」と「コジマ」の関係がいじめっこグループにばれ、さらなる事件につながり物語はクライマックスを迎える。

    +++++

    さてまずは著者の川上未映子について。「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞し一躍有名になった作家。

    彼女の小説は大阪弁をはじめとする独特の言語感覚が特徴的だ。気になる作家ではあったが、あの文体の方が先に来てしまって彼女の本来の価値が今ひとつ計りかねるというようなところがあった。

    しかし本作は彼女が恐らくはじめて変化をつけずド直球で勝負した長編小説。そしてその破壊力はかなりのものだ。

    あらすじにも書いたし、よく引き合いに出されるが本書では「いじめ」を取り上げている。「いじめ」が描かれる理由は色々あろうがいずれにせよ小説などの創作においていじめがテーマになる場合、その表現は目を覆いたくなるような凄惨なものでなくてはならない。さもなくばいじめの先にある苦悩や人間の本質を描くことなど到底できないからだ。

    そういう意味では本作では虫唾が走るようないじめがきちっと書き込まれている。そしてそのいじめの「加害者」と「被害者」の意識レベルの差も見事に表されている。

    しかし本書は必ずしも「いじめ」だけを題材にした小説ではない。もちろん「いじめ」は中心に置かれているが同時に「善悪とは」という哲学的な問いかけもなされている。

    あまり指摘されていないようだが、本書では主人公の「僕」の他に二人の重要人物がでてくる。一人はいうまでもなく「コジマ」だが、もうひとりはあらすじには名前は登場してこないが「百瀬」といういじめっ子グループの一員だ。

    「僕」へのいじめの中心には二ノ宮という男子がいるのだが、「百瀬」はいじめグループの中でどこかクールで超然とした雰囲気を持つキャラクターとして描かれている。

    あるとき「僕」は病院の待合室でたまたま「百瀬」に遭遇し、高ぶる感情を抑えきれなくなり思わず彼に詰め寄る。そこで「百瀬」は「僕」の詰問にことごとく反論する。

    ***

    「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」

    「放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ」

    「君のことをロンパリと呼んでるのも知ってる。でもさ、そういうのってたまたまのことであって、基本的なところでは君が斜視であ... 続きを読む

  • 胸がざわざわする。

    いじめがテーマ、という時点で、
    気が重いな、直視したくないなあ、と思うのはきっと
    私だけじゃあないはずで。

    主人公くんは斜視で、それを原因にいじめられているんだけれど
    それにはきっと理由なんかないよ、
    仕方ないだろ、ただお前はやり返せないんだろ
    それだけなんだろうと言い切る「たまたま強者でラッキーな」いじめっ子サイドの百瀬くん。
    それには意味がある、わたしたちの護っているものは美しい弱さで
    誰もがいつかそのことに気付く、と信じ込むことで
    自分を守ろうとする、同じくいじめに遭っているクラスメイトのコジマ。

    この物語の主人公はなんというか、あくまでも猿回しで
    百瀬君とコジマちゃんの存在感がやっぱり圧倒的。

    いわゆるいじめのシーンも盛りだくさん、
    リアリティも盛りだくさん、
    ただしそれを、誰かしらの行動によってではなく
    思想によってのみ進行させていくという物語の形は新しい。
    そして、読んでいてつらい。
    タイトルに反して、救いの予感なんてぜんぜんなくって、
    ページをめくりたくない、とすら思いながら読んだ。

    最初のところ、コジマから渡された手紙は
    6Bの鉛筆で書かれたような文字でうすく書かれていて、
    何かを切らないと正気を保てないといったかのじょに、
    なら僕の髪をきればいいよと主人公が言うシーンなぞは
    美しい友情ここに極まれりという、この物語でいう絶頂の時なのですが
    そこからは下降の一途です。
    コジマは弱さと儚さのかわりに強さと狂信を身につけ、
    主人公はそんなコジマと相いれないものを感じる。
    百瀬君に抗議してみるも、たまたま運のいい彼の、諦観ともいえる
    理論を論破できない。

    百瀬君の理論は、
    彼がそういうふうに生まれてついているから
    たまたま言えるだけであって、
    驚くほど他者への想像力が欠落していて、それを仕方がないものと
    思っている彼のような存在たちは、一度、手ひどい目にあわせなければ
    わからないのかもしれない、とまで考えてしまう。

