私のいない高校

著者 :
  • 講談社
2.94
  • (6)
  • (26)
  • (50)
  • (17)
  • (14)
本棚登録 : 448
感想 : 68
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062170086

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • なんともおぞましい小説。“私”や“物語”の不在がおぞましいのではなく、それ以外の事象(≒出来事)があまりにも満ち足りており、それが定型句による記述のみで成立することに戦慄した。『私のいない高校』は“ページをめくる”という行為が内包している物語への期待や欲望を悉く裏切る。だからこそ、ページをめくる行為をやめられない。これがたとえばスマホでスクロールしながら読む形式だったら多くの人間が頓挫したであろう。
    二巡する意義のある小説。一巡目は奥付にぶちあたるまで、物語を期待し続ける。いわゆる小説が好きな人ほど、その呪縛から逃れられない。しかし、二巡目はそうはいかない。どんな景色が待っているのだろうか、今からワクワクしている。という期待すらも破壊されるのかもしれない。

  • ストーリー皆無。人格不在。もちろん作者の「言いたいこと」など何ひとつ書かれてはいない。史上最も国語入試問題に不向きな小説の誕生。

    しかし何気ない描写がいちいち面白く、だがそこに物語的な面白さは一切ないと言い切れるのが凄い。描かれているのはただただ、「日本の高校にやってきた外国人留学生の日常」。それ以上でも以下でもない。さも山場っぽく修学旅行が描かれるが、そこには突然の告白も熱い友情もなければ「外国人から見たニッポン」といった類のいかにもな発見も別にない。

    その面白さの質は、まさに我々が日常生活(学生生活)の中で、自分だけにとって面白いと感じる個人的な感触に満ちている。それが極めて平坦に平板にそして意識的に、強弱も緩急も極力排したフラットな文体で淡々と描かれるのみ。修学旅行のラスト、担任教師が口にする「無事、家に辿り着くまでが――」の常套句に代表されるように、「いかにも」な言動と日常的シチュエーションの連続は、まったく小説を前に進めようとしない強い意志に貫かれている。ここまで「物語」という推進力のない小説は珍しい。通常、小説を読み進めるモチベーションとして当然存在すべき「続きが気になる」という感覚が、この作品からは微塵も感じられない。予感も予兆もない世界。正直、僕は中途で二度挫折し、三度目でようやく読み通せた。だがそれは「面白くないから」ではまったくなく、むしろ「この先もいま読んでいる箇所の面白さが永久に続くだろう」という作品への信頼感からくる妙な安心感ゆえだったような気がする。

    人が物語の先を急いで読みたがるのは、通常「この先もっと面白くなるはずだ」という期待を推進力にしている。だがそれは裏を返せば、「この先よりいま読んでいる箇所は面白くないはずだ」という確信に基づいているとも言える。そういう意味で、小説には普通面白い箇所とそうでもない箇所の「波」があるというか、むしろそれを前提として、振れ幅を効果的に利用すべく作られているものが多いが、本作にはその「波」というものがまったく存在せず、「凪」のまま最後まで平行移動する。だが「凪」の状態が充分に面白いのだから、それでなんの問題もないどころか、高いレベルをキープし続けるある種の理想型とも言えるわけで、全体を通してフラットなぶん精度のバラつきがない。結果として、底辺から頂点へと向かう上昇時に湧き上がる一時の興奮ではなく、虚空を漂う浮遊感が継続するタイプの小説になっている。もちろん「起承転結」などというものは知らぬ存ぜぬな顔をして。

    「平坦な日常の描写」という感触はいかにも日記に近いのだが、まったく関心の持てない、キャラクター性をあえて排した人物の日記を、人は普通面白く読めるものではない。だがこの小説に描かれた心底どうでもいい人たちの学園生活は、読者にとってどうでもいいままに面白い。どうでもいい人のどうでもいい話を聞いて興味を持つことは稀だが、たとえば時にファミレスの隣席で交わされている会話が想定外に「ある意味」面白いことがあるように、まったくないというわけではない。たとえば見るからにモテなそうな先輩とそれより少しはモテそうな後輩という男二人組がいるとして、最近フラれて落ち込んでいる後輩に先輩がドヤ顔で投げかける「大丈夫。女は星の数ほどいるさ」という台詞が持つ一周した面白さ。いやそんなシーンはこの作品にはもちろん出てこないのだが、そういう類の「あちゃー」と言いたくなるようなどうでもいいままに滑稽な台詞が、本作には不意にあちこち登場する。そしてそんな稀に遭遇する「なぜか面白い場面」が連続する世界があるとしたら、やはりそれはフィクションの中でしかあり得ないのかもしれず、この小説が描いているのはいかにも平凡な日常に見せかけて、実は日常のふりをした異常な世界だとも言える。

    本作の中心視点人物である担任教師(しかし主役とも語り手とも言えない)は、いかにも先生らしくすべての言動に意味を後づけしたがるが、それはむしろ徹底的に安っぽく、アイロニーとして描かれる。そもそも修学旅行というもの自体、教師側の目論見は文字通り「修学」であるにもかかわらず、多くの生徒にとってそれは第一に「遊び」なのであり、そこに「学び」があるかどうかは結果論にすぎない。そして読者の中にも、教師のように「有意義な何か=学び」を求める人と、生徒のように「面白い何か=遊び」を求める人がそれぞれいるはずで、それは教師や学生が「修学旅行」という言葉をどう捉えているかと同じように、「小説」という言葉をその人の中でどう定義しているかによるだろう。そしてこの小説は明確に、「遊び」を第一に求める後者に向けて放たれている。そこに学びがあるとすればそれは作者も意図せぬ何かであって、作者の意図した何かではあり得ない。

    ちなみに美しい装丁から感じられる「切なさ」の感覚は皆無であり、これもむしろ安易な感傷ばかりを求める昨今の小説に対する皮肉であると受け取れる。少なくとも、即物的な「感動」や「泣き」を求める向きにはまったくお勧めできない小説であることは間違いない。もちろん某かの「意味」や「明日へのメッセージ」、ましてや「生きるヒント」を欲しがるビジネスライクな横着者にはもっとお勧めできない。『金八先生』と『深イイ話』を交互に繰り返し観るべきだ。しかしそれ以外の、まだ見ぬモヤモヤとした面白さを求める勇者には強くお勧めする。

  • 青木淳悟はいつも実験的な小説を書くという印象がある。で、読み始めてしまってから、あれ何でこの本を読んでいるのだったかな、という疑問を抱くことになる。というのも、別に実験的な小説を読みたいと思う程に文学にハングリーな訳ではないからなのだが、その著者の名前の背表紙は何か自分の中にあるものを引き寄せるらしい。

    青木淳悟の小説は事実を述べた文章をパーツのような組み上げる。このあいだ東京でね、も同じような文章群からなる本だった。そういう組み合わせから何かが立ち上がっているのかも知れないのだけれど、それを感知するには至らない。不可解なのである。この小説では「私」という人称で指示される人物が出てこない。それだけのことで他は何も変わらないと言ってしまうこともできると思うのだけれど、何かが動き出す気配は消えてしまう。

    もちろん、それはとても実験的で意欲的なことなのだとは思う。一人称のいない世界を第三者だけで動き回る。ところがとても不思議なのだが、一人称で呼ぶ人物のいない世界は、全ての人が消えてしまってもぬけのからのように見えてしまうのだ。そしてとてつもない空虚な感じが漂ってしまう。その感じには見覚えがある。それは自分以外の存在は全ての自分の脳の作り出した想像の産物ではないかと疑ってかかった時に感じるあれだ。

    そういう小説があってもよいとは思うけれど、どうしても「何故」という疑問がつきまとう。青木淳悟、ますます遠のくような気がしてならない。

  • じわじわくる!