    なんていったらいいのかな、
    誰もが目を背けたいところに、体当たりでぶつかられてきたので、
    つい目を向けなくちゃあいけなくなりました、という感じ。
    意欲作だと思うし、問題作だと思うし、きちんと文学している。
    話題になるのもわかるし、評価されるのもわかる。

    ただ個人的にはもう読みたくない。
    このなかに目新しいなにかを見つけられたわけではなかったし。

  • 人間のありかたと社会との関わりを根本的に問い直す本。読みやすい文章で率直に様々なことが書かれている。乳と卵の前衛性とは随分違った、率直で正統派の雰囲気に驚かされた。
    内容は、端的に集約すれば、コジマの主張と百瀬の主張にある。しかしこの本はその正反対なあり方のどちらを取るかに重きが置かれているわけではなく、両方の間揺れ動きながらただ結末を迎える。コジマの主張は揺るぎなく強く美しいが、現実味を欠いた部分があり、特に最後のくだりではひとりよがりさも露呈したかな、という印象。一方の百瀬は、達観していて現実的だが、どこまでも冷酷ではっきり言って人間の情のようなものがかけらもない。こちらも、自分は自分、世界は世界というある意味のひとりよがりの側面も見える。どちらが正しいとかではなく、極論に近いものをふたつ並べることで、自分の求める真理や正義のようなものに近づいていくという姿勢は非常に学問的であり文学的であり、ストーリーも面白い上ここまでの内容を含むという本はなかなかないと思う。
    個人的には、あえて語られていない様々な伏線が気になります。僕がトイレで聞いた二ノ宮と誰かの声。体育の授業をいつも休んでいる百瀬が病院にいた理由。百瀬の妹について。二ノ宮の百瀬への過剰な反応。またコジマや僕の家庭環境についても、描写はあったけれどもまだまだ設定はあったのに出し切っていないような、そんな印象を受けました。小出しにするのがとても上手い。ひとつ言えるのは、百瀬はかなり死に近いものとして存在しているかもしれないということ。それこそが百瀬の主張を固める素材なんじゃないかなあ。どちらにしろ、色々な側面から見てとても上質な小説だった。もう一度読みます。

  • 私が言葉に出来なかったことが、この本に書いてあった

  • 重い・・・。
    色を感じない本でした。
    見えるのは血の色と、アロハシャツの色。

    装丁って、本そのものなんだなぁ・・・。

  • 良かった。いや、読んでる最中はいじめの描写が辛かったけど。
    聖痕のことだったんだな。しるしって。全然気づかなかった笑
    コジマは悟りを開き、百瀬は達観している。でもどちらも未熟で偏ってる。主人公が健全なことに救われる。周りに引きずられ、惑わされ、でも、極端に偏らない。
    大人は頼りにならないけど、大人に頼れば解決することはそれでも意外とある。世界は子どもが思うよりは広いんだよ。と、この子たちに言ってあげたい。

  • 苛める人間と、苛められる人間が存在してしまう理由、どの強さが本当の強さなのか、どうあるべきなのか。
    どの答えも、肯定も否定もせず書いているところが良い。

  • クラスで男子から陰湿ないじめを受けている僕。同様に女子からいじめを受けるコジマがいた。2人は手紙を通じて、隠れて会うようになる。互いに心の拠り所は出来たが、いじめはエスカレートする一方。そこへ、ある出来事をきっかけに2人は気持ちがすれ違い始め-。

    いじめを題材にした本作。生々しいいじめシーンはやっぱり読んでいて苦しい。教室という狭い空間で生きる、いじめる側・いじめられる側それぞれの言い分と世界観。ここではない別の世界に行くには、そんな方法しかなかったのか。

    不条理さと、何とも言えない苦々しさが後に残る。

  • 最初っから軽いなーなんかと思いながら、なんとなくほのかな村上春樹臭を感じつつ、途中まで読んでるのだけど、村上春樹的に書いて村上春樹を越えられる人ってほんとにいないな。
    などと思いつつ読んでいたら、p.49の「その小さな長方形は暗闇の中で僕にむかってぼんやりと温かく光りかけているような気がした。手を伸ばせばその光にさわれるような気がした」というくだりで、『ノルウェイの森』の蛍を思い出し、『ノルウェイの森』をぱらぱらめくってみた。
    「蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。僕はそんな闇の中に何度も手を伸ばしてみた。指には何も触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんのすこし先にあった」
    引用終わり。うーん、たまたま思いつきがかぶってしまうとか、読んだものが自分の内部に深く沈んでいて、書くときに浮上して来て、読んだもののことは忘れてた、とか当然あるとは思うんだけど…ちなみに『ヘヴン』の上で引用したのの続きは「そして僕が書いた手紙もコジマがつらい気持ちのときにそれをやわらげ、こんなふうな気持ちにさせるものであったらいいのになとそんなことを思った。」と締めくくられている。『ノルウェイ』と方向性は違うけれど…でもあそこで『ノルウェイ』を思い出し、そのせいで川上未映子の筆の力及ばず感を思わずにはいられないという人も必ずいると思う…。まあまだ全部読んでないわけだけど…。うーん。『ヘヴン』執筆の様子は情熱大陸で見たのだけど、なんかなーと思ってしまった。あれだけ背後の本棚に哲学書を並べておいて、これかよっていう。川上未映子さんのことをネットで調べていたとき、『わたくし率…』がなんかの著作の盗作である、みたいな記事が出て来て、その時の「検証してみた」みたいなところでも、今の私があげたのと同じような調子の似通い方をしていた。盗作うんぬんとは思わないけれど、もし似通っていても全体のエネルギーが強かったらそんなに気にされないような気もする。中途半端に弱いから、読者が似通っていて、かつ川上未映子より強烈だった文章の記憶を呼び起こしてしまうというか。
    「ヘヴン」が私の求めている「ヘヴン」からは大分逸れていて、私はちっとも救われなそう。

    なんとなく読んでいて、「書いているのが辛そうだな」と感じることが多かった。そういう自分の中の空白になってしまう部分を埋めることができるかどうかが作家としての大きな分岐点になると思う…。情熱大陸を見た限りだと、締め切りを踏み倒しに踏み倒して旅館に缶詰になって書いたりしたらしいがこの小説のテーマである「いじめ」という壮大なテーマに対する彼女なりの答えがないように私には読めて、私が虐められてるときにこの本読んだらなんか救いになるか?って疑問になった。私との相性が悪いということもあるかもしれないけれどこの人にはいつも「核」がない気がする…

  • いじめと戦うありきたりなストーリーかと思ったがそうではなく、いじめられている人間側独特の世界観が描かれている。

    主人公の斜視で世界観が描写され、いじめからの解放と斜視からの解放がリンクする。

    想像していたよりずっと芸術的な作品だった。

  • 冒頭から面食らう。
    前もって知ってはいたけれども、川上さん特有の関西弁が完全に封印されており、それどころか平坦すぎるくらいな標準語がいきなり連ねられていた。
    「乳と卵」とかの感じが大好きな私にはそれだけでちょっとだけ物足りないような気がしたけど、今回の話は「善と悪」がテーマだからそこは問題じゃないんだろう。

    苛めのシーンは凄惨の一言。
    クラスで苛めを受けている主人公は、同じく苛められているコジマという女の子に手紙で呼び出され、そこから二人の交流が始まる。
    二人のやりとりがこの小説の主軸と言えるだろうけど、私が一番印象に残ったのは主人公といじめっこグループの1人・百瀬との会話だった。
    「どうしてこんなひどいことができるんだ」という主人公の問いに対し、「できることはできてしまう、それだけのシンプルな話。それぞれの都合と解釈の中に、どれだけ人を引きずりこめるかが問題だ」と、答える百瀬。
    憎らしいけど、百瀬の言う通りだと思った。
    AVの例とか頷けてしまった。どんな父親も自分の娘がAV出ると言ったら止めるだろうけど、誰かの娘である女が出ているAVは平気で観てるっていう話。
    考えようによっては、コジマだってそうだ。自分と同じ境遇の主人公に、自分の解釈を押し付けている(最後の階段のシーンではそう感じた)。主人公の斜視の目は、それが主人公たる「しるし」だと。それを手術する可能性をちらつかせただけで、コジマは号泣し、「君は仲間だと思ってた」という言葉を残して、口を利かなくなってしまう。
    小説中、主人公が何度も反論するのと同じように、自分も百瀬の主張には頷きたくなかったんだけど、納得してしまった。なんだかんだ、それが世の中だなって。このモヤモヤは圧倒的だった。