  •  第1回の三島由紀夫賞受賞作は高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』だ。これが面白く、以来、三島由紀夫賞受賞作が気になっている。『新潮7月号』で第25回の三島由紀夫賞受賞作が発表されており、早速、この受賞作を読んでみた。
     帯には「わからない愉しさ」「主人公のいない青春小説」、さらには、「これまで読んだ中で、もっとも不可解な小説」という豊崎由美氏の書評の引用もある。
     この作家の小説は初めて読む。読み進めるのが辛い。語り手という中心が無いことから来るものだと感じる。末尾で、実在する教務日誌に刺激を受け、これを改変・創作した作品であることが明かされている。学校内部の世界に忍び込んだ作家は、いつの間にか自分が消えていることに気付いたらしい。学校という空間は主体が消滅する場所である。集団に呑み込まれる恐怖を本能的に感じ取る感受性の強い生徒は、「私」を守るために不登校になる。哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』の中で、近代の権力構造をパノプティコン(一望監視装置)に注目して分析している。人間は、この装置の中で、絶えず見られているという視線を感じながら、やがて自分で自分を監視する者へと変質する。社会全体が監獄同様に、俯瞰する視線の張りめぐらされた空間となりつつある。監視カメラに馴れた私たちは、実は、すでに監獄の中にいるのではないのか。一望監視装置の偏在する社会の中で、「私」を取り戻すことはいかにして可能か。これが現代社会の課題なのかもしれない。(現在、問題となっている大津市の中学校でのいじめ事件も、こうした文脈の中で捉え直し、学校や教育委員会、警察、さらには社会そのものの中に、いじめを生む構造が内包されているのではないかと疑ってみる必要もありそうだ。)
     話を元に戻そう。私は、この小説を、ある種の「哲学小説」として読んだ。哲学にはどんな語り口があってもいいし、小説はどんな方法も許される。しかし、私には哲学的思考を表現するための方法として、小説という表現形式はいかにもまどろこしく感じられた。(もっとも、こんな風に、あれこれ考えさせられたのは、この小説を読んだからで、感謝はしているのだが・・・)

  • とてもおもしろいです

  • タイトル通り、「私」=主人公がいない高校生活を描いた興味深い小説。
    著者と世代が近いせいか、ところどころ懐かしさを共感出来る部分があった。
    淡々としていて面白かった。

  • タイトルに対して抱くイメージと、書かれている内容にギャップがある。読み終わってみればなるほど確かに「私」がいないのだなとわかる。

    読んだあとで何と書こうか考えあぐねてすぐにレビューが書けなかった。

    留学生を迎えることになった高校の担任が綴った丁寧な日々の備忘録といった内容だ。参考にした記録があるようだ。おもしろくなくはないのだが、もし内容のまま「高校教師の備忘録」などといったタイトルにしてあったら手に取ったかどうか。どこまでアレンジしてあるのか知りたいような気がした。

  • アンネの日記海外留学生受け入れ日誌(大原敏行著)※を一部参照しつつ、全体をフィクションとして改変・創作したものですと書いてあります。高校の先生が書いた日誌をさらに俯瞰している誰かの目線で書かれています。ところどころ担任は…が登場するので。業務日誌や報告書に近い雰囲気があって担任の感情表現がなく、生徒の行動や発言に先生的分析(教育効果のほど)を加え一喜一憂しています。すごく描写がリアルです。誰でも高校時代を思い出すことでしょう。修学旅行に行くという話では最近読んだ悪の教典を思い出すのですが、真逆を行くような何も起こらない話。多くの先生はこの本のように誠実に務めを遂行しているのだろうなと妙にナットク。あえて、つまんないなあと過ぎていく毎日毎年もここまで感情を押し殺して実直に書くと普遍で素晴らしい学園の営みに思えます。※9/13読了

  • 読了後、不思議な気分になる小説です。
    しかしこの言語化できない、腑に落ちない感覚が好きな人には最高の小説ではないでしょうか。

    『群像2011年8月号』に掲載された青木淳悟と阿部和重の対談が、この作品をもっとも面白く読める批評だと思います。

    どっから読んでもすばらしいですが、速読だけはダメです。
    一文一文丁寧に読みましょう。

著者プロフィール

青木淳悟(あおき・じゅんご)…1979年埼玉県生まれ。早稲田大学第二文学部表現・芸術系専修卒業。2003年、「四十日と四十夜のメルヘン」で第35回新潮新人賞を受賞し小説家デビュー。05年、同作を収めた作品集『四十日と四十夜のメルヘン』で第27回野間文芸新人賞、12年、『私のいない高校』で第25回三島由紀夫賞受賞。ほかの作品に『いい子は家で』『このあいだ東京でね』『男一代之改革』がある。

「2015年 『匿名芸術家』 で使われていた紹介文から引用しています。」

青木淳悟の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
村上 春樹
小川 洋子
高橋 源一郎
阿部 和重
西村 賢太
今村 夏子
伊藤 計劃
村上 春樹
本谷 有希子
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×