    だけれども、14歳だからこその視野の狭さが各所で感じられた。
    主人公にもコジマにもいじめっ子達にも。たとえば、主人公が自分の目はもう治らないと思い込んでいるところとか。いじめられても学校に行くしかないと思っているところとか。
    14歳の頃って、あんなに未来を想像できなかったっけ。「今がすべて」って感じだったかな。もう思い出せないけど。
    そう、こうやって大人になったら、忘れてしまうんだ。
    「手術したら、自分が斜視だったことも思いだせないくらいになるよ」
    主人公はそれを眼科医の先生に教えられて、やっと未来の存在に気付いたんじゃないかな。

    自分の世界をガンガンしゃべってくるコジマに、初めは頷いてばかりの主人公だったけど、だんだんと自分の意志を固めていくのがわかる。
    だからこそ、彼は最後に斜視を治す手術を受けた。
    コジマが「すきだよ」と言ってくれた、斜視を消し去った。
    夏、二人の道は一度は交わったけれども、またすれ違い、違う方向に進んでいった。これからの人生で二人の道が交わることはあるのだろうか。

    斜視だった主人公の目が元の位置に戻り、像を結ぶ世界に涙を流すラストは感動的。
    だが、最後の最後の文章で、彼がこの夏から秋にかけて、決定的な傷を受けてしまったことを知る。
    「映るものはなにもかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった。」

    あるいはかさぶたになって、彼自身の一部として生き続けていくのかもしれないけど…。

  • 読み進めていくうちに人それぞれの思考の違いと狭さに少しずつ違和感を感じてくる。
    それは子ども達の心は孤立化しているって感じたからだ。 
    例えるなら感受性豊かな十代は、 細くて長い橋をメーター振り切って猛スピードで通過しているものだ。 
    自分の思惑に歯止めが効かなく、 幼い…それゆえに精神が追い詰められたり矛先がイジメになったりするんじゃないかなと、 
    大人と呼べる年になってみても誰のどれが正しい考えって正解はなかなか選べないけど
    第三者の目で読むからコジマの、百瀬の、そして主人公の僕の危ない所が見えてくるんだろう。 
    しかし、 現実だと一人一人の感情の渦が幾重にも複雑に絡み合って自分の思惑とは違った波に流されて自分でもわからぬまま行き場のない気持ちを抱えて佇んでしまう。
    視野の狭い十代の君たちに大人はどう接したらよいのか… 十代の子どもを持つ母親として読んでいた。 
    最後は希望で満ちていて良かった。 
    きっとこの物語の続きも現実を乗り越えてゆくのが大変だと思う でも生きて長い時を過ごしていって欲しい。

  • 自分の世界というか範囲は自分が決めるもので、その枠はちょっとしたきっかけさえあれば自分で越えられる。
    コジマが枠を外させないように語り掛けても、お母さんがあっけらかんと話しても、結局自分の意思とかどうしたいとか決めるのは自分で、周りの強制力に従うしかできないと思っていても、まあ、そうでもないかも。
    しかもそのきっかけって意外と単純で、見るか見ないかだけなのかもしれない。

    ・・・というのがテーマ、かな?と感じた。

  • 川上未映子さんは大好きだけど、これはどうも好きではない。
    大阪弁の語り口で毒があって、クセがあって、思考をこねくりまわして、、、というあの独特の世界感は全くなく、標準語の普通の物語。
    その分、ストーリーに惹きこまれればいいのだけれど、苛めが題材。最初のほうはまだよかったけど、後半は中学生なのに賢すぎてどちらかというと川上さんの苛めに対する意見を聞いているような印象。身体的特徴や身なりに何か特別なものを背負う登場人物たち。私には共感できず物語に入りこめなかった。最後の公園での出来事は全く意味がわからない。「僕が見たコジマの最後の姿だった。」と匂わせながらも何も回収することないし、その前後でそれを読者に想像させようという雰囲気すらない。
    ちょっとガッカリでした。

  • 初めて川上未映子を読む。阿部和重と結婚したというので興味を持ち…(不純)
    主人公は斜視のため苛められている中学生の男の子。同じように苛められている女の子と心を通わせていく。でも最後には…
    私にとって魅力的な登場人物はお母さんだった。子どもに対して隠してたことを隠してたと言える正直なお母さん。このお母さんがいるから彼は救われた気がする。

  • 苛められている「僕」とコジマの交流。中学生らしからぬセリフと、いくつか謎が残ってしまったのが気になったけど、まあいいか。意味とか正しさなんて、ただ「それだけ」でしかない。ここにあるもの、この世界で生きているということがすべて。「僕」にとってコジマは大切な友達。ただそれだけ。最後の1ページが心に残った。

  • う〜ん,一気に読んだんだけど,気持ちよく読めなかった。不快で疲れた。

  • いじめられている少年と、その同級生で同じくいじめられている少女の話。理不尽で情けなくてイライラしてしょうがなかった。そして哲学的すぎて理解が難しかった部分もいくつか。
    でも、ラストシーンの描写の感動と、少女の考え方に納得させられたことで★3つ。

  • 初川上未映子。
    芥川賞の「乳と卵」も未読。
    なので、どんな作風かはよく知りませんが、うーん、私には合わないように感じます。残念。

    内容も微妙。
    「いじめ」が書きたいわけではないんだろうな、とは思う。それを「正しい」という方向にもっていくことはいいかも。

    でも、いじめる側の考えは頂けないなー。
    残念であります。

  • 「乳と卵」がダメだったのに、懲りずに拝借。

    学校でいじめの標的になっている斜視の男子中学生と、
    同じクラスで同じくいじめられている女子・コジマとの交流と別離の話。

    うん、やっぱりすきじゃないなと思いました。

    「僕」と「コジマ」と「百瀬」と、
    それぞれの考えは一応理屈が通っている気がするんだが、
    特にコジマと百瀬は頑なっていうかね。

    言葉が通じないってこういうことだよなぁと、「僕」と「コジマ」・「僕」と「百瀬」の会話で思っただけでした。

    しかし、作者さんが書きたかったことが何なのかはあたしにはうまく掴めなかったけど、

    いじめを題材にした話は戦争や犯罪被害を題材にした話と同じくらい、

    第三者が何とか言える立場じゃねーよなと思ってしまうので何とも言えません。

    ただ、「僕」の母が存外にまともで強いひとだったのがよかったな。

    どうでもいいけど、
    トイレでの二ノ宮のエピソードや、放課後の百瀬のエピソードは何らかの意図が込められてたんでしょうか。謎。

  • 初・川上未映子。
    本当は「乳と卵」から読みたかったけど図書館になかった。

    中学校を舞台にした、いじめを受けている男女ふたりの話。
    いじめる側、いじめられる側、どちらにせよ
    自分たちが正しい、と思い込むことの怖さ。
    いったんそう思い始めると、自分の中から出られなくなる。
    自分の異形性を聖化し始めてしまう。
    斜視の手術を終えた少年が見たような、
    圧倒的な世界がそこに在る、という事実が見えなくなってしまう。
    出口を「ヘヴン」の中だけに求めた少女は、
    そのまま彼女の「ヘブン」の中から出られなくなってしまった。
    いや、だからっていじめほど胸くそ悪いものはないけど。

  • それは「向こう側」。

    びっくりした。すごいよかった。

    すべてに意味はあるのよと彼女は言って、すべてはたまたまだと彼は言った。
    善も悪も正しさも間違いも罪も罰も権利も義務も解釈も都合も意味も理想も真実も、全部自分に任されているのだということ。絶対なものなんてどこにもなくて、ヘヴンには誰も辿り着けないのだ(もちろんこれさえも川上未映子という一作者の「意見」で、受け入れるかどうかは読者次第だと思うけど)。

    彼女に「すき」と言われた斜視の目の代わりに、「僕」は「美しさ」を手に入れ、彼はそれに素直に感動した。それが正しかったのかそのあと彼がどうなるかではなく、彼がこの物語の結末としてそうすることを「選んだ」ということが大事なんだと思う。

  • 読後感最悪、だったのになぜか惹かれた。どんな残酷な問題にもわたしたちは向き合わなければいけない、と考えさせられた作品。たかがいじめ、されどいじめ。善悪の本質がなんなのかわからなくなった。

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「僕とコジマの友情は永遠に続くはずだった。もし彼らが僕たちを放っておいてくれたなら-」驚愕と衝撃、圧倒的感動。涙がとめどなく流れる-。善悪の根源を問う、著者初の長篇小説。

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